反乱は、待ち望むべき将来の現象ではなく、「一匹狼」の個人によって日々実践されている

個人的にビビっとくる記述があったので、Flower Bombの「Anarchy: The Life and Joy of Insubordination(原文)」を訳しました。

キーワードは個人主義的アナーキズム、違法主義illegalism、賃金奴隷制、反労働です。やや読むのが難しい内容となっています。

Anne with Hand on Mouth by Avigdor Arikha

アナーキー:不服従の人生と喜び

人が「「アナーキー」とは何か?」と尋ねるとき、私はそれを学術的に「イズム」として定義するような、歴史上の人気のある哲学者を参照することはめったにない。私のアナーキーとの個人的関係は、ひとつの絶え間ない探求と発見である。私にとってアナーキーが他の政治思想と違う点は、その実践における反政治性である。私には、アナーキストとしてエスタブリッシュメントを転覆させるために膨大な人々を勧誘する必要はない。私には「労働者」を政党に参加させ、投票させ、よりよい賃金のために戦わせる――賃金奴隷のままでいさせることは言うまでもない――ような、説得力ある計画を構築することは望まない。私が持っているのは私自身のアナーキズム計画である。つまり賃金奴隷制と社会の管理から私の人生を取り戻すこと。私をカテゴライズし、閉じ込め、コントロールしようとする試みに対して敵意で武装する自己保存の計画である。

私たちが慣れ親しんでいる大統領選挙、警察、銀行、そして賃金奴隷制のようなものはすべて、秩序――強制、無力化、恐怖によって維持される秩序――を維持するための社会的システムである。これらが一体となり、地理的な場所を占有し所有権を適用する政府機関を構成している。占領の維持は、暴力を独占する装置と、それらの場所に居住する人々の服従に大きく依存する。人々の服従は規範化された服従論理と、心理的闘争なしには成功しない。生きるために必要な占領された資源にアクセスするために、占領された人々は賃金奴隷制――金銭的賃金を通じての奴隷化――を通じて、エスタブリッシュメントを再生産し維持することを余儀なくされる。この社会コントロールの根底にあるのは、個人への支配――個人の集団への服従の論理を強化する支配――である。左翼の夢精wet-dreamのために、すべての各々の賃金奴隷が一度に仕事を辞め、職をもたない人々も職につくことを辞めたときのことを想像してほしい。資源を独占する少数者は即座にすべてを失い、彼らを守る人々を失うだろう。暴力の没収により、これらの個人は団結し階級権力の維持を破壊することができるだろう。しかし年月が示すように資本主義と奴隷―主人関係維持は複雑であり、さまざまな方法で再強化されている。

労働に反対するアナーキストとして、賃金奴隷のストレスと貧困への恐怖、奴隷制度に服従することによる個人の正当化、およびそれらのことに付随する巨大な惨劇をなお検証したい。怒りを中和し、注意をそらすように作用する、物質主義的蓄積、消費主義、有毒な逃避主義のちからを私は否定することができない。資本主義の牢獄からぬけだすにはあまりにも感情的に打ちのめされている人々によって、無気力感が生涯にわたってもたらされているのを見てきた。大衆革命は理想的ではあるだろうが、残念ながらユートピア的である。職場はつねに賃金奴隷の必要に応じるよう進化している。このことは、退屈への緩和剤、ソーシャル・ネットワークのためのプラットフォーム、経済的安全による感情的快適さなどが含まれるが、それだけにはとどまらない。これら労働との小さな個人的関係は、大衆労働者たちが革命を組織することを妨げることに大きな役割を果たしている。言い換えれば、多くの人々は賃金奴隷制を享受しているのであり、それに反乱するための努力をサボタージュしさえする。人々がエスタブリッシュメントに対して立ち向かう意志のあるモノリス的な塊であると想定することは正確ではない。しかし大衆革命に頼らずとも、そこには管理不能な、予測不能な個人的反乱の力がある。これらの反乱は、待ち望むべき将来の現象ではなく、「一匹狼」の個人によって日々実践されている。元賃金奴隷として、私は賃金奴隷の個々人のユニークな歴史と来歴、彼らの自由への願望、そして彼らのしていることに対する軽蔑に伴う抑圧された怒りを検証しよう。私は彼らを抑圧している支配のもつあらゆる社会的構造に対する憎悪を検証しよう。私は「キチガイ」とか「変人」と呼ばれることを恐怖するあまりに閉じ込められている野生性を検証しよう。私は社会が精神医学の標準化を維持するために病理化し排除しようと試みる、彼らの行動の持つユニークさを検証しよう。

