2019-03-23

普通の日記を書く宣言

最近、昔の自分のブログ記事を読んでいる。

5年ほど前、20代半ばだった頃に書いた数百の記事。

その頃にはほとんど読者はいなかった。広告収入もゼロだった。その分、自由に、かなり個人的なことを含めて好き勝手書いていた。

はてなブログに移るとともに、そのブログを非公開にした。それは私にとって「暗黒時代」。二度と読むことはないだろうと思っていた。しかし最近、あるきっかけから読むようになった。ミヒャエル・エンデの「モモ」のある部分を引用したことを思い出し、昔の自分のブログを開いたのである。

「おもしろい!」――そう驚いたのは、「モモ」の引用ではなくて自分の文章だった。

文章を書くことに真剣であり、また、よく考えられている。修辞的なのである。そういえば、私は文章家志望の青年だった。

そして、自由奔放な発想が読んでいておもしろい。いまから見るとずいぶん間違った認識が見られるが、ときに垣間見える知性の鋭さ(と、自分で言うが)にどきりとする記述もある。

当時の文章を読んでいると、書くことが楽しみだった……というか、まったくの必要から書いていたように感じられる。書くこと、それは私にとって精神の内奥が要求する行為だった。金や名誉のためではない。私はまるで、書くように生まれたかのように書いていた。一例としては、2015年に書いた「冒険家」という記事がある。

あのときから、私の文章はどうして変わったのだろうか?

いまの私の文章は当時とかなり異なる。ソリッドで簡潔である。現在のスタイルに変化していったことは、私個人の変化も当然あるが、環境の変化が大きかったように思う。

「KISSの原則」というものがある。良い文章、あるいは論文やプレゼンの基本として知られるものだ。つまり、「Keep It Simple, Stupid!(シンプルに留めよバカヤロー)」の意。

だれもが言うだろう。長い文章はだれも求めていない。文章は簡潔に書かなければならない。これは一定の事実だ。しかし、私は思う。もちろん、ダイエットは必要だ。しかし骨と皮ばかりでは……?

ウェブで検索すると、骨と皮のような文章は腐るほど見られる。それは情報としては良いだろうが、オリジナリティのかけらもない。それは万人の求める情報の共通項をエッセンス化したものとして、合理的という点では優れているが、人間味が感じられず、読んでいてつまらない。

「取扱説明書」――それがそういったウェブの文章を的確に表現したものだろう。取扱説明書は万人向けに書かれており、だれでも理解が可能で、必要な情報を与えてくれる。しかし、だれもが知っているとおり、それを読むのは死ぬほど退屈である。

私を含めて、ウェブ界の文章が取説化されていったのはここ数年のことだった。その変化の原因としては、「広告収入」の影響が大きいのだろう。

かつてウェブの目的は金銭の要素は小さかった。人々は他人に認められたかったり交流のためにといった理由でウェブで文章を書いていた。

現代では、ウェブの目的はただひとつ――金を稼ぐことにある。そして、金を稼ぐためにはアクセス数を稼ぐ。アクセス数を稼ぐためには、だれにも読まれる文章を書く。ウェブにアフィリエイトの概念が浸潤していき、つまらなくなっていった。

このブログにはアドセンスをつけていない。なのでアクセス数や広告収入を気にすることがなくなった。すると、自分はほんとうは何を書きたいのかがはっきりするようになった。

2012年、私はブログにはじめて書いた記事にこう書いている。「世界を変える必要があると思った」。これは突飛な表現だ。いまの私が同じ熱意を持ち続けているとは言いがたい。

ただ、少なくとも言えることはこうである。私はたくさんの人に読まれる文章が書きたいのではない。金になる記事を書きたいのではない。世界は変えられないかもしれないが、自分の満足のいくような、好きなことを書きたい。

そういうわけで、これからは空気のように気ままな「日記」を中心に書いていこうと思う。しばらくは、毎日。もちろんいままでのような記事もその気になれば書いてゆく。

これは一見退行のようだけど、ひとつの試みであり、冒険なのだ。

形式と型にはまった表現は、優れた人間が最も嫌い、出来の悪い人間が最も好むものである。(ロバート・パーシグ「禅とオートバイ修理技術」)

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