2019-02-03

もっとも恐るべき真理と正義との敵は、密集した多数者である。呪われた群衆である。

アナーキズムの巨人の一人、エマ・ゴールドマンの「少数派と多数派」を訳して見ようと思いました。伊藤野枝の「少数と多数」を参考に訳していきます。

民主主義とは多数派による少数派に対する暴政なのですが、その結果が現代のありさまです。

世界は少数派によって革新されなければいけません。

BoxCar 7 by Charles Gibbons

少数派と多数派

原文:Minorities versus Majorities(1917):人名には可能な限りWikipediaへリンクさせています(英語版あり)。

現代の傾向を要約するとしたら、「量(クオンティティ)」の時代であると言いたい。群衆、群集精神はいたるところを支配しており、「質(クオリティ)」を破壊しつつある。私たちの生活全体――生産、政治、そして教育――は、量、そして数字にかかっている。かつては自らの労働の徹底さと質にプライドをもっていた労働者は、自らにとっては無価値な、人類にとっては一般に有害な膨大な物品をいたずらに産みだす、脳のない無能な自働機械に変わってしまった。このようにして、「量」は人生の快適さと平和を与えるのではなく、ただ人間の重荷を増やしただけだった。

政治においては量以外に何も省みられない。量の増加に比例して、主義、理想、正義、正直さは膨大な数字によって完全に沈没してしまう。さまざまな政党が詐術、虚偽、不正、欺瞞、狡猾と陰謀をもって互いに主権を争っている。成功した者は勝利者として確実に多数者にもてはやされると信じて。成功――それのみが唯一の神だ。その対価、人格に対してどれほどひどい対価を払っているかということは、まったく軽んじられる。私たちはこの悲しい事実をこれ以上証拠立てる必要はないだろう。

政府の堕落、完全な腐敗が現在ほど徹底して暴かれたことはない。数年の間、国民の権利と自由の真の保護者と仰がれ、社会制度の本綱として完全に誹難の外にあったアメリカの政治体制、そのユダのような本性に国民が直面することもはじめてのことだ。

しかし、その政党の犯罪が次第に厚顔となり、盲人でさえそれを見分けることができるようになったとき、政党の盲従者を集め、まとめあげる必要に迫られた。そしてその権勢はいよいよ確立させられた。このように、何百回も欺かれ、裏切られ、蹂躙された犠牲者たちは、勝利者に反対するのではなく、彼らを支持することに決めたのである。困惑した少数者は、どうして多数派はアメリカの自由の伝統を裏切ったのか? と問うた。その判断力と、思考力はどこにあったのだ? 単純なことだ。多数者は思考することができない。判断力を持たない。独創力と道義的な勇気をまったく欠いている多数者は、常に自らの運命を他の手に託してきた。自己の責任をとることのできない彼らは、奈落の淵に導かれるまで指導者たちを追従してきた。Dr. ストックマンは正しい。

「我々の中にあってもっとも恐るべき真理と正義との敵は、密集した多数者である。呪われた群衆である。野望やイニシアティブがない群衆にとって、革新ほど憎むべきものはない。彼らは常に新しい真理の革新者、先駆者に反対し、糾弾し、迫害してきたのである」

現代しばしば繰り返されるスローガンは、私たちの時代は個人主義者の、少数派の時代であるというものだ。このことは社会主義者を含めすべての政治家が提唱する。このような見方を享受するのは、浅薄な皮層に留まる人々だけだろう。少数者は世界の富を蓄積しなかっただろうか? 彼らは現代の主人であり、絶対の王ではないだろうか? しかし、彼らの成功は個人主義によるものではない。大衆の怠慢、卑劣さ、完全な服従に起因しているのである。大衆は支配され、導かれ、強制されることを望んでいる。個人主義についていえば、これほど個人が健常な方法で自らを表現し主張することのできる機会が少ない時代は、人間の歴史上存在しなかった。

正直な目的のために没頭する個人的教育者、独創的なアイデアを持つ芸術家や作家、独立不羈の科学者や探検家、社会的変革の妥協なき先駆者は、老衰のために学習能力や創造能力を失った人々によって日々壁に押し付けられている。

