もっとアナーキストが増えればいいなー

と思っている私です。

アナーキズムほど楽しくて自由になれる政治哲学はないからです。

 

そんなわけで、アナーキズム初学者が学びやすい文章を探していると、良いものが見つかりました。

Bob BlackのAnarchy 101を訳していきます。

ギュスターヴ・クールベ(1819~1877)「パラヴァの海」

クールベはアナーキストの画家で、プルードンとマブダチだった。

目次

アナーキー101 by ボブ・ブラック

「アナーキズム」とは何か?「アナーキー」とは何? 「アナーキスト」とはだれ?

アナーキズムは生きるための最良の考え方だ。アナーキーは生き方である。

アナーキズムは政府(国家)が不必要で危険なものとする考え方だ。アナーキーは政府のない社会だ。アナーキストはアナーキズムを信じ、かつて私たちのすべての先祖がそうであったように、アナーキーに生きることを望む人のことである。政府を信じる人(リベラル、保守、社会主義者やファシストのような人)は、「国家主義者」として知られる。

アナーキズムは純粋に否定的なものだと思われるかもしれない――ただ何かに反対しているだけの。実際には、アナーキストは国家のない社会での生活に多くの肯定的なアイデアを持っている。しかし、マルクス主義者やリベラル、保守たちのように未来図を持っているわけではない。

アナーキストは爆弾テロリストじゃないの?

違う――少なくとも、過去150年間アナーキストが政治運動で投げた以上に多くの爆弾を毎日イラクに投下するアメリカ政府と比べれば。なぜ私たちは「爆弾テロリストの大統領」という言葉を聞かないのか? 爆弾がアナーキストに水平から投げ込まれることは、アメリカ政府によって垂直に爆弾が落とされることよりも問題なのだろうか?

アナーキストは民主主義政府から独裁政権下まで多数の国で多くの年月活動した。ときに、特に深刻な抑圧のある場合、爆弾を投げたアナーキストもいる。しかしそれは例外だ。「爆弾テロリストのアナーキスト」というステレオタイプは19世紀に政治家とジャーナリストによってでっちあげられたもので、いまだにそれが続けられているが、当時でさえ卑劣な誇張だったのである。

アナーキスト社会が実現していたことはあるの?

ある、数千ものアナーキスト社会があった。百万年かそれ以上、すべての人間は狩猟採集民として生きてきた。平等な、階級や権威のない小さなバンド(狩猟採集社会に見られる小集団のこと)で。これが私たちの先祖だった。アナーキスト社会は成功していた。そうでなければ私たちは今いないだろう。国家はたった数千年の歴史しかもっっていない。そして国家は最後のアナーキスト社会である、サン族(ブッシュマン)、ピグミー族、オーストラリアの原住民を征服するのに非常に時間がかかっている。

でも生き方を元に戻すことはできないよ。

ほとんどすべてのアナーキストがそのことに同意するだろう。しかしアナーキストにとってでさえ、それらの社会を研究し、いかに完全に自主的で高度に個人主義的でありながら、協力的な社会が機能することには目をみはることである。ほんの一例をあげると、アナーキストの採集民と部族の人々は、強制力のない調停や仲裁を含む、紛争解決の非常に効果的な手段をもっていることが多い。彼らの方法は私たちの法的システムよりも機能する。それは問題の合理的な解決策を見つけるために、同情的で信頼できる仲介者の助けを借りて、論争者の家族や友人、隣人に論争者の同意を促すからだ。1970年代と1980年代、アカデミックの専門家はそれらの手法をアメリカの司法制度に移植しようとした。当然だが移植したものは枯れて死んでしまった。なぜなら、それらは自由な社会でのみ生きるからだ。

