”Are You a Wage Slave?”グレートブリテン社会党 Stefanより翻訳。画像は訳者によります。

映画「ゼイ・リブ」より

あなたは賃金奴隷か?

賃金や給料のために働かなければならないことは本当に現代の奴隷なのか?

私たち社会主義者は賃金労働を「賃金奴隷制」とし、労働者を「賃金奴隷」と呼ぶことを好みます。社会主義者でない人は、これらの表現をレトリカルな効果を狙った修辞的表現だと考えるかもしれません。そうではなく、私たちはこの表現を文字通りの意味で使っています。これらの言葉は、資本主義社会への私たちの視座を反映しています。

社会主義者は、古典的な奴隷制(個人の私有物としての奴隷制)と、労働搾取の代替手段としての賃金奴隷制を包括するため、「奴隷制」という言葉を幅広い意味で用いています。私たちはそれらの違いを認識していますが、これらに共通の目的を指摘しているのです。資本主義の言いまわしでは、古典的な奴隷制を奴隷制とし、賃金労働を自由労働とすることで、これらを覆い隠しています。社会主義者は労働者たちが個人あるいは集団で、土地や道具、生産機械などの労働手段を所持し、みずからで管理する場合においてのみ労働者は自由であるとしています。

なぜ古典的奴隷制が廃止されたか?

古典的奴隷制と、搾取の代替手段としての賃金奴隷制の関係は、古典的奴隷制を廃した英米の支配階級の議論の中において見られます。奴隷廃止論者の宗教活動家が奴隷の所有は倫理的罪だと強く非難する一方で、古典的奴隷制はもはや労働人口を搾取するうえでもっとも効果的な方法ではない、という主張がもっとも決定的なものでした。奴隷制が廃止になったのは、経済、とくに産業発展を妨げるからなのでした――すなわち、資本集積のためなのです。

賃金奴隷の法的、社会的、政治的状況は古典奴隷よりも優れています。しかし、労働の過程における立場を比較した場合、ここに根本的な違いはないことがわかります。いずれの奴隷も、生産手段をもつ「ボス」の命令に従うよう強制されています。中小企業ではボスが直接命令する一方で、大企業では中間管理職を通じて命令を受けます。しかしすべての場合のおいて、究極的には何を生産するか、どう生産するかを決めるのはボスです。古典奴隷でも、賃金奴隷でも、労働によって得られた生産物は彼らのものではなくなるのです。彼ら自身の活動による生産物であってもです。

生産の秘密の場所

古典奴隷と賃金奴隷のあきらかな違いは、古典奴隷の場合は、完全に他人の意志によって、生まれてから死ぬまでのあらゆる瞬間、すべての面で奴隷化されている、ということです。あなたは賃金奴隷として、労働力が雇用者によって利用されている時間のみ奴隷化されています。それ以外の時間は、生活の違う面があります。消費者であったり、投票者、家族の一員、庭師であることができ、あなたはいくらかの自由、尊敬、社会的平等を享受します。

ですから、賃金奴隷は古典奴隷では否定されていた自己発展や自己実現を可能にできる機会があります。ただし実際のところ、制限された機会です。賃金奴隷はつねに賃金奴隷制の窮屈な労働世界に戻らなければならず、それが残りの生活に疫病の霧のような影響をもたらします。

この分断によって、資本は労働者にたいし、「ジキルとハイド」のような分裂病的様式で労働者にあらわれます。資本が消費者と投票者としてせっせとおだてあげ機嫌をとった同じ人間が、職場においては、ハラスメントやいじめ、怒声や侮辱にどうしようもなくさらされることになります。

資本主義の信者は、私的な半球において賃金奴隷になにが起こるかを無視するために、「公的」な半球における相対的な社会的平等にしゃにむに焦点をあてます。ですので経済学者は市場主体の資源交換を分析し、政治学者は国家と、「市民社会」と呼ばれる想像上の階層のない共同体について話しています。子どものテレビ番組でさえそのバイアスがかかっているのです。たとえば、セサミストリートの人間キャラクターは、小売店、修理店、ダンススタジオ、動物病院などの、小さな自営や家族営業で生計を立てています。

したがって、表層の外見と深層の現実の間には深いギャップがあります。賃金労働の奴隷は資本主義社会の表面には見えてきません。それを見つけるためには「入り口に「無用の者入るべからず」と書かれた生産の秘密の場所(マルクス「資本論」)」に入る必要があります。

だれが主人なのか?

