選択の恐怖

私たちは「選択」をすばらしいものだと思っているが、本当にそれは正しいのだろうか?

ドレッシングを選ぶ男性

選択できるのはよいことだ。

例えば自動車。エンジンがあり、タイヤが四つある点で何ら変わらないにもかかわらず、自動車の種類は山ほどある。同じ車種でもグレードは様々で、数千、数万にも及ぶ選択肢が私たちにはある。

私たちの人生は選択の連続である。私たちには選択の自由が保証されており、それによって自分の好きなキャリアを築き、好きな異性と結婚し、子どもたちを好きな学校へ通わせることができる。私は数ある職業のなかでニートを選んでいる。まあ、それは選択なのか、選択の拒絶なのか……。

しかしスロベニアの哲学者Renata Saleclは私たちにふりかかる「選択」は恐怖(tyranny)であり、自我の破壊をもたらしている主張する。SPIEGEL ONLINEにインタビューがあったので紹介したい。

資本主義という人類の神経症

原文:‘Capitalism Is Humanity’s Neurosis’

SPIEGEL ONLINE編集者(以下編):サブウェイでは、サンドイッチを楽しむためいくつもの選択をしなければいけません。これはあなたが講義で言うところの「選択の暴力」なのでしょうか?

Salecl(以下S):私はサブウェイのようなところは可能な限り避けていますし、どうしても行かなければならないときはいつも同じものを注文しています。
私が「選択の暴力Tyranny of choice」について語るとき、脱工業化社会における資本主義イデオロギーを意味しています。その起源は、ボロからリッチへ独力で成り上がる――アメリカン・ドリームからでした。しだいにそういったキャリアのコンセプトが世界中に広がり、生活哲学へと発展しました。今日、私たちはすべてを選ばなければならない。そう信じています。生き方、物事の見方、どのコーヒー豆を買うかまで。私たちはつねに選択に多大な注意を払っています。非常に不健全なことです。

編:なぜですか?

S:私たちは選択にストレスを感じ、圧倒され、罪を感じているからです。このイデオロギーによれば、私たちが不幸になったらそれは自分のせいだとされます。選択を誤ったことになるのです。

編:もしも正しい選択をしたなら?

S:その場合、私たちはそのもっと先にこそ良いものがあると感じ続けるでしょう。私たちは永遠に満たされることもどこかに落ち着くこともないのです。

編:「民衆に決定させるな。彼らは愚かだから」かつて独裁者たちはこのように主張しました。あなたは独裁者が正しいと言うのですか?

S:いいえ。私は政治や選挙の自由を批判しているのではありません。自分の人生を自分が自由にできるという資本主義の意識歪曲を批判しているのです。

編:でも私はその力を持ってますよ。自分のしたいことができますから。

S:いいえ、そんなことはありません。友人の心理学者がある患者について話してくれました。高い教育を受け、良い仕事に就く、家を持ち、愛すべき夫を持つ女性です。「私は人生で正しいことをすべてしたわ」彼女は言いました。「でも私はまだ幸福ではない」。彼女はほんとうに自分の望むことをしてきたのではありませんでした。社会が彼女に望んでいる、と彼女が思い込んでいることをしたのです。

編:では私たちは個人的な幸福を追い求めるのがよいのでしょうか。

S:それもまた幻想です。幸福は自らを測定する物差しになっています。この世界は何が私たちの幸福かを教え込む女性誌で溢れています。Facebookの更新が、自分以外がどうやって生活しているかを伝えます。どの国が幸福かを評価する指標さえある。「幸福になれ」は社会的な命令になっているのです。もしあなたがそれを達成できなければ、失敗者ということになる。

編:しかしだれもが自分の選択ができるというモットーがありますし、それによって大部分の人は自分の生活をコントロールできています。

S:ええ。でもそれは部分的に真実であるに過ぎません。私たちは依然として選択の結果をコントロールできません。これが次の段階です。つまり私たちは選択の自由だけでなく、その結果が想定通りである保証も求めているのです。

編:私たちはなぜただ流されることを恐れるのでしょうか?

S:何か決定をするときには常に、何かを失うからです。車の購入は良い例です。大半の人は車のレビューを買う前ではなく買った後に読みます――自分の選択が正しかったと確認するために。

編:もし選択がない。例えばお金がなくて何も買えないなら、幸福になれるんでしょうか。

S:矛盾するようですが違います。資本主義の最大の利点はプロレタリアの奴隷でさえ自分が主人であるかのように思い込ませることです。自分の人生を変える力があると信じているのです。私たちは「(アメリカンドリームの)成功した男」のイデオロギーに突き動かされています。より働き、より消費し、最終的には自分自身を消費してしまいます。燃え尽き、過食症、その他の生活障害がその結果です。