私たちには、非常に多くの規範、役割、そしてアイデンティティが、生まれたときから強制的に与えられている――抑圧された「世界の労働者たち」が資本主義を粉々に打ち砕いていないのは本当に驚くべきことだろうか? 社会の牢獄のなかで、私たちがユニークで野生的な自己でいるよう奨励するだけでなく、社会の管理装置に対して私たちの敵意を武装化するよう奨励するような場所がどこに見つけられるだろうか? 個性は、しばしば前―構築されたアイデンティティ――出生とともに割り当てられた、資本主義社会の機能に必要なもの――の範囲内で奨励される。個性は、無限の、統治されざる自己発見の混沌ではなく、社会によって定義されるのである。私たちが世界を見る人工的なレンズによって野生性は、家畜化と管理が必要な、邪悪な野蛮さとして道徳化される。野生性は自然界への技術的植民地化の敵である。それではアナーキーな野生性はどのようなものだろうか? 野生性としてのアナーキーは、個人を服従させるような、構築された社会的システムの管理と支配を拒絶する。個人のユニークさを服従させようとする社会構造があるところには政治的プログラムが存在する。この(しばしば支配的地位を獲得しようとするような)プログラムは、人生の生き方を規範化し画一化することにおいて責任がある。それは個人的な人々を、変化し続ける複雑な存在から、「労働者」――このエッセイでは「賃金奴隷」――へと減退させる。

統治不可能とは何を意味するのか? 統治されざる自己発見の中には生き残りの問題がある。生き残りの本能がなければ、私の労働の生産物から利益を得る資本家は私を奴隷化する影響力をもたない。食糧、住居、その他は、労働やその他を維持するためには必要不可欠である。膨大な人々を維持することが必要なシステムのもとでは、個々人は自らの食糧と/または住処を獲得する力を得ることは防止される。今日、住処(配管や電気によって構築された工業的建築物)は人々の集団のひとつ(賃金奴隷)によって製造され、他者(消費者)に売られ、独占される。建物の建築と、購入や賃借が直接的なつながりをもたないところに疎外が見出される。人々がスーパーで食糧を購入するときでも同じだが、その食糧がどこから(例えば屠殺場から)やってきたのかが断絶されている。なぜというに、他のだれかが収穫し、加工し、包装する仕事を担うからである。資本主義社会がすべての個人に対して維持するその影響力は、生存の影響力である。リソースの独占を通じて、もっとも持つものがもっとも持たないものを奴隷化することができる。では、アナーキストが「賃金奴隷」のアイデンティティと役割を拒絶したとき、どのようにして生き残るのだろうか? 個人が彼の願望を行動によって武装化することを決めたとき、いかに個人はボスや主人の奴隷化を拒絶し、資源へのアクセスを維持するのか。資本主義下では、資源を独占する人々から資源を没収することは違法だと考えられている。この点が、アナーキズムが社会改革の文明化された概念から脱却し、違法性に親和性を見いだすところである。

私は違法主義のアナーキーについて語るとき、自分の考えることについてしか話せない。すべての個人にとって、その解釈は彼らに固有な状況によって影響を受けるだろうからだ。世界中で1900年代初期にはじまり、現在もなお続く違法主義アナーキーの豊富な歴史も存在する。このエッセイの目的のために、私は賃金奴隷制に対する主張として、資源没収に関する違法性について焦点をあてようと思う。この観点より、違法主義アナーキーは私のアナーキズム活動を地上的above-groundな、リベラル化された、大衆にアピールする活動に限定することを拒絶する。法と秩序の道徳的規範の限定を拒絶するサバイバル方法を試す日常的実践なのだ。それはカオスの武器化であり、そこから私は新しい生き残り――賃金奴隷制を避ける――の方法を楽しんで発見することにおいて勇気と強さを得る。私はボスや職場に病み、疲れ切り、自分の身体を警報によって強制的に目覚めさせた。私は33歳で賃金奴隷から完全にリタイアし、そして私はそこに戻ることを絶対的に望んでいない。それでは私はどうやって食べているのか? 労働力を売る職場からの給料なしにどうやって生き残るのか? しばしば覚えることが難しい現実は、個人が生きるために必要なものはすべてすでに周囲に存在しているということだ。他種類の穀物のゲリラ農園や食糧採集に加えて、食糧は百貨店にうず高く積まれている。創造性とサボタージュのための道具はホームセンターに溜め込まれている。ゴミ箱はさまざまな資源で満たされている。個人から奪われているのは、これらの資源に対する直接的関係である。消費主義への学習を通して、人々は自らを単なる消費者とみなすようになる。根本的に「もし食事のための金がなければ、今夜飢えてしまう」と。恐怖を通じて、国家とともに資本主義は、私たちに生きるための資源を奪おうとさせるような健全な怒りを中和してしまう。これは疎外のもうひとつの形態である――消費者を受動的でいつづけさせるもの。もし君が何かを自分自身でつくるとき、君はそれと自分との関係で強いつながりを感じる。しかしだれか他人がそれをつくり、それを店のウィンドウで見たとき、そこには直接的なつながりは存在しない。したがって、そこには法律と恐怖の障壁を打ち砕くだけの動機や怒りに対する感情的な正当化は少なくなる。工場労働と同じように、私は多数の人々によってひとつの製品がつくりあげられるようなところで働いていた。それぞれの個人がただ全体の製品の部品のひとつだけに責任を持つとしたら、そこには製品全体の生産と個人労働者とのあいだの直接的な関係はなくなる。したがって、賃金奴隷は自らが生みだしたものとの関係性を育むことがない。一つの製品が多数によって生みだされるからである。

