2019-07-23

ソファで寝そべってるだけで見つかる幸福などない。

「賃金労働はクソだ」と主張することは、「火は熱い」というのと同じくらい退屈です。

しかし、多くの人が労働を毛嫌いするあまり、罠にはまってしまいます。働かないこと、何もしないことが幸福だ、と考える人が多いのです。

幸福とは、自分のやりたいことを精一杯やることにある――そういうことを書いた匿名さんのおもしろい記事があったので紹介します。なお超訳です。原文はCrimethInc.の記事、「How Ethical is the Work ‘Ethic’?:reconsidering work and ‘leisure time’」(1996年)

労働「倫理」はどれほど倫理的か:労働と「余暇時間」再考

「レジャー」活動となると、君の両親がなぜめちゃくちゃな行動をするのか、不思議に思わなかっただろうか? なぜ彼らはつまらない趣味をはじめて、それを続けることに失敗するか、あるいは病的にとりつかれはじめるか?……彼らの生活にはなんにも関係がないように見えるのに。たぶん、ガーデニングとかバスケ・チームの成績に、彼らは気が狂わんばかりに熱中する。君の父さんは極上の工具を買い漁るだろう(そういった工具はその年齢の人の多くが買う)、しかし数日つかったあとにはほったらかしだ――そして次の月にはスキー用具を買う。あるいは、彼らが大画面テレビを見ていない間には、そのテレビの借金をどうやって返済しようかと考えることに時間を費やす。

そして――君の両親が自分の仕事について君に正直に語ったことがあるだろうか? 彼らは楽しんでいるか? 彼らの労働は可能な限りもっとも充実したものであり、つねに自らの望む目標を達成することが可能だったろうか? 彼らは家に帰るとき、英雄的で誇らしげだろうか――あるいは疲れ切って消耗しているのか? 家に帰るなり大画面テレビの方を向くのではないか? いったい彼らに他のことをするエネルギーが残っているのか?

彼らにとって、君にとって、もっと良い方法があるんじゃないか――と君は思ったことはないか?

「労働」ってなに?

「分業」によって、今日のほとんどの仕事は多様ではない。何度も何度も、非常に限定的な仕事をすることとなっている。食器洗いが仕事なら、君は皿を洗う。だれかと話しあったり、複雑な問題を解決することはそんなにないし、洗い場をはなれて太陽の下を走り回ることはありえない。君が不動産業者であれば、君の手はなにも作ることはない。自分の時間のほとんどを、市場価値とセールス・ポイントを考えることに費やす。一定の多様性をもつ仕事でさえ、おもしろさとやる気が持続するのは限られてしまう。私たちは平均して週40時間、少なくとも7日のうち5日は働くからだ。私たちは人生の多くを労働に費やす。労働は人生のほとんどの日に行うことであり、労働をしているかなり長いあいだ、まったくほかのことをすることができない。ひとつの仕事にエネルギーと時間のほとんどを費やしているとき、あるいは10の違う仕事に費やしているときでさえ、しだいに私たちは多様性に対して退屈し、耐えられないよう感じる……そのことに気づかないよう、私たちが条件付けされているとしても。

このことにくわえて、大企業の拡大とそれに付随する自営業や小企業の減少によって、私たちのほとんどは職場での責任がどうかについて声をあげることがなくなった。自営のビジネスを見つけること、またはビジネスをしている友人や隣人を見つけることさえ難しくなってしまった。しばしば生きるために、私たちがしている仕事をまったく管理できないようなマネージャーの指示に従わなければならない。自分がしていることを自分で決めることができないために、私たちは労働からの疎外を感じるし、自分の労働のクオリティに無関心となる可能性がある。自分が取り組んでいるプロジェクトが重要ではないと感じることもあるだろう。

まさしく、今日の私たちの仕事のほとんどが取るに足らないものであると感じることは容易である――ある意味で、多くの場合そうなのだ。純粋な資本主義経済では、どの商品がもっとも需要があるかによって有効な仕事が決まる。そして需要ある商品(軍事技術、ファストフード、ペプシ、ファッショナブルな服)は、しばしば実際には人々を幸福にするものではない。君がただ生きるためだけに懸命にはたらいて売った商品が、人々になにももたらさないときに、君の労働が無駄だったと考えることは簡単である。マクドナルドの油ぎったフライドポテトでほんとうに元気づけられる人がどれだけいるだろうか? たぶん、友人とか、自分でカフェを経営しているシェフがつくった料理を食べた方が彼らは幸福ではないだろうか。

ようするに、私たちの知る「労働」は、私たちがあまりにもそれを長くつづけているために、私たちを不幸にする。なんども同じ繰り返しだから。自分がしていることを選択できないから。自分のしていることが仲間の人たちの利益とならないから。

余暇時間ってなに?

