2019-03-27

いじめの原理は簡単だ。

ある高等動物を二匹用意して檻に入れる。互いに離れることのできない狭い檻だ。そこで共同生活をさせる。その二匹はどうなるか。互いに攻撃しあい、ついには殺し合うかもしれない。いじめとはそれだけの話だ。

「教育学者」たちはこの二匹の動物について論じる。ある者は、その二匹のうち強い方を処罰することが必要だと考える。ある者は、檻のなかにその二匹を圧倒する強力な第三者を追加し、強者から弱者を守ることが重要だと主張する。ある者は報酬と処罰の学習により攻撃が止むと思案する。

「教育学者」は一般に「部屋の中の象」を無視することに長けている。つまり、彼らはいじめの根本原因である「檻」を無視してしまう。彼らが誤謬に陥る理由は簡単だ――檻がなければ失業する。

檻から解放されたとき、動物はどうなるだろうか。その二匹は完全に離れ離れになるか、適切な距離関係を保った協力関係を維持するだろう。少なくとも、攻撃など必要ない。その方が両者にとって得だからである。

Hexagon by Florin Maxa

人間らしさとは、距離を保つことができるということなのだ。ぼくから距離をとってくれ、そうでなければぼくは死ぬ、それとも殺す、それとも自分を殺す。距離なんだ、頼むよ!(「三十歳」インゲボルク・バッハマン

距離――すべての高等動物は、攻撃か逃避かfight or flight反応を持つが、この反応が攻撃と逃避のどちらになるかは、距離が重要となる。もし脅威となる対象が遠方に存在すれば、そこから逃げる。もし逃げられないほど近くにいる場合は攻撃反応をとる。ハイカーなら藪の中で熊に出くわすと危険だとだれもが知っているが、これはそういう理由による。

いじめはどこにでも存在し、「檻」も至るところにある。家庭や職場は牢獄である。私たちは、他者と密接に暮らすことを強いられている。文明の最大の特徴は高度の人口密度であり、文明社会はそれ自体ひとつの檻のようなものだ。

自らが檻のなかにいることを、ほとんどの人は認識していない。私たちはそれに慣らされているという、ただそれだけの理由によって。裁判所は犯罪者に罰をくだすが、犯罪の原因を考えない。幼児虐待の親を罰するとき、その親の置かれている抑圧的な状況は鑑みられない。私たちは檻の中の生活を自然と考え、檻の中の動物のふるまいを「自然の本能」だと考える。

私たち文明人は、自由な動物――つまり、野生の自然動物であるというよりは、檻の中の動物――言ってしまえば、動物園の動物に近くなっている。

動物学者のDesmond Morrisは、半世紀くらい前に流行した名著「The Human Zoo」で、人間は動物園の動物に近い存在だと指摘する。

通常の条件下では、その自然条件において、野生動物は自傷行為、自慰をせず、子どもを攻撃せず、胃潰瘍にならず、フェティシズムにならず、肥満にならず、同性愛のつがいにならず、殺人を犯すこともない。
Under normal conditions, in their natural habitants, wild animals do not mutilate themselves, masturbate, attack their offspring, develop stomach ulcers, become fetishists, suffer from obesity, form homosexual pair-bonds, or commit murder.

明らかに、都市はコンクリート・ジャングルではなく、人間動物園なのである。
Clearly, then, the city is not a concrete jungle, it is a human zoo.

文明社会の特徴と動物園の特徴はよく似ている。第一に、その檻のなかにいれば、安全で快適な衣食住には事欠かないということである――よく言いつけを守り、反逆しない限りは。

そして、その存在の目的が自己ではなく他者のためにあるところも、動物園とよく似ている。つまり、文明社会では支配層のために私たちは生活し、動物園では運営者や管理者のために動物は生活する。

さて、アナーキストはここで問題に直面する。動物園を破壊し、人間たちを檻から解放すべきだろうか? それは人類にとって幸福なのだろうか? 少なくとも、私は檻から出たいのだが……。

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