システムはおとなしく、非暴力的で、家畜化された従順で服従的な人口を必要としている。

テッド・カジンスキーの論文「The System’s Neatest Trick」を訳しました。原文はこちら。私たちのシステムに対する反抗心が、いかに無害化、有益化されるかが描かれています。

なお、本訳では脚注まで訳してません。

Dhatu by James Turrell

システムのもっとも巧妙なトリック

技術的必要の社会における至高の贅沢は、無益な反乱と黙認のほほえみにボーナスを与えてやることだろう――――ジャック・エリュール

システムは、今日の革命家や反逆者の志望者たちにトリックをしかけた。そのトリックはあまりに抜け目のないものであり、もしそれが意識的に計画されたものであれば、私たちはほとんどその数学的な優雅さのために賛美しなければならないだろう。

1.システムではないもの

まずは何がシステムではないかをはっきりさせることから始めよう。システムはジョージ・W・ブッシュや彼のアドバイザーや彼の任命者ではないし、抗議者を不適切に扱う警官ではないし、多国籍企業のCEOではなく、そして実験室で生き物の遺伝子を犯罪的にいじくり回すフランケンシュタインでもない。これらの人々はみなシステムの下僕だが、しかし彼ら自身がシステムを構成しているわけではない。特に、これらの人々の個人的な価値観、態度、信条、そしてふるまいは、システムの必要と非常に大きく食い違いが生じる可能性がある。

例をあげて説明すると、システムは財産権の尊重を要求するが、CEOや警官、科学者、政治家はときに盗むことがある(盗みとは、実際の物体を持ち去ることに限局する必要はない。私たちは財産を得る違法な方法、たとえば所得税の不正、収賄、その他の裏金や腐敗などを含めることができる)。しかし、CEO、警官、科学者、政治家たちが盗むことがあるという事実は、盗むことがシステムの構成要素であるということを意味しない。その反対に、警官や政治家がなにかを盗むとき、彼は法や財産権を尊重するというシステムの要求に反逆していることになる。しかし、彼らが盗んでいるときでさえ、彼らが公には法と財産権を支持する限り、彼らはシステムの下僕のままである。

強盗、収賄、裏金など、政治家、警官、CEOらが個人として行った違法行為はなんであれ、システムの一部ではなく、システムの病変部である。盗みがないほど、システムの機能は良好となる。そしてそのことが、システムの下僕や促進者たちが、ときには私的にはそれを破ることが有用であることを知りながらも、つねに公共の法律への服従を説く理由である。

他の例を見てみよう。警察はシステムの強化者だが、警察のもつ残忍性はシステムの一部ではない。警官が被疑者をひどく殴るとき、彼らはシステムのはたらきをしているのではない。ただ彼らの怒りと敵意をさらけ出しているだけだ。システムの目標は残虐性や怒りの表出にあるのではない。警察の機能に関する限りでは、システムの目標は服従者に規則を強制的に守らせること、そしてその上で混乱、暴力、悪評を可能なかぎり最小に抑えることにある。したがって、システムの視点からすれば、理想的警官は決して怒らず、必要以上の暴力を決して行使せず、そして可能なかぎり強制的ではなく操作的に他者を管理する者である。警察の残虐性はシステムの病変部の一部であり、システムの一部ではない。

その証拠として、メディアの態度を見てほしい。主流メディアはほとんど普遍的に警察の残虐性を糾弾する。もちろん主流メディアは原則として、何がシステムにとって良いのかに関して、私たちの社会の権力者階級と意見のコンセンサスを持っている。

窃盗、賄賂、警察の残虐性について私が語ったことは、人種差別、性差別、ホモフォビア、貧困、低賃金労働についての差別や被害者化の問題にも当てはまる。たとえば、より多くの黒人が馬鹿にされ、排除されていると感じるようになれば、彼らは犯罪に向かう可能性が高くなり、システムにとって有用なキャリアのために教育を受けようとすることがなくなる。高速度の長距離輸送と、それによる伝統的な生き方の破壊によって現代テクノロジーは人口の混合をもたらした。したがって今日では違った人種、国籍、文化、宗教の人々ととなりあって生活し、働かなければならない。もし人々が人種、倫理、宗教、性的指向に基づき他者を拒絶したり憎むようであれば、それによって生じる対立はシステムの機能を妨げることになる。Jesse Helmsのような数少ない化石化した遺物を除けば、システムの指導者たちはこのことをよく知っている。だから私たちは学校やメディアを通じて、人種差別、性差別、ホモフォビアなどは排除されるべき社会悪だと教え込まれるのである。

