知と権力について

フーコーの知/権力 power/knowledgeについて。知識と権力が同一とはどういうことなのか。

はじめに

「知は力なり」はイングランドの哲学者フランシス・ベーコンの格言である。なるほど、知は力だと言えるだろう。しかし権力が知識が根本的に同質的なものである、という考え方は受けいれがたい。

フーコーはニーチェの言葉を借りて、知識は常に「権力への意志」によって可能となるとしている。知識と権力は相互に切り離せるものではないと彼はいう。

まず第一に、この権力/知の考え方を理解するためには、「権力とは何か」という点からスタートしなければならない。

権力とは

「権力」と聞いたとき、それはふつうネガティブなイメージを連想させる。

私たちは、奴隷と主人、従業員と経営者、市民と政府といった関係を思い浮かべる。つまり、権力は何かを「締めだし」「抑圧し」「検閲し」「隠蔽し」「ごまかし」「見えなくする」ような働きのように感じられる。

しかし、権力は私たちの欲望にそむくことを強制するような、単にネガティブで抑圧的なものではない。権力は、人々の行動や意思を制限するだけではなく、新しい行動を生みだしたり、自分自身について考えることを可能にする。社会に必須とされ、生産的で、ポジティブな力(生権力)でもありうる。実のところ、私たちが自明として生きる場空間、私達の「知識」や「自己像」はこの権力によって生産されるのである。

また、権力はなんらかの組織や個人に所属されることはない。私達が権力を所持するのではなく、私達が権力の道具となるのだ。権力の外は存在せず、権力関係の網の目の中に絶えず私たちは存在している。

権力/知の具体例

フーコーによる権力/知の典型的な例は、「告白」にあるとされる。かつてキリスト教の教会という限定された場にて行われてきたこの告白が、世俗の文化に広がったと彼は言う。告白を通じて人々は性的欲望、感情、自らの本性について「真実を伝える」、つまり知を生産するように促された。

この告白を通じて、人々の間に自己認識の中核となるような性的アイデンティティが生まれた。アイデンティティは権力によって監視され、育まれ、しばしばコントロールされるようになった。統計学、生物学、医学、精神病理学、心理学、教育学、政治批判などのさまざまな言説が、性を中心として連結される。

たとえば男色は古来から存在したが、それが治療の対象となったのは19世紀のことである。同性愛が法制度に組み込まれ、医療や処罰といった権力装置の対象となったのは、権力/知の働きかけの典型である。

知識の持つ権力

フーコーによれば、知識と権力はそれぞれ独立した存在ではありえない。密接に関係している。知識はつねに権力の行使である。また、権力は常に知識の機能となっている。つまり知識とは、何が真実か、何が正当かを決める力である

知識/権力は、私たちには視認しづらい。というのも、それは知識そのものを生みだし、強制するのではなく、議論の場を提供するからだ。人々はその場において、能動的に、積極的に科学理論、知識を決定するが、それは権力の発現に過ぎない。

フーコーにとって「真実」とは、科学的な言説や権威から生産されるものである。真実は教育システムやメディア、政治や経済のイデオロギーによって持続的に最強化される。

「真理のための闘争」はありはしない。私たちが科学史によって見てきた新しい発見や科学的進歩は、「真と偽の分離」、つまり特定の知と権力との結びつきでしかない。

フーコーによれば、啓蒙は解放とはなりえない。それは単に「新しい権力/知識」を意味する。フーコーにとって、普遍的真理は存在しない。人間の本質はなく、「正義」も「進歩」も存在しない。それらは権力のプラグマティックな発現なのである。

フーコーは権力に挑戦せよ、という。権力への挑戦は、「絶対的な知識」を追い求めることではない。「今ここにはたらいている権威、社会、経済、文化としての真実の権力を除去する」ことにあるとしている。

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