日本人論の目的

私たちは当たり前のように「日本人論」を受けいれている。

日本人は和を大切にし、集団主義的で礼儀正しい。そういった特質は古来変わらぬ日本人の姿だったと信じている。また教育においても2006年以降、盛んに愛国心教育が取り入れられるようになった。

しかし海外で“Nihonjinron”が論じられるとき、それは国内よりもかなり否定的なものである。科学的根拠のないものが多くエスノセントリズムのエセ科学と見なされることが多い。

国内と英語圏での日本人論への批判を比較したい。

日本人論

まず日本での日本人論についての記述。

日本人論への批判は、国内向けWikipediaでは以下の文のみである。

文化人類学、社会学的研究としての日本人論もある一方で、民族主義的心情に基づく日本人自身による自国、自民族の特殊性を殊更強調するように書いた論考も数多く出版されている。そのため、Peter N. Dale(1986年)やハルミ・ベフ(1987年)[4]、吉野耕作(1992年)ほか、日本人論を文化的ナショナリズムの現れの一形態として批判的に研究する学者もいる。(日本語版Wikipedia「日本人論」

Nihonjinron

以下英語版Wikipedia「Nihonjinron」の記述の引用。

文化ナショナリズムとしての日本人論
Peter N. Dale(1986年)やハルミ・ベフ(1987年)、吉野耕作(1992年)のような学者らは日本人論をより批判的に見ており、社会的政治的安定のための道具と捉えている。例えばDaleによる日本人論は以下である。

第一に、彼らは暗黙のうちに日本人が文化的、社会的に均質的な人種であると想定しており、その本質は先史時代から今日まで実質的に変わらないとしている。第二に、日本人は人種的に他のすべての人々と異なることを前提としている。第三に、日本人論は明らかに民族主義的であり、外部の非日本人からのあらゆる形の分析に対して抽象的あるいは実効的な敵意を見せる。一般的な意味で、日本人論Nihonjinronは個々人の経験と国内の社会歴史的多様性に敵対する、どのような面でも日本の「唯一性」と関係づける文化ナショナリズムの産物であると言えるかもしれない。

内向きの集団が存在すること、20世紀初等の軍事拡大時代に人気が生まれたことから、Nihonjinronは多くの西洋評論家に民族主義的ナショナリズムとして烙印されている。カレル・ヴァン・ウォルフレンはこの評価に賛同してこう述べている。

日本人論のパースペクティブでは、日本人は自らの行動を制限し、「権利」を主張せず、つねに目上の立場の人間に従い、しかしそれは日本人の天性のものだとする。日本人はまるで自分自身を抑圧したくなるような特質をもった脳を持って生まれたかのように描かれている。

(でたなウォルフレン!)

以下はWikipediaではないが、ウォルフレンは少し古い著書「日本という国をあなたのものにするために」において、次のようにも記述している。

「自然に調和のとれる社会」とか、「日本民族の同質性」といった神話は、今もなお残っている。大衆向けの新聞・雑誌では、毎日のようにこの手の考えに触れた文章をみかける。子どもたちは教師から、たえずこのような考えを教え込まれる。
……この思想(日本人論)は「日本文化」として打ち出されるために、実に強力だ。「文化」という言葉が使われると、その民族と深く結びついたもの、変えたいなどと思ってはならぬものとして、尊重するしかなくなってしまう。
……ある現象を「文化」によるものとして片づけてしまったら、それが権力者に都合のよい意識的につくられた仕組みによるものであるかの生から、人びとの眼をそらすことになるのである。

まとめ

日本人は「日本人は特別だ」「日本人は優秀だ」と思いたがる傾向がある。愛国心とは言わないまでも、だれでもそういった自然な帰属意識をもっている。しかしその考えは、しばしば行きすぎることがある。

時代をさかのぼると、上田秋成は「大和魂」を強調する本居宣長を批判して「やまとだましいと云ふことをとかくいふよ。どこの国でも其の国のたましいが国の臭気也」、つまりどこの国でもその国の○○魂はあるだろうと述べた。

日本人論だけではなく、どこの国でも○○人論はある。タイにはタイ人論があり、中国人論や韓国人論がある。そしてそれらに共通するのは学術的根拠がほとんどないということである。こういうと反論もあるだろうが、一般的に海外では、日本人論は他のナントカ人論と同様に学術的に評価されていない。Wikipediaの記述に英語・日本語でかなりのギャップがあるのはそういった国内外の温度差を反映しているからだと思われる。

日本人論は今日奇妙なほど蔓延しているが、幻想は幻想だ。私たちは日本人論によって喜ぶこともあれば、弊害を受けることもある。たとえば「日本人ならばこうしなければならない」と命令されたり、あるいは自らそのように自制するときがある。

Peter N. Daleやウォルフレンの発言の真偽については簡単に結論付けることはできない。しかし、こう注意しておく必要はあるだろう。

「日本人論」は権力の道具――体制維持やマインド・コントロールの道具として利用される危険がある

何か違和感があれば、一歩立ち止まって考えるよう。明日も太陽が昇ると主張する人はいない。「本当のこと」はそう何度も叫ばれないものだ。しつこく叫ばれる言説を警戒しなければならない。

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