アナーキストは恐怖の爆弾テロリストか

アナーキストは危険思想の持ち主だと言われています。

爆弾を投げたり暗殺する、それがアナーキストだとメディアで宣伝されている。

 

アナーキストは、道徳や社会通念のようなイデオロギーを拒絶します。

「法律は守らなければならない」「人を殺してはいけない」というような考え方を受け入れません。

 

……では、アナーキストは恐るべきテロリストなのでしょうか?

実際には、歴史上だれが暴力を行使し、そして今行使しているのでしょうか。

 

今日はアナーキストの入門書として有名な、アレクサンダー・バークマンの「What is anarchism?」のIs Anarchism Violence?からまとめていきます。

アナーキスト=暴力なのか

過去の歴史を少しでも知る人なら、歴史が暴力によって動かされてきたことを知っているでしょう。

もしアナーキストがときに暴力を行使したからといって、アナーキズムが暴力を意味する必要はあるだろうか?

もし市民が軍服を来たときに、彼は爆弾を投げて暴力を行使するかもしれない。君は市民は爆弾と暴力を意味すると言うだろうか?

それが意味することは単純で、特定の状況では人々は暴力を行使するということだ。彼は民主主義者かもしれないし、君主主義、社会主義、ボルシェヴィズム主義、無政府主義かもしれない。

歴史は暴力によって動かされた

君はこのことをすべての時代のすべての人に当てはめることができる。ブルータスがカエサルに殺されたのは、彼が彼の友人が共和国を裏切り、王になることを恐れたからである。ブルータスは「カエサルよりもローマを愛したから」ではない。ブルータスはアナーキストではなかった。彼は忠実な共和主義者である。

ウィリアムテルは、童話が私たちに語るように、彼の国の抑圧をとりのぞくために暴君を殺した。テルはアナーキズムを知りもしない。

私がこれらの例をあげたのは、太古の昔から、憤激した自由を愛する者によって独裁者が殺されてきた事実を描くためである。そのような人々は暴君に対する反逆者だった。彼らは一般的に愛国者で、民主主義者か共和主義者で、ときに社会主義者やアナーキストだった。彼らの行動は間違いや不正に対する個人的な反逆者だった。アナーキズムはそのことと関係ない。

暴君が殺されることは喜ばしいこと

抑圧的な暴君はいつの時代も殺されました。

だれが暴君殺しを憎むでしょうか? 彼らが私たちから奪い、強制し、殺そうとしているときに。

古代ギリシャでは独裁者を殺すことが最高の美徳とされた。

近代法はそのような行動を非難するが、人間の感情はその古き時代から何も変わっていないように思われる。世界の良心は暴君殺しに対して憤激することはない。もしおおやけには認めなくても、人類の心はそれを認め、内心そのような行動に喜びさえする。

……真実は、すべての国のすべての社会運動において、暴力は太古の昔から闘争の一部だったのである。平和の福音を説くためにやってきたナザレ人でさえ、暴力によって両替商を神殿から追い出した。

あのキリストさえ両替商をぶん殴りました。

アナーキストは暴力の独占者ではない。反対に、アナーキズムの教えは平和と協調であり、生命と自由の神聖さを侵害しないことである。しかしアナーキストは人間である。他の人々と同じく、あるいはたぶんそれ以上に。彼らは過ちや不正に対してより敏感であり、抑圧にすぐさま憤激し、したがってときに彼らの主張を暴力でもって行使することの例外ではない。しかしそのような行動は個人の気質の表出であり、特定の理論が原因なのではない。

暴力で満たされた社会

現代社会は暴力で満たされています。

政府は暴力である

私たちが政府と呼ぶものは何か? それは組織暴力以外のなにかであろうか? 法律は君にこれをしろ、あれをするなと命令する、そして君が服従しなければ、力によってそれを強制する。……すべての政府は、そしてすべての法と権威は究極的には、処罰と処罰への恐怖、そして権力と暴力に頼っている。
霊的な権威についてでさえ、教会と神の権威は権力と暴力に頼る。というのみ君の理性に反して信じ込ませ、君に服従を矯正するのは、君にふりかかる神の怒りへの恐怖だからである。

権力と暴力の、権威と服従の、義務、恐怖、処罰の空間のなかで私たち全員は育った。私たちの空間のなかで呼吸してきた。私たちは暴力の精神に深く浸っているために、暴力が正しいのか、間違っているのかをもはや考えようとしない。私たちはそれが合法的か、法律がそれを許すか問うのみである。