こう主張されるかもしれません。賃金奴隷は奴隷ではない、なぜなら彼らは特定の雇用主から離れる法的な権利を持っているから。もし実際には彼らが別の職を見つけられないことを恐れて権利を行使しなくても。

この主張はしかし、賃金労働者は特定の雇用主の奴隷ではないことを証明しているに過ぎません。マルクスによれば、賃金奴隷の所有者は各々の資本家ではなく、「資本全体」としての資本家階級(ブルジョア)です。たしかにあなたはある雇用主から離れられるけれども、それは新しい雇用主を見つけるためでしかありません。あなたにできないことは、ブルジョアの支配から逃げること――つまり、賃金奴隷であることを辞めることなのです。

賃金奴隷制は悪化しているか?

少なくとも効果的な社会保障である「セーフティネット」がない点で、賃金奴隷性は古典奴隷制よりも悪いと主張する人もいます。古典奴隷は高価な財産であり、彼の主人は奴隷の生命や能力を保持しようとすることに関心を持ちますが、賃金奴隷は雇用から放り出され、餓死するリスクにつねにさらされています。

ひとり暮らしのOLを描きました」黒川依

実際には、奴隷がどのように扱われるかは彼の価値によって決まりました。奴隷が潤沢に供給され、したがって安かったサントドミンゴ――1791年の奴隷反乱が古典奴隷制の廃止と、ハイチ共和国の設立に繋がった(C.L.R. James, The Black Jacobins)――では、しばしば奴隷は過労や鞭打ち、また拷問を受けて死に至りました。

賃金奴隷がいかに扱われるかは、同様に交換可能性によって決まります。たとえば中国の資本家は、靴工場で若い農民工を接着剤の有毒化学物質から保護する理由がありません。なぜならたくさんの十代の女の子が絶えず田舎からやってきて、病気で働けなくなった労働者に置き換わるからです。 (Anita Chan, China’s Workers Under Assault: The Exploitation of Labor in a Globalizing Economy, M. E. Sharpe 2001).

中間形態

搾取様式の違いによって、古典奴隷と賃金奴隷が万里の長城によって分けられるわけではありません。労働者階級に不利な条件のもとでは、賃金奴隷は古典奴隷にずっと似た中間体に容易に退行することがあります。

発展途上国の絶望的に困窮した人々が、実際にはひどい条件の労働契約にサインするようそそのかされることはありふれたことです(彼らは文章を読むことができません)。彼らが真実に気づいたときにはもう遅い。力づくで抑えつけられ、逃げることができません。例としてはドミニカ共和国の農園で働いている50万人以上のハイチ人移民の窮状があります。(http://www.batayouvriye.org/English/Positions1/dr.htmlを見てください)

より公的な例としては、17~18世紀アメリカ植民地に流行した契約労働が、徐々に黒人の古典奴隷に置き換わったことです。大西洋を渡ってくるかわりに、貧しいヨーロッパ人は主人に何年か従わなければならなかった(だいたい7年)。いくらかはこの一時的な奉公を生き抜いたが、そうではない人もいました。

奴隷制と暴力

「奴隷制」という言葉は、あわれな被害者の頭を鞭打つ、カリブ海やかつての南部アメリカの残酷な監督官というイメージを惹起させます。鞭打ちはたしかに古典奴隷の象徴とされています。

しかしここでもまた搾取の方法に違いがあるわけではありません。鞭打ちは賃金奴隷である契約労働者にも広くつかわれました。例えば、1915年になってようやく、船員の鞭打ちを禁止する法律がアメリカで成立しました。その後も命令に従わない船員は鉄鎖をつけられたり、食事を減らされたりしましたが。

19世紀イギリスの繊維工場の子どもたちは、十分に働かないと革の鞭でぶたれました。中国では、1923年のストライキでAnyuanと炭鉱夫の要求により、体罰が廃止になりました。Anita Chanが著書で示しているように、この事実は台湾や韓国の資本家の持つ工場で、今日再び広まっています。