システムのリーダー、政治家、科学者、CEOのなかには、個人的としては女性の場所は家庭にあるとか、同性愛間や異人種間の結婚が不快極まりないと感じるものがいることは疑いようがない。しかし彼らの大部分がそのように感じていようとも、人種差別、性差別、ホモフォビアがシステムの一部であることを意味するのではない――指導者たちのあいだで盗みが存在しても、盗みがシステムの一部であることを意味するのではないように。システムが自らの保全のために法と財産権の遵守を促進しなければならないのと同じように、同じ理由によって、システムは人種差別やさまざまな被害者化を阻止しなければならない。

エリートの個々人の逸脱にもかかわらず、システムが基本的に差別や被害者化を抑圧しようとするのはそのためである。その証拠として、主流メディアの態度をもう一度見てほしい。時折あるような、大胆で反動的な少数の批評家による臆病な反対にもかかわらず、メディア・プロパガンダは圧倒的に人種的、性的な平等、ホモ・セクシュアルや人種間結婚の受け入れを支持している。システムはおとなしく、非暴力的で、家畜化された従順で服従的な人口を必要としている。社会機構の秩序ある機能に干渉するようなあらゆる衝突や混乱を避ける必要がある。人種的、倫理的、宗教的、その他の集団的な敵意を抑圧することに加えて、混乱や無秩序を招くような他の傾向、マチズモ(訳注:タフガイ主義のようなもの)、攻撃衝動、その他の暴力的傾向をシステムの利益のために抑圧するか手懐けなければならない。自然に、伝統的な人種的、民族的な対立はゆっくりと減衰し、マチズモ、攻撃性、暴力衝動は容易には抑圧されず、セックスとジェンダーのアイデンティティは一夜では変わらない。したがってこれらの変化に抵抗する多くの個人が存在し、システムはその抵抗を克服するという課題に直面している。

2.いかにシステムが反逆衝動を利用するか

現代社会における私たちはみな、ルールと規則の密集したネットワークによって締め付けられている。企業、政府、労組、大学、教会、政党のような大組織に私たちはなされるままであり、結果として私たちは無力である。システムが私たちにもたらす服従、無力さ、尊厳の欠如の結果、反逆への衝動をもたらす広範なフラストレーションが存在する。そしてここでこそシステムがもっとも巧妙なトリックを演じているのだ。輝かしい手品によって、システムは反逆者を自らに有益なものに変えてしまう。

多くの人々は自らのフラストレーションの根源を理解しておらず、そのため彼らの反逆心は向かうところがない。彼らは自らが反逆したいのを知っているが、しかし何に対して反逆したいのかを知らない。幸運なことに、システムは標準的でステレオタイプな泣き言で彼らのニーズを満たすことができる:人種差別、ホモフォビア、女性問題、貧困、低賃金労働……「活動家」的な問題のランドリーバッグによって。

膨大な数の反逆者志望がその餌に食らいつく。人種差別、性差別、その他、その他……の戦いでは、彼らはただシステムのための働きをしているだけである。それにもかかわらず、彼らはシステムに反逆していると幻想をいだいている。どうしてこのようなことが起こりうるのか?

第一に、50年前、システムはまだ黒人や女性、同性愛者の平等に取り組んでいなかったので、それらの運動を支持することは本当の反逆の形態のひとつであった。その結果、それらの運動は慣習的に反逆的運動としてみなされるようになっていた。彼らは単に伝統としてその地位を今日まで維持している。つまり、それぞれの反逆者の世代は、前の世代を模倣しているのだ。

第二に、私が先に指摘したように、いまだに膨大な数の人々がシステムの要求する社会的変化に抵抗しており、それらの人々のなかには警官、裁判官、政治家のような権威者も存在する。これらの抵抗者は反逆者志望のターゲット、彼らが反逆すべきだれかを提供する。Rush Limbaughのようなコメンテーターは、活動家に憤激するが、そのことによってプロセスを補助している。彼らがだれかを怒らせたことを見せることで、活動家の反逆しているという幻想を強化する。