アナーキストは単純だね。人間の本質は善だと信じてるんだから。

そうではない。アナーキストは先天的堕落(Innate Depravity:キリスト教の概念)とか、原罪といった概念に否定することは事実だ。これらはほとんどの人がもはや信じていない宗教的概念だ。しかしアナーキストは通常、人間の本質が善だとも信じていない。彼らは人間を、そのままに受け止める。人間は「本質的に」何者でもないのだ。資本主義とその味方、国家の元で生きる私たちは、私たちがなることのできるすべてになる可能性を奪われているのである。

たしかにしばしばアナーキストは道徳的な呼びかけをするが、同時に啓蒙された自己への呼びかけも行う。アナーキズムは自己犠牲の教義ではないが、彼らは自分の信じるもののために戦い死んでいった。アナーキストは自らの基本的な考えを実行することは、ほとんどすべての人によりよい生活をもたらすと信じている。

国家が犯罪をコントロールしなければ互いに攻撃しないとなぜ信じられるの?

もし君がふつうの人々が互いに攻撃しないと信じられないなら、なぜ君は国家が私たち全員を攻撃しないと信じられるのか? 権力を手にした人々は彼らが支配するひとびとよりも、利他的で、洗練されて、優れているだろうか? もし君が仲間を信じないほど、アナーキストになる理由がある。アナーキーでは、権力は減退され、拡散してしまう。だれもが同じ権力をもち、多くの権力を持つ人はいない。国家の元では、権力は中央集権化され、ほとんどの人が現実にはもたない。どちらの権力に君は対抗したいだろうか?

でも、本当の話――もし警察がなかったらどうなるの?

アナーキストのアレン・ソーントンが観察したとおり、「警察は保護事業を担っているのではない。彼らは復讐事業をしている」。バットマンが運転しながら実行中の犯罪を止めていることは忘れよう。警察のパトロールは犯罪抑止にも犯罪の逮捕にもつながらない。カンザスシティの周辺で、特定の地域のみ警察のパトロールが秘密裏に中止されたとき、犯罪率は同じままだった。他の研究でも、探偵行動、犯罪研究などが犯罪率に効果がないことを明らかにしている。しかし、隣人たちが集まって互いに見守り、犯罪者になりそうな者に警告するとき、犯罪者は警察にのみ保護された違う地域へ行く。犯罪者はそこが危険が少ないことを知っているのだ。

でも、近代国家は日常生活の規制に深く関わっている。ほとんどすべての行動は国家と繋がりがあるよ。

それは事実だ――しかし考えてみれば、日常生活はほとんど完全にアナーキーだ。ほとんどだれも警察官に出くわさない、彼が君に速度違反のチケットを書かない限りは。自発的な決定と理解は、ほとんどどこにでも存在する。アナーキストのルドルフ・ロッカーが書いたとおり、「事実は、最悪の独裁制下でさえ、ほとんどの人々の仲間との個人的な関係は、自由な合意と団結的な強力に基づいており、それなしでは社会的生活はまったく不可能である」。

家族生活や、買うことと売ること、友人関係、崇拝、セックス、レジャーは完全にアナーキーだ。多くのアナーキストが国家と同じほど強制的と考える職場でさえ、労働者は上司から独立して、労働を最小限にするために協力することはよく知られている。アナーキーはうまくいかないと言う人がいる。しかし、それはうまくいっているほとんど唯一のものなのだ! 国家はアナーキーの基盤の上に不安定に存在しており、経済もまたそうなのである。

文化は?

アナーキズムは私たちの文化を豊かにする寛大で創造的な精神をつねに魅了してきた。アナーキストの詩人にはパーシー・ビッシュ・シェリー、ウィリアム・ブレイク、ランボー、ローレンス・ファーリンゲティなどがいる。アメリカのアナーキストのエッセイストはヘンリー・ソローがおり、20世紀ではカトリックのアナーキストのドロシー・デイ、ポール・グッドマン、アレックス・カンフォート(「ジョイ・オブ・セックス」の著者)がいる。アナーキストの学者は言語学者のノーム・チョムスキー、歴史家のハワード・ジン、そして人類学者のA.R.ラドクリフブラウンとピエール・クラストルが含まれる。アナーキストの文学者は列記すれば膨大な数がいるが、レオ・トルストイ、オスカー・ワイルド、メリー・シェリー(「フランケンシュタイン」の著者)。アナーキストの画家はギュスターヴ・クールベ、ジョルジュ・スーラ、カミーユ・ピサロ、ジャクソン・ポロックがいる。他のクリエイティブなアナーキストはジョン・ケージ、ジョンレノン、バンドのCRASSなどの音楽家がいる。