先進国でさえ、階級的に上の立場の人から、たくさんの人々がいじめや攻撃にさらされています。中には自殺する人もいます。多くの人が深刻な身体的攻撃・性的な攻撃に耐えています。この問題に取り組んでいる多くのサイトの一つ(www.worktrauma.org)には、経営者が彼女のお尻を蹴り、背中の重症を負った電動工具会社の帳簿係の話があります。私がブラウン大学にいたときにも、研究助手が研究室で指導教授にレイプされた事件がありました。

これらの労働者に対する暴力的行為はもはや法律で許されることはありませんが、つねに起こっていることです。被害者はある程度の賠償金を得ることができることがありますが、加害者に対して刑事告発が起こることは稀です。

私にはあてはまらない

もしあなたが恵まれた立場にあれば、私の主張があてはまらないように感じるかもしれません。あなたのボスはあなたをよく待遇してくれ、侮辱や攻撃の被害がなく、労働環境に満足しており、労働それ自体に満足している。少なくとも賃金奴隷ではない。

あるいはあなたはまた想像します。古典的奴隷――特に、主人や女主人の個人的な召使い――もまた、よく待遇されるほど幸運なことがありました。しかし彼らの幸運が長続きする保証はありませんでした。彼らは主人が死んだり、破産したり、引っ越したときに、新しい残酷な主人に売られたり相続するかもしれません。あなたもまた突然、不愉快な新しい上司や経営者のもとにつくかもしれません。これはあなたにはどうしようもない問題です。なぜならまさに、あなたは単なる賃金奴隷に過ぎないからです。

もしあなたが科学者やアナリストのような専門技能者であれば、こう言うでしょう。「私がどんな奴隷だというんだ? 私はつねに命令されているわけじゃない。反対だ。私は専門技能と自分で考えて、問題を解決し、提案するよう期待されている。確かに、私は重要な決断を下すことはできないが、上司たちはつねに私の意見を尊重する。そして彼らは私に礼儀正しい。」

あなたは自分を思い違いしています。私も同じように思い違いをしていたのでわかるのです。あなたの上司は、決定にいたる前にあなたの話を聞きます。彼らが決断を下すと、あなたがそれを受け入れるよう期待します。しかしあなたは自分自身を忘れてしまい(つまり自分の身分を忘れ)、すでに成立している決定に反論を続けます。するとあなたは無礼なショックに直面するでしょう!

あなたの思い違いは、あなたが雇用主の視点から問題分析することに慣れているからです。あなたは、組み立てライン工が自分の身体的な動きから疎外されているように、自分の考えから疎外されているのです。それに、もしあなたの発想を特許にするとしたら、あなたは特許が自分の物になると想像できますか?

訳者あとがき

私たちは「自分の主人」を選ぶことはできますが、賃金奴隷をやめる自由はありません。

かつて、リンカーンは賃金労働制を「自由」だと考えました。それは、何年か賃金労働者として働けば、自分の店舗などの生産手段をもつことができ、自営業者として自由になることができたからです。リンカーンがもし現状を見たら、「夢見すぎだった」となるでしょう。賃金労働者のほとんどが生涯賃金労働者として生活するからです。

賃金労働者は、農奴でも古典奴隷でもない――自由で主体的な存在だ、と考えられています。しかし、賃金労働者は「賃金労働か、飢えか」の選択をつねに迫られており、この状況は奴隷制と変わりません。

文明が発達し、階級社会(少数者による多数者の搾取)が生まれたときから、人類の歴史は三つの形態を移行しました。古典奴隷制、農奴制、賃金労働制です。

農奴制が廃止されたのはなぜだったでしょうか? そしてアメリカで奴隷制が廃止されたのは? それは身も蓋もない言い方をすれば、「奴隷制や農奴制の生産性が乏しく、賃金奴隷制の方がより大きな搾取を期待できたから」です。

人は鞭を打ってもそれほど働こうとしません。鞭を打ちすぎれば故障したり殺してしまうかもしれないし、憎悪を溜め込んで反乱が起きるかもしれません。資本主義社会では、人々は「自由で主体的な労働者」とある意味洗脳されていますので、労働生産性は高まり、怒りの矛先が「主人」に向かうことは少なくなります。なので資本主義社会では、労働生産性が高まる一方で、自殺やいじめのような弱者や自己への憎悪が強まるのです。