編:なぜ私たちは自分を粗雑に扱うのでしょうか。

S:フロイトはすでに苦しみが持つ喜びを発見しました――マゾヒスティックという奇妙な概念です。選択の恐怖は弱さを搾取します。消費者文化は私たちを消耗させ、悩ませ、自我を破壊します。そしてそれは止められない。

編:私たちは被害者とは言えません。結局、自分たちでこのシステムを創ったのですし、消費を続ける以上システムは維持されます。資本主義は究極的には人間の本性を映し出していますね。

S:そうです。フロイトは神経症者は自分で神経症となることを選ぶ、とも言っています。資本主義は人類的な神経症なのです。

編:別の道もあります。ロンドンには一種類の料理しか出さない店がありますが、店外まで行列ができています。ベルリンには届くまでデザインがわからないTシャツを送る企業があります。

S:賢いマーケティング戦略ですね。子どもたちでも同じです。もし子どもたちに何の映画が観たいか聞いたら、彼らは面食らったようになるでしょう。でもその前に「ジェームズ・ボンドを観に行こう」と言っておけば、彼らは「やだよママ、何か他のにして」と言うでしょう。私たちはしがらみさえなければ自分の人生を歩めるのです。

編:私たちは自由になれるのでしょうか?

S:いいえ。ただもう少しリラックスした生活は送れるでしょう。自分の決定が理性によるものではなく社会に条件付けられていることを私たちは受け入れることができます。私たちが選択のたびに何かを失い、決定の結果をコントロールできない理由は、この社会的条件なのです。

選択という幻想

「資本主義は奴隷を主人と思わせることに利点がある」 これは本当にその通りで、強調してもしきれない点である。なぜ資本主義社会が奴隷に主人と思わせるかというと、理由はふたつある。

第一に生産性の向上。奴隷をムチ打って仕事させるより、意欲をもって働く労働者の方がはるかに生産性が高い。

奴隷はただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の現存(彼に属してはいないが、保証されている)のために労働するのではない。これにたいして、自由な労働者は自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識(またはむしろ表象)やそれと結びついている責任の感情(意識)は、自由な労働者を奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。(マルクス「直接的生産過程の諸結果」)

第二に体制の安定化。奴隷に主人と思い込ませることによって、いかなる不当な境遇も「自己責任」と思い込ませることができる。主人である彼に「打倒すべき主人」は存在しないのだから。唯一できることは自分を責め立てることなのである。

「選択の自由」は「自己責任論」を生む

Saleclは「選択の自由」という幻想によって社会的な抑圧が隠蔽されていると指摘する。なんというか、日本人論が社会安定に利用されるのとよく似ている。

日本では「自己責任論」が根強い。アメリカ以上かもしれない。派遣社員がクビを切られたら自己責任。ブラック企業しか入れないのは自己責任。イラクで誘拐されても自己責任……。ようは不幸になったら「自分が悪い」のが自己責任論である。

日本では、貧しい派遣労働者や低賃金労働者が生活保護者を叩いている。自分の生活が苦しいのは日本社会を困らせる悪者がいるからだと彼らは素朴に信じている。社会はつねに被害者であり、社会それ自体は問われない。むしろ逆に、社会によって苦しめられている底辺層ほど、かえって「社会のせいにするな」と言うケースが多いように思われる。

一歩間違えれば自分が受給者になるかもしれない底辺労働者が生活保護者を攻撃するのは奇妙なことである。たぶんSalecl氏のアイデアを借りれば、底辺労働者は「進歩」を信仰しているのだろう。がんばっている俺たちの生活は今よりずっとよくなるはずだ、これ以上落ちぶれることはない、というような……。そういう一種すがるような気持ちがあるのだろう。新自由主義が底辺層に支持されるのはそういった心性によるのかもしれない。

いずれにせよ、政官財といったエスタブリッシュメントの抑圧は巧妙に隠蔽される。資本主義イデオロギーはこのようにして経済合理性、政治的安定に寄与するようだ。「選択の自由」という幻想が生みだすものは、各々の幸福を育む社会ではなく、抑圧的でしかも盤石な社会なのかもしれない。

リラックスして生きる

話をまとめよう。Salecl氏が指摘するように、私たちは自分で思っているほど自由ではない。まずは自分が「不自由」であると認めることからはじめなければならない。自分を外的内的に支配している諸権力を確認すること。自分の不幸をただ自分のせいにするのではなく、なにか外的条件にあるのではないかと疑ってみること。なんでも自分で背負いこんで自罰的になるのではなく、社会に原因があるのではないかと考えてみること。

そうすることによって、彼女の言うとおり「リラックス」して生きることが可能になるのではないかと思う。

(私はびっくりしたんだけど、Salecl氏はスラヴォイ・ジジェクの奥さんらしい。そういえばジジェクもスロベニアか……)

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