このプロセスは、個人主義を祝福するよりも、職場の集団主義――生産性を上昇し「労働者」を資本主義の共通利益のために統一する有用な道具――を賛美する。社会的に推奨されないのは、個人において、資源を守るセキュリティー装置をどのように弱体化させるかについての計画とアイデアを生みだす創造的反乱である。店舗カメラ、ロスプリベンション(訳注:従業員による盗難対策)担当者(これを「LP’s」と略す人もいる)、磁気セキュリティー装置が商品につけられる。ある個人が、その時間とエネルギーを労働とおそらく次の消費への計画に費やす一方、元賃金奴隷の個人は自由な時間を、いかに無料で物品Shitを得るかの異なるアイデアへの実験に用いる機会を得ている。工場(または食料品店、オフィスなど)での8時間の献身的な作業は、8時間の戦略的計画、評価、そして違法主義活動の実験となるのである。

もうひとつの機会は賃金奴隷の個人がみずからの職場で行う違法主義活動の実験である。もちろん、その個人は職を得るために個人情報を与えているがためにその賭けはいささか大きなものとなる。しかし職場の内部での観点からは、職場のセキュリティの弱点を悪用する機会がある可能性が高い。個人的にそのような利点を有効に使う人々に多く会ったわけではないが。このことはたぶん、彼らが職業に依存しており、その点が職場窃盗の利益よりも上回る事実によるのだろう。

反―労働の違法主義に戻ろう。生き残りのための資源については、賃金奴隷制に譲り渡すのではない時間は、慎重な計画、個人の恐怖に対する評価、そして目標設定にかけることができる。

社会が行動的コンフォーミティと服従を内―規範化するために私たちを学校に閉じ込めることで、私たちは自身と自身の能力について学ぶ機会が非常に限られている。学校と家庭の間の遊び場や近所の通りで、私たちは制限された遊びの時間を許されている。私の観点では、遊びは想像的な欲望、探求、そして発見の実現である。これらのひとつひとつは、個人の環境とそれに対する関係を観察し理解するために必要な根本的な道具である。その関係に埋め込まれているのは、経験と個人的欲求からなる「自己」だ。しかしそのような狭い時間枠では、若き個人は限られた範囲しか探求できずに、変わりに、発達とともに、消費主義的、生産的、大人主義の責任を内部化しはじめる。

しかし現実には――ほとんどの人々は自らと、その生活について何を言うことができるだろうか? 逃避主義のいくらかの形態と、個人的欲望からくる趣味の活動を除けば、多くの人々の生活は単なる賃金奴隷制であり、請求書の支払いをし、物質主義のクソのために支払い、さらに金を貯金するために賃金奴隷をする。クソなことに、人々は自らの生命のほとんどを、将来――まず第一に保証されていると考える未来――に備え、安心を得るために用いる。それでは、非常に多くの「自己」が構築され、条件付けられ、賃金奴隷の生産性から定義されるとき、どれほど個人は自己を知ることができるだろうか? 階級だろうと社会的だろうと、資本主義下での個人の地位は、物質主義へのアクセスとその関係によって決定される。しかし資本主義に縛られない、そして物質主義に屈服しない「自己」はどのようなものだろうか? または社会構成要素としてのカテゴリーの伝統的割当を拒絶し、人生をアナーキスト的な実存として大いに肯定する「自己」とは? 違法主義アナーキーの生活は、日々の自己創造の無限の可能性を許容するものである。

