2019-04-27

自由とは力である

自由freedomの定義を引くとこうある。

ある者が望むように行動し、発言し、思考する力(権力)あるいは権利。The power or right to act, speak, or think as one wants.

すなわち、自由とは力または権利である。

では、権利rightとはなにか。

何かを所有する、あるいは行う道徳的あるいは法的な資格。a moral or legal entitlement to have or do something.

ここで、アナーキストは道徳と法律を否定する。ゆえに、アナーキストにとって自由とは力である。

Untitled by Mostafa Dashti

権利と力

権利と力の違いとはなにか。

  • 権利は、だれか第三者が与えるものである。「強力な他者」――政府、法律、道徳、価値観などの抽象的存在によって外から与えられる。
  • 権利は万人に平等に与えることが可能である。
  • 権利は、本質的に強力な他者の所有物である。当人の意志と無関係に剥奪されることがある。
  • 諸個人が権利を得るためには「強力な他者」に請求する必要がある。

一方で、

  • 力とは個人あるいは集団に内在するものである。集団が力を持つとき、それはその成員による個人的な力の集積である。
  • 力を持つ者は自らにおいて強力となる。
  • 力は平等ではない。個々人の生まれ持った資質に左右されうる。
  • 力を与えることはできない。例えば、絵を描く技術や重いものを持ち上げる力は与えることができない。
  • 力を無効化することはできるが、奪いとることはできない。
  • 力を高めるためには、諸個人の意志と自己知覚が重要となる。

このように考えてみると、アナーキストと左翼の違いが浮き彫りとなる。

権利を求める左翼

左翼は「権利」を求める。左翼を支配しているのは無力感である。典型的な左翼は有色人種、LGBT、女性、動物のような社会的弱者に自己同一化する。そして政府や企業、世論などの「強力な他者」に訴えかけて権利を得る必要があると彼らは感じている。

「強力な他者」に権利を請求する一方で、左翼は政府や企業のような「強力な他者」を極力制限する必要があると考えている。左翼の理想社会には、資本家や政治家などの比較的に具体的な「強力な他者」は存在しない。しかしそこには支配者が不在なわけではない。

そこではより抽象的な、非人格的な、道徳やヒューマニズムといった他者が支配者として君臨する。彼らは支配者の不在を望んでいるのではなく、より完全で非の打ち所のない支配者を求めているのだ。

結局のところ、左翼の理想とする社会はキリスト教的価値観に酷似している。つまり、だれもが「無力な弱者」であり、「神=超越的な他者」の許しを乞うような世界。

力を求めるアナーキスト

アナーキスト(少なくとも個人主義のアナーキスト)は「力」を求める。彼らはだれもが自分の主人となり、各々個人が可能性を追求することのできる社会を求める。政府や道徳は、人々に価値観や行動を強制することによって個人の自己発展を阻害する。ゆえにアナーキストは政府や道徳を破壊しようとする。

アナーキストにとって権利は自由の逆である。権利は諸個人ではなく政府や法律のような強力な他者が持つ「力」であり、彼らが存在しなければ霧散してしまう。権利は個人の自由となる所有物ではない。人々がより多くの権利を求めれば、より多くの力を政府に与えることになる。政府が強力になれば諸個人はますます自由を失う。

アナーキストは、左翼と違い、悪しき「強力な他者」を良きものに変えることを目標としない。強力な他者を破壊しようとする。

弱者と強者

ニーチェが「力への意志」という概念で示したことは、一見「力」とは無縁に見える事柄が、実は「力への意志」によって説明できるということだ。

たとえば科学者は公平中立に、無私無欲に、客観的理性的に真理を追求しているように思われる。しかし実際には、彼らは世界を理性のもとに屈服させようとしている。

宗教家や熱心な信者たちは、自らの弱さ、無力さ、不完全さを理想的なものとする。それは彼らが強者たちより正しい存在として自分を肯定し、強者たちを屈服させる力を持ちたいからである。

左翼についても同じことだ。彼らは弱者に共感し、また弱さや無力さを肯定しているようだが、求めているのは相変わらず「力」である。

ニーチェは戦士的、主人的な人間を理想としたが、それは彼らが力を求めることを肯定するからである。

左翼のような人々がなぜ直接「力」を求めずに「権利」を求めるかといえば、本質的に自分が弱者であり、無能であり、他に可能性がないと考えるからである。彼らは政府や法律、道徳のような「強力な他者」に権利を与えてもらうことによってのみ救われると考えているわけだ。

左翼は弱く、依存的で乳飲み子的である。彼らにどれほど自覚がなくとも、左翼は権威主義者だ。現代ではポリコレに熱中している彼らは、100年前に生まれればファシズムに熱狂しただろう。

弱者のための文明社会

この世には弱者と強者が存在する。

その両者が自由=力を求める。力を得るために、弱者は「強力な他者」を求める。強者は「強力な他者」を破壊しようとする。

弱者は文明社会を維持発展させようとする。強者は独立して個人として発展することを望む。現代は、弱者が強者を支配する社会である。弱者は「強力な他者」により大きな力を与えることで、強者たちを迫害している。そうして弱者である自己を勝ち誇っている。

結局、ニーチェが語るように、今生きている私たちの世界は、奴隷が主人の上に立つ世界――奴隷一揆後の世界だということだろう。

しかしながら、私たちは日常生活の中で、このような奴隷一揆またはユダヤ的価値転換に気づくことはありません。キリスト教道徳、これを前提とする近代の民主主義は、出来損ないが自らの身を守るために発揮した狡知の結果であるということ、人類全体の福祉を著しく妨げる錯誤であることに気づくのも容易ではありません。というのも、私たちが生きているのが、すでに奴隷一揆が成功して奴隷道徳が君主道徳に勝利を収めてしまった世界、賤民の視点がすみずみまで浸透した世界に他ならないからなのです。(知の教科書 ニーチェ/清水真木

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