フェラー(訳注:Francisco Ferrer、過激な自由思想家、アナーキストで教育者。1909年のバルセロナでの暴動で逮捕され、同十月十三日獄中にて銃殺される)のような教育家はどこでも受け入れられない。

凡人と自働機械の時代においては、俗流に媚びるエリオットやバトラー教授のような人々でなければ永続的成功は覚束ない。文界や演劇界においても、ハンフリー・ワードクライド・フィッチのようなものが群衆のアイドルであり、エマーソンや、ソローウィットマン、そしてイプセンハウプトマンバトラー・イェイツステファン・フィリップスらの美しさと天才性を知り、それに感謝する者はほんのわずかである。彼らは孤独に光る星々のようであり、群衆の水平性をはるかに遠く超えている。

出版業者、演劇マネージャー、そして批評家らは創造的芸術が本質的にもつ質を無視して、売れ行きは良いか、人々の口に合うかを求める。悲しむべきことに、その口はゴミ捨て場のようなものだ。それは精神的な咀嚼を必要としないものであれば何でも受け入れる。結果として、平凡で、普通の、陳腐なものばかりが主要な作品として代表される。

芸術においても同じ悲しい事実に直面することを改めて言う必要があるだろうか? 公園や大通りを観察して歩くだけで、美術製造品のおぞましく俗悪なことがわかるだろう。俗悪な多数派の趣味のみがそのような芸術の蹂躙に耐えられる。アメリカの都市のいたるところにある構想の失敗、杜撰な製作によって作られた銅像と真の芸術との関係は、トーテムに対するミケランジェロの作品のようである。しかしそれらが成功した唯一の芸術作品なのだ。ほんとうの芸術的天才、既存の概念にとらわれることなく、独創性を発揮し、生に対して真実であろうと苦悩する天才は、不確かで惨めな人生を歩む。彼の作品がいつの日か群衆のおもちゃとなることがあるかもしれないが、それは彼の心の血が尽きた後であり、先駆者が先駆者であることをやめたとき後だ。そして幻想に囚われた盲目的群衆の雑踏が巨匠の遺産を死に至らしめる。

今日の芸術家は、プロメテウスのように経済的必要に縛られているために創造できないのだと言われている。しかし、このことはすべての時代の芸術について言えることである。ミケランジェロはパトロンに依存していた。これは今日の画家や彫刻家と同じだが、違う点は当時は芸術の愛好家たちが狂った群衆から遠く離れていたことだ。彼らは巨匠の寺院で礼拝することが許されたために、名誉に感じた。

現代の芸術保護者たちは、たったひとつの基準、ひとつの価値を知っている――ドル。彼はあらゆる偉大な作品の価値について一切顧慮せず、芸術品のために払われる金銭の量にのみ価値を置く。ミルボーの「ビジネスはビジネス」における富豪が、滲んださまざまな色の配列を指して、「みたまえ、なんとすばらしいのだろう。これは5万フランもしたからね――」と言った。現代の成金と同じように。すばらしい芸術の発見のための膨大な対価は、彼らの趣味の貧しさを埋め合わせなければならない。

この社会でもっとも許しがたい罪は思想の独立である。このことが民主主義をシンボルとする国でもっともひどく現れていることは、まさに多数派の恐るべき力の象徴である。

ウェンデル・フィリップスは50年前に言った。「絶対的な、民主的な平等の我が国では、世論は全能omnipotentであるだけでなく、偏在omnipresentでもある。世論の圧制からは逃げることはできず、隠れることもできない。結果として、君が古代ギリシャのランタンを手に取って(訳注:誠実な人間を探すディオゲネスの例え)、群衆の中を探し回っても、彼の周囲の人間の意見や投票によって、野望や社会的生活、ビジネスに利害の影響を受けない人は一人もいない。その結果は、各々が自分の信念を恐れることなく発言する個人の集まりではなく、他の国と比べて臆病者の集まりとなっている。何よりも我々は互いを恐れあっているのである」。明らかに私たちはウェンデル・フィリップスの対峙した時代からそう遠くへは進んでいないことがわかる。