アナーキーで今より生活がよくなると過程して、どうやって私たちは強力で抑圧的な国家を滅ぼすことができるのか?

アナーキストはつねにこの問いを考えている。ひとつのシンプルな答えはない。軍が1936年にクーデターを試みたとき、100万人のアナーキストがいたスペインでは、労働者が工場を奪取して農民が団結するのを支援するのと同時に、ファシストと正面から戦った。アナーキストは同じことを1918年から1920年にウクライナで行ったが、彼らは帝政と共産主義者と戦わなければならなかった。しかしそのようなことは21世紀の世界でシステムを破壊する方法ではない。

東欧で革命家が共産主義を滅ぼした革命を考えてみよう。いくつかの国では、他の国よりも暴力と死が関与していた。しかし政治家、官僚、将軍たち――私たちが直面しているのと同じ敵――を倒したのは、腐ったシステムを維持するために働くことや何かすることを拒否したほとんどの人々だった。モスクワやワルシャワの議員がすべきことは何だったか? 自らに核兵器を落とすことだろうか? 自分たちが寄生している労働者を根絶することだろうか?

ほとんどのアナーキストは、彼らが全般的ストライキ(ゼネスト)と呼ぶものが国家を崩壊させる上で大きな役割を持つと信じていた。つまり、集団的な労働の拒絶である。

すべての政府に反対するなら、民主主義に反対していることになる

もしも人々が自らの生活をコントロールことが民主主義の意味だとすれば、すべてのアナーキストは、アメリカ人アナーキストのベンジャミン・タッカーが彼らを呼んだように、「不屈のジェファーソン流民主主義者」だ――彼らは唯一の本物の民主主義者だろう。しかしそれは現実の民主主義ではない。現実では、国民の一部分(アメリカでは、常に少数者の国民である)が一握りの政治家を選ぶのである。政治家は多数者が好むと好まざるとにかかわらず、法案を制定したり選出されていない官僚と警察を利用し、彼らの生活を管理する。

フランスの哲学者のルソー(アナーキストではない)がかつて書いたように、民主主義では、国民は投票の瞬間にしか自由ではなく、その他のすべての時間は政府の奴隷である。当選した政治家と官僚は通常ビッグ・ビジネスやしばしば他の特別な利益団体の強力な影響を受ける。だれもがこのことを知っている。しかし中には権力者から利益を得ているので沈黙を守る者がいる。そのほかの多くの人々は、そのようなことを言うのは得策ではない、「過激派」や「アナーキスト(!)」と呼ばれることを知っているために沈黙を守る。すごいね民主主義!

もし行動決定する当局者を選出しなければ、だれが行動決定するのか? だれもが他者への配慮なしに個人的喜びを決定できるわけではない

アナーキストは真に自発的で協力的な社会で、どのように決定を行うかについて多くの考えを持っている。ほとんどのアナーキストはそのような社会は互いに成員を知ることのできるほど小さいか、少なくとも家族、友情、意見や利益関係をほとんど全員と共有する地域的な共同体であると考える。そしてこれは地域共同体であるために、人々は共同体と環境に対する共通の知識をもっている。彼らは自らの決定の結果とともに生きなければならないことを知っている。他者のために決定する政治家や官僚とは違い。

