静かにゆくものは健やかにゆく。健やかにゆくものは遠くまでゆく。

Chi va piano, va sano e va lontano.

これはイタリアの諺で、私の好きな言葉である。

はじめて知ったのは城山三郎が訳した本だった。

あれこれ声をあげる人間に、優れた人間はいない。

最近そのことをつとに感じる。

ほんとうに優れた人間に雄弁家はいない。

Eaton’s Neck, Long Island by John Frederick Kensett

私は国家が嫌いだが、その理由のひとつに国家は騒々しくがなりたてる存在だということがある。国家は、静かに生きる人間をつねに邪魔する。彼らはひっそりと暮らす人々の住処を「開拓」し、彼らを追い出し、殺し、奴隷化し、生活をかき乱す。軍隊、教師、マスコミの号令のもとに人々を統制し、自分の支配下に置く。そして「我こそが王なり」「我こそが最高の支配者なり」と喚き立てる。……バカである。そう、私たちが学ぶ歴史とは声のでかいバカの系譜図に過ぎない。

パスカルは「パンセ」において、プラトンやアリストテレスが「政治について書いたのは、いわば気違い病院に規律を設けるためであった」と書いている。これに私は爆笑してしまった。まったくそのとおりだ。

James C. Scottの「ゾミア」が有名だが、文明から「逃げて」生活してきた人々はたくさんいる。私たちは文明社会というと、未開の部族からすれば魔法のように驚異的で、魅力的なものだと考える。だが、実はそうではない。文明社会は基本的には定住社会であり、人々は自由を失う。そこには煩わしい人間関係の衝突があり、階級秩序が生まれる。文明社会に魅力を感じてそこに移り住む人もいただろうが、実際はそこまで多くはなく、初期国家は自由を奪われた人々――戦争捕虜や奴隷によって成り立っていたのである。

低地の文明社会から逃避して高山に移り住んだ人々は、基本的にアナーキストだった。そこには階級秩序はほとんどなく、平等で互酬社会が実現していた。私は高山での彼らの生活を想像する。その空気の清涼さ、そして静けさ。

赤ん坊はガラガラの音を聞いて喜ぶ

一方で、低地の文明社会では、騒音に鈍感な人というのが多数存在する。病的なまでに「静けさ」を嫌い、つねにしゃべらないと気がすなかったり、テレビや音楽をつけていないと落ち着かない、という人もいる。

私の考えでは、ある人間のもつ幼児性と、騒音への受忍性は相関性がある。あらゆる動物は、その幼児期においては、群れの他の動物、あるいは別の動物と密集して生活することが可能である。しかし、動物は成長とともに独立してゆく。よく、小熊と仲良くなった人が、成長して大人の熊になったときに襲われた、というような話があるが、それはそういう理由なのである。

さて、文明社会の特徴は極めて高い人口密度にある。文明社会、つまり過密生活は、ある程度幼児性の賜物と言えそうである。これは推測に過ぎないが、過密生活を可能にしている要素のひとつに騒音耐性があるだろう。

大人になっても幼児的な人々のことを「ネオテニー」と呼ぶ。これはイヌやイエネコのように、家畜化された動物にみられる傾向だ。彼らは幼児的な顔つきを持ち、目は大きく、四肢が短い。鼻が低く、あごや頬骨が小さい。この違いは、イヌやイエネコと、狼や虎を比べてみればわかる。

おそらく人間はかなり家畜化された、したがって「ネオテニーの猿」なのだろう。アジア人は平均的な顔貌を見ればわかるが、特にネオテニー化が進んでいる。これは中国や日本の都市が極めて過密なことと無関係ではあるまい。都市景観はごちゃごちゃしており、目に痛い。

前に述べたことだが、私がアナーキズムの大きな問題だと考えているのは、人間の多くが家畜化されている場合、彼らを奴隷的状態から解放するのが良いのか悪いのか、ということである。彼らは管理された生活の方が幸福なのかもしれない。実際、彼らは静かな田舎よりも、騒々しい都市を好むのだし。

いずれにせよ、私は「アナーキストの銀行家」に近い立場を取っている。その立場とは、私個人が世界中の人々を救うことは困難であること。私に解放できるのは、せいぜい自分自身とわずかな人々であること。

だから、静謐を愛する私は、静かに暮らしていくよう努力しよう。

テッド・カジンスキーは、大学生活を離れ、山の中で暮らした。ロバート・パーシグは、大学生活を離れ、山の中で暮らした。コリン・ウィルソンは自動車生活をしながら、ひたすら図書館に篭った。ニーチェやルソーは、放浪しながら暮らした。私はそういった生活に憧れる。

静けさと自由、そのふたつを求めている。

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