第三に、反逆者志望たちは、システムの要求による社会的変化を完全に受容したシステムの指導者の多数派とさえ衝突するために、指導者たちの慎重策よりも急進的な解決策を主張し、些細な問題に対する誇張された怒りを表出する。たとえば、彼らは黒人への賠償金を要求する。そして彼らはしばしばマイノリティ集団に対するあらゆる批判に対して、それがいかに慎み深く合理的なものであろうとも激怒する。

このようにして、活動家はシステムに反逆しているという幻想を維持することができる。しかしこの幻想は馬鹿げている。人種差別、性差別、ホモフォビアなどに対するアジテーションは、政治的裏金や腐敗よりもシステムへの反逆を構成するものではない。裏金と腐敗を防ぐためにはたらく人々は、反逆者ではなくシステムの執行者として行動している。彼らは政治家たちをシステムのルールに服従させるのである。人種差別、性差別、ホモフォビアに反対する人々は同様にシステムの執行者として行動する。彼らはシステムに問題を起こすような逸脱した差別主義的、同性愛嫌悪的態度を抑圧することによってシステムを助ける。

しかし、活動家たちはただシステムの執行者のように行動するだけではない。彼らはまた、システムとその機関から公衆の憤りを引き離すことによって、システムを守る避雷針のような役割を持つ。例えば、女性が家庭から職場へと出たのは、システムにとっていくつかの利点がある。50年前、政府やメディアに代表されるシステムが家庭ではなくキャリアへと女性の生活を中心に置こうとするプロパガンダを突然始めたなら、変化に対する自然な人間の抵抗は広範な公衆の憤りを引き起こしただろう。実際に起きたことは、過激なファミニストが主導して変化を起こしたのであり、システムの機関はその背後に位置して安全な距離をとっていたのである。比較的保守的な社会の成員の怒りはシステムやその機関ではなく、第一に過激なフェミニストに向かった。それはシステムに支援された変化が、フェミニストによって主張される過激な解決策よりもゆるやかで落ち着いたものであり、そしてそのゆっくりした変化でさえ、過激派の圧力によって強制されたものとみなされたからである。

3.システムの巧妙なトリック

まとめると、システムの巧妙なトリックは以下である。

  1. システムは技術の進歩による条件変化の結果として、効率と保全の目的から深く抜本的な社会変化をもたらす必要がある。
  2. システムによって課される状況下での人生のフラストレーションは反逆衝動をもたらす。
  3. 反逆衝動はシステムの要求する社会的変化に奉仕するようシステムに引き込まれる。活動家はシステムにとってはもはや役にたたない旧来の時代遅れの価値観に「反逆」し、システムが私たちに受け入れさせたい新しい価値観を支持する。
  4. このようにして、あるいはシステムの脅威となったかもしれない反逆衝動は、システムにとって無害なものとなるだけでなく有益なものとなる。
  5. 社会的変化の強制によって生じる憤りの多くは、システムとその制度から引き離され、そのかわりに社会的変化の先駆けとなる過激派へと向かう。

もちろん、このトリックはシステムの指導者によって事前に計画されたものではない。彼らはトリックを行ったことを自覚していない。トリックは以下のようにはたらく。

あらゆる問題に対してどのように取り組むかを決定する上で、編集者、出版者、そしてメディアのオーナーは、意識的無意識的にいくつかの要因のバランスをとらなければならない。彼らはその問題に関する印刷物や放送によって、読者や視聴者がどう反応するかを考えなければならず、広告主を考えねばならず、またそれに反応するメディア関係者や権力者を考慮に入れなければならない。

これらの実際的な考慮は通常、問題に対する彼らの個人的な感情よりも重要である。メディアの指導者や広告主、他の権力者の個人的感情はさまざまである。彼らはリベラルや保守だったり、信心深かったり無宗教だったりする。指導者たちに共通する唯一普遍的な地平は、システムへのコミットメント、そしてシステムの保全と権力である。したがって、公衆が受け入れる限度内で、メディアによって広められる態度を決定する主な要因は、何がシステムにとって良いかについてのメディアの指導者や他の権力者たちの意見の漠然としたコンセンサスである。