アナーキストは、決定はつねに可能なかぎり最小限レベルで行われるべきだと信じる。個々人が自らのために行うすべての決定は、他者が自分のための決定を妨げることなく、ただ自分のために決定すべきである。すべての小集団(家族、宗教集団、同僚など)における決定は、それが他者に干渉しない限りは彼らの決定である。大きな影響を与える決定は、もしそれらを案ずるものがあれば、直接的な共同体の協議会が行われるだろう。

協議会はしかし議会ではない。だれも選出されていない。だれもが参加する。人々は自分のために話す。しかし彼らが特定の問題について話すとき、彼らは自らにとって、勝利は、フットボール・コーチのヴィンス・ロンバルディが言ったように、「ただ一つのものではない」ことを強く認識する。彼らはみなに勝って欲しいのだ。彼らは隣人との関係に価値をおく。彼らは第一に、問題を明確化し、誤解を解くことから試みる。しばしばそれだけで合意を生むことができる。それで十分でなければ、妥協案を模索する。通常これで成功する。そうでなければ、すぐに決断する必要がない場合、コミュニティはその決定を延期し、次の会合までに十分に熟考や議論することができる。それが失敗すれば、共同体は多数派と少数派が一時的に分離し、それぞれが好む決定を行うことができるかを模索する。

もし人々がまだ問題に対する相違点がある場合、少数派は2つの選択肢をもつ。共同体の調和が問題より重要なために、多数派に同意すること。おそらく多数派は、少数派のために別の問題で譲歩することができるだろう。もしすべてが失敗すれば、その問題が少数派にそれほど重要であるなら、彼らは共同体を離れることができる。多くのアメリカの州(コネチカット州、ロードアイランド州、バーモント州、ケンタッキー州、メーン州、ユタ州、ウェストバージニア州)がそうしたように。それらの州の離脱が国家主義の反論にはならないように、この離脱もアナーキズムへの反論にはならない。それはアナーキーの失敗ではない、新しい共同体もアナーキーを再生産するからだ。アナーキーは完璧なシステムではない――他のすべてよりも優れているだけだ。

地域レベルですべての必要や要求を満たすことはできないよ

すべてではないかもしれないが、アナーキーだった前史ヨーロッパでは、数百マイル、さらに数千マイルの長距離貿易が行われていた考古学的証拠がある。

20世紀に人類学者が訪れたアナーキーな原始社会、サン族(ブッシュマン)のような狩猟採集民や、トロブリアンド諸島の部族はそのような貿易を個人の「トレード・パートナー」と行なった。実際的なアナーキーが地域の完全自給自足によって成り立ったことは一度もない。しかし現代のアナーキストの多くは、共同体や地域はできるだけ自給自足であるべきだとする。遠方の非人格的な部外者に依存しないために。現代技術は自給自足を破壊しマーケット市場を拡大するためにつくられたものだが、それをもってしても地域の自給自足は、政府や企業が私たちに知ってほしいよりもはるかに多くが可能である。

「アナーキー」の定義の一つはカオス。アナーキーはカオスになるんじゃないの?

アナーキストを自称した最初の人間、ピエール・ジョセフ・プルードンはこう書いた。「自由は秩序の母であり、娘ではない」。アナーキーの秩序は国家権力より強く働く。なぜならそれは強制的な法律のシステムではなく、単に互いに見知った人々がいかに生きるかを決定するかだからである。アナーキーの秩序は常識と合意(common consent and common sense)に基づいている。

いつアナーキズムの哲学ができあがったの?

アナーキーの概念は古代ギリシャの犬儒派のディオゲネスや、古代中国の老子、中世の神秘主義者によって、またイングランド内戦に表れていると考えるアナーキストがいる。しかし、近代のアナーキズムはウィリアム・ゴドウィンのイギリスで1793年に出版された「政治的正義」によって始まった。これは1840年にピエール・ジョセフ・プルードンの「私有財産とは何か?」によってよみがえった。彼はフランスの労働者たちのアナーキズム運動を引き起こした。マックス・シュティルナーは1844年の「唯一者とその所有」にてアナーキストの基本的価値観である啓蒙された自我を定義した。アメリカ人のジョサイア・ウォーレンは、独自に同様の思想に到達し、ユートピア的共同体を求める大規模運動に影響を与えた。アナーキストの理念は偉大なロシアの革命家、ミハイル・バクーニンと尊敬すべきロシアの学者ピーター・クロポトキンによって発展した。アナーキストは変わりゆく世界で彼らの理念が発展し続けることを望んでいる。