今日、世論は偏在する暴君である。今日、多数派は臆病者の集まりを代表し、自らの魂と思考の貧しさを反映する人を喜んで歓迎する。そのことがルーズベルトのような人間がかつてないほど人気を博していることを説明する。

彼は群衆心理のもっとも最悪の要素を体現している。大衆が理想や清廉さなど何も気にしないことを熟知している政治家である。求められているのは見世物なのだ。それがドッグ・ショーだろうと、懸賞金のかかった格闘だろうと、「ニガー」のリンチ、ささいな犯罪者の一斉検挙、結婚披露、元大統領のアクロバティックなスタント(政治活動)でも構わない。精神的ないびつさがひどいほど、大衆の歓喜と賞賛は大きくなる。したがって、理想において貧弱で、俗悪な魂を持つことによって、ルーズベルトは時代の寵児として在り続ける。

一方で、このような政治的小人の上に高く位置する、優美で、教養ある、有能な人々は甘やかされた人間として嘲弄され、封殺される。私たちの時代を個人主義の時代だとすることはバカげている。この時代は繰り返されるすべての歴史の中でもっとも悲痛なものである。啓蒙、科学、宗教、政治、経済の自由は少数者がもたらしたのであり、大衆ではなかった。今日、いままでと同じように、少数者は誤解され、迫害され、投獄され、拷問され、殺されている。

ナザレの扇動者によって説かれた友愛の原則は、それが少数者に向けてのかがり火である間は、生命、真実、正義の芽を保っていた。多数派がそれをとらえるや否や、その偉大な原則は、苦しみと厄災を広げてゆく血と炎の先駆者となった。

ローマの絶頂に対するヤン・フス、カルヴァン、ルターらの攻撃は、夜闇に輝く日の出のようであった。しかしルターとカルバンが政治家となり、ちっぽけな君主、貴族、そして大衆心理に奉仕するようになると、改革の可能性を危険に陥れた。彼らは成功と多数派を勝ち取った。しかしカトリックの怪物がそうだったように、理性と思想への迫害において残酷で血を求めることについては同等であることが多数派が証明した。群集に頭を下げない少数の異端者はなんと哀れなことだろう。無限の熱意、忍耐、そして犠牲によって人間精神は宗教的幻想から覚醒し、自由となる。少数派は新たな勝利のために猛進し、多数派は年齢とともに虚偽に変わってゆく真理を背負っているために遅れをとっている。

政治的に人類はもっとも絶対的な奴隷状態にあるが、ジョン・ボールズワット・タイラーズウィリアム・テルのような王や暴政の権力に立ち向かった無数の個人的な巨人にとってはそうではなかった。個人的先駆者がいなければ、フランス革命の巨大な波によって世界が根底から震撼させられることもなかっただろう。大きな出来事の前には、あきらかに小さな物事が先立つ。したがって、カミーユ・デムーランは拷問、濫用、恐怖の象徴であるバスティーユ牢獄を転覆させるエリコに先立つラッパだった。

つねに、いかなる時代においても、少数者は偉大な思想、自由への努力の旗を翻すのであった。鉛の重みによって身動きのとれない大衆とは違って。この事実はロシアによってもっとも強力に証明された。数千の生命が血塗られた体制のために犠牲となったが、しかし玉座の怪物はいまだに満たされていない。思想、文化、文学や、もっとも洗練された深い感情が鉄のくびきの下に押しつぶされているとき、どうしてそのようなことが可能だろうか? 多数派――凝集された、動けない、眠たげな大衆、ロシアの農民は、一世紀の闘争、犠牲、言語を絶する悲惨ののちにもなお、「白き手の男(訳注:インテリのこと)」が縛る縄が幸運をもたらすと信じている。