したがって、編集者や他のメディアの指導者が運動に対してどのような態度をとるかを決定する際に彼が第一に考えることは、その運動がシステムにとってなにか良いことを含んでいるか、悪いことを含んでいるかである。おそらく彼は自分の決定が道徳、哲学、ほかの宗教的根拠に基づいていると思い込んでいるだろうが、しかし実際には、メディアの態度が決定される上でシステムの保全が他のすべての要因よりも優先されることは目に見える事実である。

例えば、新聞雑誌の編集者が暴力運動を見たときに、彼はその苦しみや目標に共感する、またはしないだろうが、彼は広告主とメディア同業者の間で暴力運動はシステムに対して危険となる恐れがあり、したがって阻止すべきだという強力なコンセンサスがあることも知っているのである。そのような状況では、彼は自分の雑誌で暴力運動に対して否定的な態度をとった方がよいことを知っている。このメディアの否定的態度は、おそらく暴力運動が鎮静された理由のひとつである。

同じ編集者は、過激なフェミニズムに対しては、それらの急進的な解決策がシステムにとって脅威となると見るだろう。しかし彼はっまたフェミニズムがシステムにとって有益であることも知っている。ビジネスや技術的な世界への女性の参加は、彼女と彼女の家族がよりシステムに対して統合されることを意味する。ビジネスと技術の問題において、彼女たちの才能はシステムに貢献するだろう。フェミニストは家庭内暴力やレイプを終わらせることを強調するが、これはまたシステムの要求に合致する。レイプや虐待は、他の暴力の形態と同じく、システムにとって驚異となる。おそらくもっとも重要なことだが、編集者は多くの女性の持つ現代の家事の無意味さや些末さ、現代の主婦の社会的孤立が深刻なフラストレーションをもたらすことを認識している。そしてシステムに問題を引き起こすフラストレーションは、ビジネスや技術世界におけるキャリアを許容しない限りは解消されない。

たとえこの編集者がマッチョなタイプであり、個人的には女性が服従的地位にいたほうがよりよいと感じているとしても、彼はフェミニズムが、少なくとも比較的穏やかな形では、システムにとって良いことを知っている。彼の編集姿勢は、穏やかなフェミニズムに対して有益となるようになる。そうでなければ彼は彼の広告主や他の権力者たちの難色に直面する。主流メディアの態度が一般的におだやかなフェミニズムに対して支持的であり、過激なフェミニズムに対しては賛否両論で、もっとも過激なフェミニストに対してはつねに敵対的だった理由である。

この類のプロセスを通じて、システムの脅威となる反逆運動は否定的なプロパガンダを課され、システムにとって有益であると信じられている反逆運動はメディアによって周到に奨励される。メディア・プロパガンダの無意識の吸収は、反逆者志望にシステムの利益に奉仕する形で「反逆」するように影響を及ぼす。

大学のインテリもまたシステムのトリックが実行される上で重要な役割を果たしている。彼らは自分が独立した思想家であるという空想を抱きがちだが、彼らインテリは(個人的な例外を除けば)、アメリカの中でもっとも過剰社会化された、最大のコンフォーミストであり、もっとも飼いならされた、もっとも甘やかされた、依存的で、意気地のない集団である。結果として、彼らの反逆的衝動は特に強いものである。しかし、彼らは独立した思考が不可能であるために、本当の反逆は不可能だ。結果として彼らはシステムのトリックに騙されるおめでたい連中であり、人々を苛立たせ、システムの基本となる価値観にまったく挑むことなく反逆の幻想を楽しむことができている。

大学インテリは若者たちの教師であるために、システムが若者にしかけるトリックを補助する立場にいる。若者の反逆衝動を、標準的な、ステレオタイプな目標:人種差別、植民地主義、女性問題などに向けさせることによって。大学生ではない若者たちは、メディアや個人的接触を通じて、学生たちの反逆である「社会的正義」の問題を学び、学生たちを模倣する。したがって若者文化は、仲間への模倣によって広がるステレオタイプな反逆を育む――ヘアスタイルやファッション、その他模倣によって広がる流行と同じように。