私の考えでは、賃金奴隷の役割とアイデンティティを拒絶することは個人レベルに対する社会的コントロールを不安定にする。資本主義(またはその維持のために大衆の服従を必要とするあらゆるシステム)の基盤を確証するために個人に叩き込まなければいけないのは堅固な労働倫理であるために、賃金奴隷制を拒絶する個人はさまざまな他者からの批判、侮辱、貧困の脅迫などを含む社会的抑圧にさらされることとなる。人々の悪評を受けることの社会的抑圧に影響を受けないような自己確信を構築すること(同時に貧困を避けるような創造的で果敢な自己に確信を抱くこと)は、個人としての権力を取り戻すことである。それは「プロレタリアート」「労働者」、または「賃金奴隷」の役割とアイデンティティから「自己」を取り戻す権力である。

すべての社会固定的アイデンティティに対するカオスな否定と同様に、社会的アイデンティティと「賃金奴隷」の期待に矛盾するところに力が存在する。この力はまた、「集団」(または公的な組織、社会、大衆など)が個人よりも強いという前提を覆す。「集団」がある個人を服従させられないとき、個人は別の個人に対し、「集団」からの解放を刺激する可能性を秘めている。集団、あるいはシステム的なエスタブリッシュメントは、それを構成する個人の従属性と同じだけ強力となる。もしも「集団」を再強化する個人の服従がなければ、そこには集団は存在しない――権力を持つ個人が存在するだけである。

大統領、政治家、警察、そして軍産複合体、すべての形態と社会構造の経済システム、それらの権力は個人の服従を要求する。個人の参加がなければ、あらゆるシステムの持続性は解体される。個人性が重要なだけでなく、強力にしているのはこの点である。資本主義下では、賃金奴隷制を拒絶するには勇気がいる。同調的従属は、飢餓と貧困の恐怖によって心理的に強制されている。服従の論理は、恐れなき自己確信と、社会的な統治されない存在になりたいとする願望によってのみ否定されるのである。

個人主義的アナーキストは世界を変えうるだろうか? それはありそうもないことだが、どうして私がノーといえるだろうか。さまざまな人がさまざまなことに影響を受ける。あるものにとっては、他者の発言との個人的関係が世界観を破壊する。個人の行動によって武装されたその同じ言葉が、社会的不服従に火をつけ、喜ばしき解放の自発的な炎へと増幅される可能性がある。それは詐欺的な、ダブル・スピーキングの学界や委員会や、政治的計画、あるいは個人的反逆を刺激する人気あるキャッチフレーズによるリーダーシップではない。私の考えと経験では、それは「自己」を強力でユニークで野生なものとして発見し再要求することである。この観点から、アナーキズムの非合法性は内部化された労働者主義の家畜化されたコンフォーミティを否定する。違法主義的アナーキーは反乱によって法と秩序に立ち向かい、野生のカオスを社会の均質化に対する個人性として保護する。あるものの人生を個人的冒険の日々の冒険として再要求し再発明することは、反逆的な若者を放棄させるための社会化された罪悪感と抑圧に反抗するアナーキーである。

賃金奴隷制は、遊び、個人性、そして自由の敵である。社会システムはその存在が維持されるために、均質的な集団や固定された集団アイデンティティへの個人性の服従を必要とする。すべての社会システムの公式は似通っている。個人性は資源へのアクセスが保証されるために集団に譲り渡される。資本主義下では、賃金奴隷――またはマルクス主義の用語では「プロレタリアート」――は資本主義社会を再生産するための役割で事前構成されたアイデンティティである。このことは、資源にアクセスする認可を得るための賃金と引き換えに、個人が精神と肉体を主人に譲り渡すことを含む。しかし、資源収容の違法性によって武装したアナーキストの個人にとって、アナーキーは認可なしに生き残ることである。

アナーキーは歴史書や職場での改革、新しい社会システムの封じ込めによっては経験されない。アナーキーは人工的な法や秩序によって統治されない、つねに流れゆく野生のリズムによって息づく。私は「プロレタリアート」というアイデンティティと役割を変革的に廃絶せしめたことで自らのアナーキーを喜ばせる。水平線に存在する、待たなければいけない、または組織しなければならない偉大な未来の革命は存在しない。それは明日には保証されておらず、ただ今日に存在する。自由への扉を開くカリスマ的指導者はいない。欲望の解放的な攻撃手段によって定義される、アナーキストの個人性の力だけが存在する。

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