私たちは家に帰ってきた。自分で選ぶことさえできないプロジェクトに時間とエネルギーを注ぎ込み、疲れ切って帰ってきた。私たちにもっとも必要なのは回復だ。感情的にも肉体的にも疲れ切っているのだから、静かに座ってテレビを見たり新聞でも読みながら、明日の労働のための力を蓄えることほど自然なことはない。消耗と欲求不満をなにか趣味に集中することによって解消しようとすることもだろう。でも、私たちは日中職場にいるあいだ、自分で自分を指示することに慣れていない。だから、自宅で自由でいるあいだにほんとうに何をしたいのかがわからないことがしばしばある。たしかに私たちに提案してくれる企業もある。広告でそれを見たり、隣人たちを見ることでそれをしたいと思う。しかしこの企業は私たちの満足と同じくらい利益を勘定にいれている可能性があり、私たちはミニ・ゴルフが奇妙なほどつまらないことを発見するかもしれない。

同じように、私たちは自分の状況を考えたり、体力や時間が必要なやりがいのある活動を行うための十分な時間とエネルギーがない。自分の仕事を楽しんでいるか、自分の生活を楽しんでいるかについて十分に考えることを私たちは好まないのだ――さらには、憂鬱なことに、それが楽しくないとして、いったいどうするのか? ほんとうに興味をそそる芸術や音楽、書籍のためのエネルギーは残っていない。慰めの音楽と、肉薄しない芸術と、娯楽のための書籍が私たちには必要なのだ。

実のところ、私たちは労働にたいして苦労してなにかしなければいけないことと、余暇時間でリラックスして何もしないことを関連付けている。私たちの多くが仕事を好きではないから、なにかすることを不幸な状態だとし、一方で、幸福とは私たちが知るかぎり次のことを意味する……何もしないこと。私たちは自分のために行動することをしない、なぜなら私たちは一日中だれか他人のために行動しているために、行動することと一生懸命働くことはつねに不幸に導かれると考えるからである。私たちの幸福という概念は、すなわち行動をしないことであり、永遠の休暇なのである。

このことが、私たちの多くがなぜこんなにも不幸であるかの究極的な理由である。幸福はなにもしないことにあるのではなく、創造的に行動することであり、なにかすることであり、君が関心をもつことに一生懸命働くことなのだ。幸福とはすばらしい長距離ランナーになることであり、恋に落ちることであり、あなたの大事な人々のためにオリジナル・レシピで料理することであり、本棚を作ることで、作曲することなのである。ただソファに寝そべってるだけで見つかる幸福などない――幸福は私たちが追い求めなければならないものだ。なにかしなければならないから不幸なのではない、私たちが重要だと思っていないことをしているから不幸なのだ。そして労働が私たちを消耗させると、望みを歪めてしまうために、そのことが私たちの不幸の多くの根源となっている。

解決策は?

そんな仕事で働く必要はない。給料が全部、支払いに回されてしまうような、ペプシ、高価な衣類、大画面テレビや高価なインテリア装飾、それらすべてなしに生きていくことは可能である。自分の関心のあることでビジネスをはじめてもいい(これにはまだ仕事の多様性が少ないというリスクが伴うが)、今日の市場のなかで、君がほんとうに楽しめる……そして人生においてほかに楽しめることにエネルギーと時間を残せるような仕事を探してもいい(グッド・ラック!)。いちばん大事なことは、利益になるからではなく、君が求めるからそれをしている、というふうに生活を整えることだ――そうでなければ、いくらお金を稼いだところで、君は金のために幸福を売ることになる。覚えておこう、君が費やす金が少なくなるほど、稼ぐ金額を気にしなくなる……そして非人間化するような仕事で働かなければならないことも少なくなる。君の「自由な」時間を、娯楽のために無為にすごしたり金をかけるのではなく、ものごと――だれもそれにたいして金を払わないとしても、君の人生を(そしておそらく他の人々の生活を)よりよく形づくるようなものごと――を創造し達成するためにすべて使うことを学ぼう。

もし私たちがいまの仕事から離れたら、私たちが生きているところのシステムは崩壊するだろうと主張する人々もいる――それは実際、けっこうなことだが。私たちはすでに自動車を、ショッピング・モールを、テレビとゴルフクラブを、クソ核兵器を十分つくったのではないか? ファストフードが減って家庭の料理が増えたら私たちみんなの生活はよくなるのではないか? 組み立てラインではたらくより音楽を演奏する方がやりがいがあるのであれば、なぜ良い音楽バンドが少なく、トランジスター・ラジオであふれているのか? もちろん、「労働から解放」された世界はけっして実現しない夢だろう。しかし、つねにそうであるように、この夢を君の世界で実現すること、君ができるかぎりそうすること――無思考の消費主義の鎖と、脳を腐らせる雇用から自らを解放し、もっと意味のある生き方をすること――それこそが挑戦なのだ。

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