4.トリックは完璧ではない

当然、システムのトリックは完璧に機能するわけではない。「活動家」コミュニティーにおける立場のすべてがシステムの必要と一致するのではない。システムが直面するもっとも重大な困難は、システムが用いなければならないふたつの違ったタイプのプロパガンダ、統合的プロパガンダと扇動的プロパガンダagitation propagandaの間の対立に関係する。

統合的プロパガンダintegration propagandaは現代社会における社会化の主要なメカニズムである。それは人々がシステムにとって安全で有用な道具となるよう、態度、信条、価値観、習慣を植え付けるためにデザインされたプロパガンダである。それが人々に教えるのは、システムにとって危険となる感情的な衝動を永久に抑圧あるいは昇華させることである。特定の、現在の問題に対する態度というよりは、広範な適用範囲を持つ長期的な態度と深く根ざした価値観に焦点を当てている。

扇動プロパガンダAgitation propagandaは、特定の、現在の状況で人々に一定の態度や行動をもたらすために人々の感情に作用する。人々に危険な感情衝動を抑圧させるよりも、そのときどきに向けられた明白な目的へと感情を刺激する。

システムは、秩序だった、従順な、協力的な、受動的な、依存した人口を必要とする。とりわけシステムは非暴力的な人口を必要とする。なぜなら物理的暴力の行使を独占するために政府が必要だからである。この理由によって統合プロパガンダは、私たちが激怒したときでさえ暴力を行使しないように、暴力に対して怯え、恐れ、ぞっとすることを私たちに教える(「暴力」を私は人間の物理的攻撃という意味で用いている)。より一般的には、統合プロパガンダは私たちに非攻撃性、相互依存、協力を強調するやわらかく、やさしい価値観を私たちに教える必要がある。

一方で、特定のコンテクストでは、システムそれ自体が、自らの目的のために攻撃的で残酷な手段を行使することが有用あるいは必要であると認識するときがある。そのもっとも明白な例は戦争という手段だ。戦時中、システムは扇動プロパガンダに依存する。軍事行動に対する公衆の承認を得るために、人々の感情に対して、彼らの本当のまたは想定される敵に対して恐れ、怒るよう働きかける。

この状況下では統合宣伝と扇動宣伝の間に矛盾が生じる。やわらかい価値観と暴力への嫌悪がもっとも深く植えられた人々にたいして血塗られた軍事作戦を承認するように説得することは容易ではない。

ここでシステムのトリックはある程度裏目に出る。統合プロパガンダの価値観を支持して「反逆」してきた活動家たちは戦時中でもそうし続ける。彼らが戦争遂行努力に反対するのは暴力性だけでなく、「人種差別」「植民地主義」「帝国主義」などの理由であり、これらのすべては統合プロパガンダによって教え込まれたやわらかく、やさしい価値観とは対照的である。

システムのトリックは動物の扱いに関しても裏目に出る。必然的に、多くの人々は人間に対して教えられているやわらかい価値観と暴力への嫌悪を動物にまで広げている。彼らは食肉のための動物の屠殺や、小さなケージに閉じ込めることによる鶏の鶏卵製造機化や、科学実験のための動物用などの動物に害をもたらす行為に対して恐れを抱く。ある程度までは動物虐待への反対の結果はシステムにとって有益である。ヴィーガンの食事法は食肉の食事法よりも資源利用の観点から効率的であり、もし広範に適用されれば人口増加に伴う地球の限りある資源の負担をやわらげる助けになるだろうから。しかし活動家の動物への科学実験廃絶への主張は、システムの必要と真っ向から衝突する。近い将来に研究対象としての生きた動物に代わる実用的な代用物がある見込みはないからである。

システムのトリックがあちこちで裏目に出ることは、全体としては、非常に効果的に反逆衝動をシステムに有用なものと変えるはたらきを妨げるものではない。

ここで表現したトリックは、私たちの社会における反逆衝動が向かう先を決める唯一の要因ではないことは認めなければなるまい。多くの人々が今日、自分は弱く無力であると感じている(まさにシステムは私たちが弱く無力であってほしいために)。だからこそ被害者や弱者、被抑圧者に自己同一化するのである。このことがなぜ被害者化の問題、人種差別や性差別、ホモフォビア、ネオ植民地主義が活動家の標準的問題となったかの理由である。