アメリカの自由を求める闘争において、多数派はつねに障害だった。まさにこの日まで、ジェファーソンパトリック・ヘンリートマス・ペインらの理念は彼らの子孫によって否定され、あるいは売られている。群衆はそれらを必要としないのだ。リンカーンの偉大さと勇気は当時のパノラマの背景を創造した人々によって忘れられている。黒人の真の保護者は、ロイド・ガリソンウェンデル・フィリップスソローマーガレット・フラーセオドア・パーカーなど、ボストンの一握りの少数者によるものだった。彼らの偉大な勇気と不屈の精神は、悲しき巨人ジョン・ブラウンとなった(訳注:ジョン・ブラウンは処刑された)。彼らの絶えざる熱意、雄弁さと忍耐は、南部の領主の牙城を弱めた。リンカーンとその配下は、奴隷廃止が実際的な問題と万人に認識されたときに運動に従事したに過ぎない。

約50年前、彗星のような思想が世界の社会的地平線の上に現れた。その思想は遠大であり、革命的で、万能だったために、全世界の暴君たちの心に戦慄を与えた。一方でその思想は万人の歓喜であり、励ましであり、希望でもあった。先駆者たちは自らの進む道が困難であることを知っていた。彼らは反対、迫害、困難が待っているということを知っていた。しかし、彼らは誇りを持ち、恐れずに前進した。現在、その思想は普及したスローガンとなった。今日、ほとんどだれもが社会主義者である。富豪とその被害者である貧者、法と権威の維持者と不幸な犯罪者、自由思想家と虚偽を広める宗教家、ファッショナブルな女性と作業着を着る少女は、等しく社会主義者である。当然ではないか? 50年前の真実は、今では虚偽となった。当時の若き想像力からは切り取られ、その活力、強さ、革命的な理想を奪われたのである――当然ではないか? 今ではそれらは美しきビジョンではなく、多数派の意志に基づく「実用的で実行可能な計画」へと変わったからだ。政治的な狡猾が大衆賛美を歌う:哀れな、激怒した、濫用された大衆は、偉大な大衆だ、もし私たちに従うなら。

この賛美歌を聞いたことのない者がいるだろうか? すべての政治家たちの決して変わらないリフレインを知らない者がいるだろうか? 大衆の血が簒奪され吸われていることを、私はすべての投票者と同じく知っている。しかし私はわずかな寄生虫ではなく、大衆それ自体がこの恐ろしい事態の原因であると主張する。大衆は主人にぴったりとくっつき、そのムチを愛する。そして資本主義的権威やその他の腐敗した制度に講義する声が上がった瞬間、十字架につけろ!と真っ先に叫ぶのは彼らである。しかし、群衆が兵士、警察、看守、死刑執行人になるのでなければ、権威と私有財産はどれほど維持されるだろうか。社会主義のデマゴーグもこのことを私と同じほど知っている。しかし彼らは多数派の美徳の神話を信じ続けている。まさに彼らのその生き方が権力の永続を意味するからである。そして、どうしてその権力を数字なしに得ることができるだろうか? 然り、権威、強制、依存は大衆にかかっている。しかし自由や個人の自由な発展はないし、自由社会の誕生は決してありえない。

地上の人々が抑圧され、地球の財産を受け継げない人々に同情しないからではない。彼らの送る生活が悲惨で恐ろしい、尊厳を失ったものであることを知らないからではない。私は善の創造力として多数派を否定するのでもない。そうではない! 凝集した大衆は決して正義や平等を代表することがないことを知り抜いているからだ。大衆は人間の声を抑圧し、人間精神を拘束し、人間の肉体を鎖につけた。大衆はつねに人生を砂漠のような画一的な、灰色の、単調なものにすることを目的とする。大衆はつねに個性、自由なイニシアチブ、独創性の絶滅者となる。私はゆえにエマーソンを信じる。「大衆はその要求と影響において残酷で、浅薄で、有害である。彼らは媚びる必要はなく、教育する必要がある。私は彼らの何をも認めたくはない。訓練し、分割し、彼らのなかから個人を引き出すこと以外は。群衆よ! 厄災とは大衆のことだ。私はまったく大衆など望まない。ただ正直な男性を、愛すべき、美しい、ただ洗練された女性を求める」。