アナーキストの革命ってだれも望まない共産主義によく似てるね

アナーキストとマルクス主義者は1860年代から敵だった。彼らはときにロシア革命の皇帝やスペイン市民戦争におけるファシストなどの共通の敵に対して協力したにせよ、共産主義者はつねにアナーキストを裏切ってきた。カール・マルクスからヨセフ・スターリンに至るまで、マルクス主義者はアナーキズムを誹謗してきた。

クロポトキンの追従者であるアナーキストの中には、自らを「コミュニストcommunist」と呼ぶ者がいる――共産主義者Communistではなく。しかし彼らは両者を対比する。土地、施設、労働の、人々が互いに見知った自発的な集まりによる、下から生じる自由なコミュニズムと、土地や生産手段を国営化し、すべての地域の自治性を否定し、労働者を減らし国家の従業員にする、国家の強制による共産主義を。これ以上両者が異なることができようか?

アナーキストはヨーロッパの共産主義の没落は歓迎するし、実はそれに与してきた。海外のアナーキストは東ブロックの反体制派を支援してきた――米国政府はしなかったにせよ、何年も支援した。アナーキストは現在すべての旧共産主義国で活動している。

共産主義の崩壊はアメリカ人の左翼の大半を不信にさせたが、しかしアナーキストはそうではない。いずれにせよ彼らのほとんどは自分を左翼とは考えていないのだ。アナーキストはマルクス主義の前から存在しているし、その後にもいるだろう。

アナーキストは暴力を主張するんじゃないの?

アナーキストは民主主義者、共和主義者、リベラルや保守派ほどに暴力に近くはない。それらの人々は、彼らにとって暴力となるダーティ・ワークをさせるのに国家を用いるために非暴力に見えるだけだ。しかし暴力は暴力だ。軍服を来ていようが、旗を振ろうが、そのことには変わりない。国家は定義上暴力である。私たちのアナーキストの祖先――狩猟採集民や農民――への暴力がなければ、今日には国家は存在しなかっただろう。アナーキストの中には暴力を主張する者がいる――しかしすべての国家は毎日暴力を行使している。

アナーキストの中には、トルストイの伝統を受け継ぎ、平和主義と非暴力を原則とする者がいる。国家に対する攻撃を続けようとするのは比較的少数のアナーキストだ。ほとんどのアナーキストは自己防衛を信じており、革命の機会にはある程度の暴力を許容するだろう。

問題は本当のところ、暴力vs非暴力にあるのではない。問題は直接行動にある。アナーキストは、人々は――すべての人々は――自らの運命を自らの手に委ねるべきであると信じる。個人的にや集団的に、合法非合法、暴力的か非暴力的かにかかわらず。

アナーキスト社会の正確な社会構造って?

ほとんどのアナーキストにとってそれは「正確に」確定したものではない。政府が廃絶されたあとの世界は場所によって非常に異なるだろう。

アナーキストはふつう、青写真を示さない。しかし彼らはいくつかの指針としての原則を提供する。彼らは相互扶助――競争よりも協力――を社会的生活のもっとも妥当な基盤とする。彼らは社会のために個人があるのではなく、個人の利益のために社会が存在すると考える意味で個人主義者である。彼らは非中央集権化を好む。つまり社会基盤は地域の、フェイス・トゥ・フェイスの共同体であるべきだとする。これらの共同体は連合する――相互扶助の関係で――ただし、地域コミュニティでは行うことのできない活動を調整するためだけにである。アナーキストの脱中央集権化は既存の階級を逆転させる。現在では、統治のレベルが上がるほど権力も高まる。アナーキーにおいては高度の連帯は政府を意味しない。彼らは強制的な権力を持たないため、上部に行くとすれば、下から委任される責任は少ない。それでもアナーキストはこれらの連合が官僚的かつ国家的になる可能性のリスクを認識している。私たちはユートピア主義ではあるが、現実主義でもある。私たちはこれらの連合を注意深く監視する必要があるだろう。トマス・ジェファーソンが言ったように「永遠の警戒は自由の対価である」。

最後に一言?