5.ひとつの例

私は人類学の教科書を持っている。ここには大学インテリが、現代社会の批判として偽装されたコンフォーミティによるトリックを通じてシステムを補助する良い例のいくつかがあることに気づいた。その中でもっとも巧みなものは132ー36ページにあるもので、著者は「適応された」形で、 ウィリアムソンRhonda Kay Williamsonというインターセックスの(つまり、男性と女性の身体的特徴をもった)人物の記事を引用している。

ウィリアムソンは、アメリカン・インディアンはインターセックス者を受け入れただけでなく特別の価値を認めたとする。彼女はこの態度と欧米人の態度を比較する。その態度は彼女の両親が彼女に対しておこなった態度と同じだと。

ウィリアムソンの両親は彼女を残酷に虐待した。彼らは彼女のインターセックスを軽蔑した。「悪魔に呪われたせいだ」と彼らは言い、彼女を著名な教会に連れて行き、「悪魔」を祓った。彼女は「悪魔を吐きだす」ことになるナプキンさえ与えられていた。

しかし、これを現代の欧米人の態度と同一化するのは明らかに馬鹿げている。おそらくこれは150年前の欧米人の態度であり、今日ではほとんどのアメリカ人の教育心理学者、あるいは主流の聖職者がこのようなインターセックス者への扱いに恐怖するだろう。メディアはそのような扱いを肯定的に描くことは決して夢にも見ないだろう。平均的な中産階級のアメリカ人は今日、インディアンがそうだったようにはインターセックスの人を受け入れないかもしれないが、ウィリアムソンの扱われ方の残酷さを認識できない者はほとんどいないはずである。

ウィリアムソンの両親は明らかに逸脱した、信心深い変人であり、その態度や信仰はシステムの価値観にそぐわないものだった。したがって、現代欧米社会を批判する一方で、ウィリアムソンは実際には、今日のアメリカの支配的な価値観にまだ適応していない逸脱した少数派や文化的に遅れた人々を攻撃しているのである。

この本の著者であるハヴィランドHavilandは、12ページにおいて、文化人類学を偶像破壊的、現代西洋社会の想定への挑戦として描いている。

これはまったく逆転しており、悲劇でないとすれば喜劇である。現代アメリカの人類学の主流派は、システムの価値観や想定に救いようがないほど従順である。今日の人類学者が私たちの社会の価値観に挑戦するよう装うとき、彼らは過去の価値観――システムが私たちに要求する文化的変化についてこない、逸脱者や遅滞者しか持たない廃れた時代遅れの価値観――にだけ挑戦するのが典型である。

ハヴィランドによるウィリアムソンの記事の利用の仕方は、この点を非常によく描写しており、彼の本の一般的な傾向を代表している。彼は読者に対して政治的に正しい民俗学的事実を強調するが、政治的に正しくない事実については記載を抑えるか省略している。したがって、彼はインディアンがインターセックスを受け入れたというウィリアムソンの説明を引用しながらも、例えば、多くのインディアンの部族が姦通した女性の鼻を削ぎ落としながら、姦通した男性にはそのような処罰がないことについては言及しない。あるいはクロウ・インディアンの間では部外者に襲われた場合に攻撃者をただちに殺さなくてはならない、そうでなければ彼は部族の仲間たちに取り返しがつかないほど軽蔑の目で見られるという事実について言及しない。さらにハヴィランドは米国東部のインディアンによる拷問の習慣についても論じていない。もちろんそれらの事実は暴力、マチスモ、性差別を表しているため、現在のシステムの価値観と矛盾しており政治的に正しくないとして検閲される傾向がある。

それでも私はハヴィランドが、人類学者が西洋社会の想定に挑戦するという彼の信条において完全に誠実であるということを疑わない。私たちの大学インテリの自己欺瞞の能力は容易にそこまで到達するのだ。

終わりに、私は姦通に対して鼻を削ぎ落とすことが良いとか、その他の女性への虐待が容認されるべきだとか、私はだれかがインターセックスであることや人種、宗教、性的指向など、など、などで馬鹿にされたり拒絶されることが良いということを示唆しているのではないことをはっきりさせておきたい。しかし、今日の私たちの社会では、これらの問題は、せいぜい改革の問題である。システムの巧妙なトリックは、あるいは革命的な方向へ向かっただろう強力な反逆衝動を、適度な改革に奉仕するよう向けたことにあるのだ。

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