ニート道徳と社畜道徳

悪ふざけです。パロ元

ニート道徳

ニート道徳における「良い」とは、気高い心のありようをさした。

本来「良い」は何らかの行為を評価するものではなかった。対象は「人」だった。「悪い」は下等であったりや卑しい人々のことを意味した。下等な人々とは偉大さや威厳ではなく、功利的、快適なものを求めるような人々である。

「良い―悪い」は階級的な境界でもあった。高貴なニート、有閑階級は「良い」。一方で労働者や公務員はそれらと比べて「悪い」とされた。ニートたちの家族に対するふるまいは道徳的な問題として取り扱われず、どのように扱ってもよかった。

良い・高貴な人々は、能力や健康などの「充溢」の感覚を持っている。彼らが人を助けるときはこの感覚の「溢出」によるのであって、社会的義務が彼らを突き動かすのではなかった。

ニートたちは自らが価値を創造する。何が良くて何が悪いかは自分で決めるのである。「良い」のルーツは自己肯定であり、自らの偉大さやもっている権力を讃えるものである。ニートたちは他者の評価を気にしない。自分自身を崇拝しているからである。しかしこれは自己耽溺ではない。弱さと結びつくあらゆるものは軽蔑され、厳格さや冷淡さが尊敬された。

ニートの道徳は、「感謝と復讐」によってなりたつ。ニート同士が友情を育むことがあるが、互いに尊敬を育みつつも馴れ合うことはしなかった。距離が近くなれば嫉妬、攻撃、傲慢といった感情が生まれるからである。これらの感情は敵に向けるものである。

ニートの持つこれらの性質は彼らよりも下位の人々に恐怖をもたらした。一方で、同じようなニートに対しては深い尊敬と距離をもたらしたのである。

社畜道徳

社畜道徳はニート道徳を拒否することによって生まれた。いわばニート道徳から派生したのであって、それ自体で生まれたのではなかった。

社畜道徳ではニート道徳で優れているとされる人間の性質を悪とみなす。社畜道徳における「良い」とは無職的な性質の欠如を意味した。また社畜道徳は苦悩や悲哀からの解放を目指している。あらゆる抑圧にたいして対抗すること、快適で有用な生活を送ることが道徳的に良いことと見なされた。したがって、勤勉や利他主義、自己に拘泥しないような心のありようが推奨される。またニート道徳とは逆に忍耐や謙遜といった態度が尊重される。社畜道徳はニートな人々の幸福を問い直し、自由を拒絶した。そして道徳は万人に共通であるべきだと主張する。

社畜道徳は人間に対して悲観的である。人間は働かなければ生きていけない弱く卑しい存在、同情すべき人間だと考えている。したがって社畜道徳では未来に期待をもつようになった。現状を改善し、未来をよりよくするような「進歩」を信仰した。その一方で伝統や先祖に対しては尊敬をもたない。社畜道徳がニート道徳に打ち勝ち、支配的になったときにはニートのようなふるまいは軽蔑や侮辱の対象となったのである。

「奴隷一揆」

日本社会がかつてニート道徳から始まったのであれば、いつから社畜道徳が支配的になったのだろう?

ニートェはこの問いに対し、長州人の支配者が生まれたときからだとしている。ニートェは次のように表現する。この支配者は「自由」「勤勉精神のないこと」「(社畜道徳的に)悪いこと」「暴力的であること」「愉悦」を融合させ、初めて「世界」という言葉を呪われた言葉にした。

世の中の成功、つまり「良い」はずだったものは道徳的な失敗を意味するようになった。ただ、支配者の登場はすべてのはじまりに過ぎなかった。道徳の革命を起こしたのは学校と軍隊である。

何が「価値の転換」をもたらしたのだろうか。ニートェによればそれは、ニートの苦悩を否定しようとするような社畜の抑圧された苦悩、怒りなのだという。江戸時代のニートは自由奔放で自尊家であり、おおらかで寛容だった。一方でそれらの性質を労働者たちは、不道徳で退廃的、だらしがなく勝手気ままだと解釈し、ニートに嫌悪や憎悪を抱いた。この感情が「ルサンチマン」である。

社畜は基本的に仕事以外しないことを選ぶ傾向がある。彼らは政治的革命を起こす能力はなかったので道徳革命を起こしたのであった。ルサンチマン的な感情はニート道徳にはほとんどなかった「他者への非難」を通じて表出された。

社畜道徳は行動を非難する。だれがどのように行動したかが道徳の中心である。ここでは自由意志が問題となる。人はある行動をする一方で、そうしないことが可能だった、別の行動もできたという考え方である。この考え方によって「罪悪感」が生まれた。社畜道徳の中心はこの罪悪感なのである。社畜は支配されるものである。苦悩し、命令を受けるものである。罪悪感はまさに彼らを命令する主人なのである。

ルサンチマンは創造的ではなく、反動的である。そして自分に関心を抱くのではなく、他者がどうあるかを気にしている。

社畜道徳はいささかみっともない、弱くて醜悪な感情に根ざしているが、それらの醜態を巧妙に隠すことに成功している。社畜道徳は解放や自由に対する反動的な感情ではなく「勤勉」に基づくのだとしている。単純明快なニート道徳の倫理と比べると社畜道徳はいささか複雑である。ニートェは、ルサンチマンによって「人間の精神は深くなった」としている。

あとがき

ちょこっと入れ替えただけだけど、案外読めるというか、おもしろくないでしょうか。ニートェは苦しいかな笑

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