言い換えれば、社会的経済的なよき生の欠かせない真実は、知性ある少数派の熱意と勇気、そして妥協なき決断によって現実となるのであり、大衆によってではないのである。

終わりに 伊藤野枝とエマ・ゴールドマン

大杉栄と伊藤野枝の子どもに奇妙な名前が多いことは有名である。

長女・魔子(のち真子)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)。

これらはエマ・ゴールドマン、パリ・コミューンの革命家ルイズ・ミッシェル、ネストルはロシアの無政府主義者ネストル・マフノから来ている。ちなみに魔子の由来は、周囲から悪魔と呼ばれたことを逆手にとったようだ。

彼らの父母である大杉と伊藤は若くして政府に殺されたので(甘粕事件)、魔子が6歳、ネストルは生後50日だった。彼らは伊藤の叔父に引き取られたが、そのとき改名されたのは彼らの今後の人生を思ってのことだろう。

エマ・ゴールドマンは革新的な無政府主義者であり、現在でも強い影響力を持つ思想家。フェミニズムの先駆け的存在だ。

同時に伊藤野枝は日本のフェミニズムの先駆者でもあった。彼女が28歳で虐殺されたことは悔やまれる。

大衆批判の名著

エマが語る通り、近代は大衆という存在によってかつてないほど「個人」が抑圧されている時代だ。大衆は20世紀初頭に出現した。その原因はマスメディアや皆教育制度の発達にあるだろう。

民主主義は多数派による少数派への暴政である。そのために、多数派をコントロールする必要がある。管理され、導かれることに安住する「畜群」的存在が大衆だ。

このブログを読む人は少数者だろうから、少数者向けの著書を紹介する。

イプセン「民衆の敵」。文学作品。文中にあるように、エマもイプセン推しだ。

「いいか――この世で最も強い人間とは、ただ独りで立つ者である」
「真理と自由とのもっとも危険な敵は、かの堅実なる多数、よいか、この呪うべき、堅実なる、ぐうたらな多数である。……多数が正義を有することは決してない。断じてないのだ!これこそあまねく瀰漫した社会的虚偽の一つであって、これに対しては一箇の自由な思考する人間は反逆せざるをえないのである。……正義とはつねに少数の所有するところのものなのだ」

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」。今にも通用する哲学的古典。オルテガはニーチェ大好きな哲学者で、「精神の貴族主義」的な思想が表れている。

人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。

賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやってきている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に飛んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。

ギュスターヴ・ル・ボン「群集心理」。大衆論の古典。

幾多の文明は、これまで少数の貴族的な知識人によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆のあずかり知るところではなかった。

これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。
群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。

2 comments

  1. こんばんは。
    私は最近陰謀論関係のツイーとをよく見ております。
    御厨鉄さんは陰謀論を否定しておりましたね。
    まあ私が最近思うに社会を支配するのが官僚であれ天皇であれ仮に宇宙人であれその本質は変わらないと思います。
    人間が誰かに支配されているという構図は一緒ですよ。
    陰謀論者は巨大資本さえ倒せばいい国家ができると考えております。
    しかしながら御厨鉄さんが言うように国家というもの自体がもう限界なんですよね。
    結局国家は人を束縛しかできないから。
    国家というのは多数派が少数派を抑圧するすべての根拠です。
    だから国際金融資本が崩壊しようが爬虫類人が死滅しようが国家がある限り人はかわらない。
    最近話題の児童虐待とかDV問題もマニュアル方式のお役所仕事で解決できるとは思えません。

    1. こんばんは。
      陰謀論のバカげているところは、眼の前に明らかに存在する陰謀を無視して、レプタリアンや宇宙人などの空想で説明しようとするところです。
      陰謀論者は支配構造を認識している点で一般人より目が覚めていると言えますが、空想的な敵を作り上げる点でバカげている上に有害です。
      「良い国家ができる」と考える点も陰謀論者の認識の甘いところです。
      あなたの認識が正しく、宇宙人をやっつけても国家を廃絶しなければ社会的不正は続くでしょう。

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