また、先進国では「民主主義」「法の下の平等」といったジョークを信じ込ませなければならないので、建前的にも奴隷搾取は許されないのです。

しかし、グローバルに見たらどうでしょうか? ウォーラーステインが指摘したように、世界はひとつの経済システムとして機能しています。つまり、国家間の分業が成立しているということです。労働者の権利が弱い中国や発展途上国では労働者への鞭打ちはなお行われています。先進国の人々は比較的恵まれた労働環境にいる一方で、貧しい国では賃金労働者は不当な労働条件や暴力に苦しんでいます。このことが資本主義の実情を見えづらくしています。

なぜ資本主義を愛する人がいるのか

人が資本主義を愛するとき、それは単なる「生まれついた環境への撞着」でしかないことがあります。

「日本を愛する人」が、単に日本に生まれたというだけで日本を無条件に肯定するように、あるいは「親を愛する人」が親を無条件に愛するように、資本主義社会に生まれただけで資本主義を肯定する人というのが大部分です。

私たちは生まれたときから資本主義の社会に生き、そして「進歩主義」によって、今の社会はかつてないほど最良なものだと信じ込まされます。

しかしながら、私たちは古典奴隷として、現代の金持ちがサラブレッドを愛でるように、高価な資産のように扱われたことがありません。農奴のように、相互扶助的な村落共同体のなかで自給自足で生きたことがありません。比較することができないとき、どうしてそれが最良のものといえるのか?

私たちは古代の奴隷制を「最悪のもの」で、中世農民の生活を「貧しく、自由がなかった」と考えます。それは本当でしょうか。たしかに物質的な面は貧しかったでしょう。洗濯機もコンビニもない。しかしその人生の質は?

歴史上、あらゆる支配者が「現在のシステムは最良なものだ」と説きました。これ以上、私たちは騙され続けるべきなのでしょうか。

1 Comment

  1. 働いていると不自然な人格になるんですよね。
    上司から理不尽な事を言われても、「そんなの知らないよ」と返せばより多くの弾丸が飛んでくる。
    息子の反抗を一ミリも許さない母親のようで、僕は疲れました。
    仕事を辞めてニートですが、両親は優しく「あなたの好きに生きていいのよ」と言います。
    はあ…自分の都合で産んで、用が済んだら「好きに生きろだって?」なんて言える訳がありません。
    僕は反抗期も無く(幼い頃から反抗が許されなかった)、両親に「はぁ?」とも返した事がないですから。
    能動的に何かが出来ない怠け者なのは、母も上司の様に抵抗を許さない人で、
    男の子らしく振舞った経験が無かったからかもしれません。人のせいにしているのは分かっていますが。
    僕は好きな子と二人で写真まで撮ってもらいながら、デートすらしませんでした。もうそのくらい無気力なのです。
    頭を撫でる別の女の子の手を「やめて」と払いのけました。隣で話しかけるまた別の女の子を無視して本を読んでました。
    中学高校はそんな感じです。
    「(デュフハハw俺みたいなキモオタに話しかけるなんてうっそだーw)」←目の前にいるだろおおうおお!
    思い出すだけでも無茶苦茶損してた…。それが文明や社会の原因かは分かりませんが、そんな気はすごくします。

    鬱になったら「善悪」とか「自分の将来」とか「あの世」とかどうでも良くなって、単に物理的に世界を見るのかもしれません。
    生まれた根拠が「親がセックスしたから」なわけですから、生きるのにそんなに強い動機があるわけがないんですよね。
    「めんどくせぇ」とかそういうのを通り越して「虚無(心はあるのに何言ってんだ)」です。
    自我なんて脳のソフトウェアに過ぎないとは言いますが、まさに魂も無く完全に物理的な肉体のような気がする。
    「皆そう」なんですよね。すみません。愚痴多目です。
    社会に適応できないクズですが、何とか社会の隙間に入らせてもらって食っていくか、そうでなければ自死したいと思います。

    良く考えれば、人の顔色を伺ってばかりの人生でした。悪い意味で八方美人です。
    なので自分が空っぽな人間なのだと思います。そもそもヒトという生物に大した意味は無いか。ごめんなさい。意味不明ですね。
    ああでも、この間見たアニメ映画「カラフル」は面白かったです。

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