君は政府の殺し、奪い、投獄する権利を疑わない。もし私的個人が政府がつねにしてきたことと同じことををすれば、君は彼を殺人者、盗人、悪人だと烙印を押すだろう。しかし暴力が「合法的」に行われる限り、君はそれを認める。だから君が反対しているのはほんとうは暴力ではなく、人々が暴力を「違法に」行使することなのだ。

政府は暴力である。このあたり前のことが現在では見失われています。

暴力につつまれる私たちの社会

そもそも私たちの日常はほとんどすべてが暴力によって支配されています。

あなたが明日も働かなければいけないのはなぜか? 納税しなければいけないのは? 学校へ行かなければいけないのは? 夫のために家事をしなければいけないのは? そこに暴力があるからです。しかし、私たちは暴力の存在を認識することもない。あまりにも暴力は普遍的に存在するからです。

この合法的暴力と恐怖は私たちの個人的、集団的な存在のすべてを支配する。権威は私たちの生活をゆりかごから墓場まで支配する。子育て、牧師、宗教、政治的、経済的、社会的、道徳的に。しかし権威がどのような性格であろうと、君を処罰への恐怖によって支配するのは同じ処刑人である。君は神と悪魔を、神父と隣人を、雇用者と上司を、政治家と警官を、裁判官と刑務官を、法と政府を恐れる。君の生活のすべては、君の肉体を痛めつけ、精神を切り裂く、恐怖で繋がれた長い鎖である。これらの恐怖は神、教会、両親、資本家や支配者の権威によってなされる。

君の心に問うて、私の言うことが間違っているか問うてみよ。なぜ、10歳の子どもであるジョニーでさえ、彼の弟や妹を肉体的な強さによってしたがえるのか。ジョニーの父親が彼をさらに強い力や生活への依存によって彼をしたがえるように。

権威は君の人生のすべてを支配し、過去から現在までの権威、生きた権威と死んだ権威、そして君の存在はだれか他人の考えと意志に絶えず服従するよう絶えず侵略され侵害される。

そして君が侵略され侵害されるように、権威をもつことができ、強制できる他者に対して侵略し侵害することで、無意識のうちに自己に復讐をする。
このように人生のすべては権威の、支配と服従の、命令と隷従の、強制の、支配と被支配の、暴力と権力の幾千もの形態をとった狂ったツギハギとなる
……アナーキズムは暴力や強制のない、すべての人間が平等で、自由に、平和に、調和をもって生きる社会を理想とする。

アナーキーという言葉がギリシャ語からきている。権力のないこと、暴力や政府のないことを意味する。それは政府がまさに暴力、拘束、強制の源泉だからである。

アナーキーはしたがって、君がさっきまで思っていたように無秩序でもカオスでもない。その逆、まさに正反対だ。それは無政府であり、自由と解放である。無秩序は権力と強制の子どもだ。自由は秩序の母親だ。

「美しい理想だ」と君は言う。「しかし天使にしかそれは合わないだろう」

見てみよう。私たちが理想的な社会に必要な翼を育てられるかを。

気に入ったフレーズがあったので太字にしました。

私たちの生活は本当に狂ったツギハギだと思います。

まとめ

以上、バークマンの記述をかいつまんで引用しました。

バークマンの主張の核は、第一に暴力はアナーキストの占有物ではないということです。自然な愛国心を持つ人の方が多かったでしょう。たしかに日本でも暴力行為を行っているのは左翼よりはるかに右翼の方が多いと考えられる。

第二に暴力はあまりに日常に浸透しているということ。
私たちは暴力が善か悪かを考えることができない、という点は非常に共感できます。私たちがしたくもないつまらない仕事をし、税金をきちんと収めるのはそこに暴力と強制が働いているからです。

そして、強制的な関係は夫婦間、親子間、教師―子ども、上司―部下、警察―市民、刑務官―囚人、検察―被告人といった具合に、私たちの社会をほとんどすべて包んでいます。

 

究極的に、国家はヒエラルキーです。親や教師や牧師や上司といった人々の暴力や強制を悪だと認識できなければ、国家暴力を悪と認めることもできません。私たち弱者の暴力は悪だと考え、国家の暴力は善だと考えるようになる。

私は暴力は中性的な概念だと考えています。バークマンの言うようにアナーキズムが目指すのは完全に非暴力社会だとも考えていません。人間が自然な、善の暴力によって不自然な、悪なる暴力に打ち勝つ社会だと私は考えています。

アナーキスト=暴力という迷妄が存在します。

歴史は暴力によって動かされてきたこと、そして今ここに浸透した暴力があることは認識すべきでしょう。

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