ウィンストン・チャーチルという、故人で、アル中で、イギリスの政治家で戦争犯罪者は、かつて書いた。「民主主義は統治の最悪のシステムである。その他すべてを除けば」。アナーキーは最悪の社会システムだ――その他すべてを除けば。これまで、すべての文明(国家社会)は崩壊し、アナーキスト社会に引き継がれた。国家社会は本質的に不安定である。遅かれ早かれ、私たちの国家も崩壊するだろう。そのときにどうすべきか考えることは早すぎることではない。アナーキストははそのことを200年以上考えてきた。私たちはスタートを先取りしているのだ。私たちは君を私たちの理念に探求するよう招こう――そして世界をよりよい場所にする努力に参加して欲しい。

訳者あとがき

以上Bob BlackのAnarchy 101より。

平易で網羅的に書かれた優れたアナーキズム入門だなーと感じました。訳していて勉強になりました。

ただ、一般的なアナーキストと彼の主張は異なるところもあるので記述しておきます。

  • 彼は労働廃絶論者なので、労働の中止(ゼネスト)で革命が可能だと考えています。
  • また、共産主義者とアナーキストを敵対的なものと考えています。
  • 若干プリミティヴィスト(原始主義者)の傾向が強いかな? ゴリゴリのプリミティヴィズムではないですが。
  • 「セックスや家族生活のような日常生活の大部分はアナーキーだ」という主張はフェミニズム・アナーキズムやフーコー主義とは大きく対立すると思います。

国家はもうすぐなくなる?

ボブ・ブラックの主張で気に入った点は「国家は不安定なものである」という主張です。確かに国家は不安定なものであり、だからこそ常に技術発展や戦争を繰り返してきた。

「国家は不安定である」

「遅かれ早かれ崩壊する」

アナーキストは楽天家が多いですね。デヴィッド・グレーバーも楽天家を自称していましたが。

私自身、国家システムは私の世代くらいで終わるんじゃないかな……と考えるようになっています。国家主義や資本主義の終焉は現代では難しい考え方です。江戸時代の町民が徳川幕府の終焉を想像できなかったように。でも、パラダイム・シフトは案外あっさりと訪れるんじゃないでしょうか……。

最後に、アナーキストが一人でも増えることを望みます。これほど自由で楽しい哲学はないのです。もう少し入門的な翻訳を書いていこうと思います。

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1 Comment

  1. 江戸幕府は260年ほどの繁栄でしたね。
    資本主義システムはちょうど200年くらいが経過している。
    確かにこうやってみると資本主義というシステムは寿命が近づいているのかも知れませんね。
    ローマ帝国は江戸幕府よりはるかに長く続きましたがそれでも政体は常に不安定で
    王政から共和制、共和制から帝政、帝政からテトラルキアへと変遷を繰り返して行きました。
    やはり一つの政治システムには一定の寿命があると見ていいでしょう。
    対して日本の縄文時代は一万年。
    漠然とした自然的かつ緩やかな連帯のもとに人々が生きた時代はあらゆる国家システムより長く続いた。
    これは国家制度の限界と無政府世界の可能性を示す一つの例になっているのでしょう。
    現代的縄文型社会の可能性を示す思想に拡張プラウト主義があります。
    これはおそらく御厨鉄さんの思想とも一致する部分があるであろう考えです。
    是非こちらのブログでも取り扱ってほしいです。

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