だれも歌わず、だれも踊らない世界

用事があったので都市部へ行った。

帰り道、路上で楽器を演奏しているのが聞こえてきた。

数人のバンドだった。楽器のそれぞれのパートがソロ回しをしているところだった。観客は2、3人しかいなかった。そのかわりに、狂ったように踊る若い女たちがいた。最初は彼女らも何かを演じているのかと思ったが、どうやら観客らしい。

楽器の演奏は良かった。well balancedだ、と思った。特別感じるものはないが、聞いていて楽しい。

「聞かせる」ための演奏は難しいものだ。私たちは聴衆は、だれもがプロの演奏を聞いて育つからだ。プロの音楽家とは、音楽だけで食っていけるような熟練者の中の熟練者。楽器演奏者が100人いれば、1人いるかどうか。そのなかでも、大衆が聞くような音楽の演奏家は数万人に1人のレベルである。素人の音楽がほとんど「聞けない」のはそのせいである。

だから、「聞いていて気持ちがいい」と思わせるだけの技量は実はすごいのである。それがよほど無個性で平凡なものでも、そこには人並以上のセンスと膨大な練習量が存在している。

いずれにせよ、この寒空の下で彼らの音楽に耳を傾ける者は、少数の狂ったように踊る女性たちを除けば数人しかいなかった。彼らの音楽は、通行人たちの「うるせえなあ」という失笑に混じって消えた。演奏が終わると、私は少し大きめに拍手をして、500円玉を投げた。

女性たちは息を切りながら、やばいね、すごいね、と言いながら同じように金を投げ込んだ。彼女たちの踊りは、激しく、めちゃくちゃで、痛ましいほどだった。彼女たちはとても楽しそうだったが、私は悲しい気持ちになった。たぶん、そうしなければならないほど彼女たちの踊りは抑圧されてきただろうから。

Exposed Cinnabar Painting by Callum Innes

私たちはだれもが、歌うよう、踊るよう、演奏するよう生まれているはずだ。

進歩主義者のよくある勘違いとして、農耕社会に移行して「暇」ができたから芸術が誕生したというものがある。実はそうではない。狩猟採集社会では音楽はつきもので、その日一日の仕事を終えた彼らは、歌い、踊り、音楽を奏でる。

原始人のもっとも基本的な小集団である「バンド」は、だいたい40人程度のものである。確認されているバンドは、私が昔読んだ本では、最大でも150人程度であり、これは個人がすべての人間を認識する――つまり「知り合い」になれる最大の人数であるとされている。

国家――つまり中央集権的なシステムが誕生すると、集団は肥大化していった。たとえば、現在では「一億数千万人」が「日本人」だとされている。しかし私たちはすべての日本人を知っているわけでもない。日本人のうちの0.01%(1万人)すら知らない。それでも私たちは「日本人はこうだ」と語ることができる。ベネディクト・アンダーソンはこのことを「想像の共同体」と呼んだ。

「想像の幻想体」は、銀行家が語ったような「社会的フィクション」であると私は考える。つまりそれは人間にとって自然なものではなく、人間のゆたかな生を疎外するものであり、唾棄すべき幻妄である。

ところで、原始時代の、40人程度のバンド私はうらやましく思う。そのような小集団では、各々が自分の才能や能力に自信を持って生きることができただろうから。彼らはそれぞれが役割をもち、有能な成員としてはたらいただろう。

現代では、私たちは、新聞に載るような人間、金メダルを取るような人間たちと戦わなければならない。かつて名演奏家になれただろう人間は「プロ」になることができずに、ルーザーとしてフリーターなどに落ち込んでいく。上位5%の人間ではだめで、上位0.05%くらいではないと認められない。

万事がこの調子だ。バンド内では絶世の美女だっただろう女性は、広告の女優と自分を比べてコンプレックスに悩む。バンド内ではアスリートだったろう人間はオリンピック選手を見て自信を失う。バンド内では画家だっただろう人間は有名画家の絵を見て筆を折る。バンド内では天才だっただろう人間はIQ180レベルのモンスター級の思想に触れ自信を失う。

自信を失うこと、これが現代社会の象徴だ。

自分は万能で十全だ、そう心から言える人間がどれほどいるだろうか。だれもが自信を失い、不安であり、insecureである。なぜならテレビをつければ自分よりも有能な人間が称賛を浴びており、そのことは自分が無能であることを意味するからである。

現代人のもつ不安は、津波や地震のような自然現象のように扱われている。しかし、そうではない。私たちは不安でなければならないのである。

神の発明とはそのようなものだった。神の権威のもつ役割は、下々の被支配者に「自分は不完全で劣っている」と認識させることにある。なぜそう思わせなければならなかったか。彼らの管理を容易にし、導くことが可能になるからである。

だから、あらゆる国家で宗教が採用された。むろん、私たちには孔子や仏陀やキリストがどのような人物だったかを知ることはできない。聖書も仏典も何度も編集されたものだからだ。おそらく、当初は正しい思想家だったのだろう。しかし、それが広められたのは、「正しいから」ではない。どう見ても単なるフィクションだ。民衆の好む思想だったわけではない。実現困難な教条の集まりを好む人はいない(だれが「禁欲」に成功しただろうか?)。

宗教が民衆に広められたのは、階級秩序のシステムの利益に合致するからである。そうでなければ戦争や伝道師は必要ない。宗教は民衆にとって真実であり、賢人にとって虚偽であり、支配者にとって便利な道具である――そうセネカは言った。

国家という想像の共同体では、被支配者を管理・操作するために工夫が必要である。つまり、「自分は無能であり、私よりも優れているだれかに依存しなければならない」というドグマを徹底的に叩き込まなければならない。そうでなければ、どうして人間は支配関係に耐えられるだろうか? どうして会ったこともなければ自分に何かしてくれたわけでもない人間に搾取されることに甘んじることが可能だろうか?

現代では、「神」は死んだ。そのかわり、「芸能人」や「音楽家」「政治家」「学者」「官僚」「宗教者」といった権威が生まれた。彼らはさまざまな活動を行うが、人々に「お前は無能だ」と叩き込む装置として機能していることで共通している。

このような考え方は突飛に思われるだろう。だれもが「彼らは私たちに知識を与えてくれる」「楽しみを与えてくれる」「私たちの生活のために良いことをしてくれる」と考えている。それは一面では正しい。しかし、彼らがシステムのなかで成功を収めるのは、システムの安定化に寄与する側面を持つからである。

私たちは、彼らの権威に触れると、自分で物事を考えたり、自分で行動を決定する能力がないと感じるようになる。何をするにも不十分な人間だと思い込む。そのことが、自己嫌悪、自己不全感を引きおこす。そして鬱病、生の価値の喪失へ至る。

自信を取り戻すにはどうすれば良いのか? 自分が完全な人間であることを思いだす、これである。

ノイズを除去すること。会ったこともない人に影響を受けないこと。そして、自分で行動すること。自分で歌う。自分で演奏する。自分で身体を動かす。文章を書く。鏡を見る。そして自分の音を聞き、自分の力を認識し、自分の文章を読み返し、自分を見てみること。

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