力が欲しい。

「マイト・イズ・ライト」という1890年に書かれた本がある。

この本は、私がなんどか訳した個人主義アナーキストのシドニー・E・パーカーが序文を書いている。著者は、Ragnar Redbeardという偽名だが、この「赤髭さん」は、Arthur Desmondという政治家、ジャーナリストということでほぼ間違いないらしい。

愛と女性と戦争――メスの動物はもっとも戦闘的なオスを好む。性的選択と呵責なき衝突の必要。勝者は常に金と土地を得る。彼はまたもっとも美しい処女と、栄ある貢物を得る。

そして――どうしてそうではないだろうか? なぜ人生の喜びが臆病者と失敗者の元へ向かうだろうか? なぜ戦利品が戦争嫌いの持ち物になるだろうか? それはおそらく狂気であり、完全に不自然で不道徳的だ。(The Victor Gets the Gold)

終始このような調子で進む。

自然界は戦争の世界である。自然な男は戦士である。自然法は歯と爪だ。爾余のすべては誤りである。戦闘状態はいたるところに存在する。私たちは永遠の衝突のなかに生まれている。それが私たちの受け継いたものであり、前世代の遺産なのだ。この「戦闘状態」は聖フランチェスコの聖句や、クロポトキンやトルストイの柔らかく欺瞞的な教義によって偽装されることがあるだろう。しかし、人類のどの部族のどの人間も、最終的にはそれを回避することはできない。それは存在し、そこにありつづけ、それぞれの人間が(どうするかはともかく)それに意見を持たねばならない。(All Else is Error)

どうだろうか。鼻をつまみたくなるような悪文と感じるかもしれない。実際、「サタニック・バイブル(サタンの聖書)」に収録されたりした。ちなみに、全文はここで読める。

私はこの本に避けがたい魅力を感じた。実家からマンションに戻るとき、5時間の運転中、ずっとこの本のオーディオ・ブックを流していた。あまりに気に入りすぎて「私はダークサイドに落ちてしまったのではないか?」と恐ろしくなった。

Wolf Dog 1976 Jamie Wyeth

しかし、人間は力を求めるものではないか?

私たちは虫けらよりも恐竜が好きではないか? 豚よりも獅子が好きではないか?

少年マンガ誌を開いてみよう。そこには、少年が力を身につけて、生き残り、勝ち残る話が何万回も繰り返されている。少女マンガ誌を開いてみよう。そこには、少女が「素敵な男性」と恋愛する話が描かれる。それはようするに、才能と美貌をもち、聡明で、たいていケンカが強いか、少なくとも勇敢な男性のことだ。

私たちは虚弱で臆病な人間であるよりは、力強く、勇敢な人間で「ありたい」と思う。また、力強く勇敢な人間を「求める」。どうしてこのことが間違いだろうか?

「犬が犬を食う」世界は正しいか

私はアナーキストとして人間の本質を肯定的にとらえてきた。

ホッブズの考える自然状態は間違っている。そして「マイト・イズ・ライト」で表現されている社会ダーウィニズムは、あまりに人間を一面的に捉えている。

人間は生まれつき、善性を持っている。助け合う本能を持っている。たとえば、見知らぬ人が倒れていれば、赤ん坊が車に轢かれそうになったら、駆け寄ってそれを助ける。もし、社会ダーウィニズムが正しいのであれば、人間は自分以外の「遺伝子」をなぜ救おうとするのか?――チンパンジーなどは他所の子どもは死ぬまで放っておくようだが。

人間の世界は、助け合いの世界だ。それは事実だろう。

しかし、人間の世界が、奪い合い、戦いの世界だったこと、それもまた事実のようである。

文明が生まれ国家が誕生してから、戦いはたしかに増えた。文明(農耕)は富の蓄積を可能とし、人的資源、土地への依存を強めた。より多くの富、土地、奴隷を求めて国家は戦争を繰り返した。だから、文明によって戦争が激増した、これは事実だろう。

しかし、戦争や暴力行為、それ自体は国家が誕生する以前から存在した。原始社会には戦争がない、男女平等だった、老人や障害者を手厚く保護した、暴力がない、という誤解はしばしば見受けられる。テッド・カジンスキーは、それは左翼主義の投影に過ぎない、と数多くの資料をあげて批判している。私はテッドの主張が正しいと思う。

つまり、人間はその「自然状態」において、必ずしも左翼が思いたいほど「調和的」「非暴力的」「非戦闘的」に生きてきたのではない。

ひとつの例として、私たちが「拳」を握ることができるのは、他者を攻撃するためだ、という仮説がある。これが事実なのかはわからないが、私たちの手が、互いに握り合うためにも、互いに攻撃しあうためにも進化したことは、説得的事実に思える。

憎悪には憎悪を――哀れみには哀れみを
目には目を――歯には歯を
軽蔑には軽蔑を――笑顔には笑顔を
愛には愛を――悪知恵には悪知恵を
戦争には戦争を――悲嘆には悲嘆を
血には血を――打撃には打撃を
(「マイト・イズ・ライト」)

――「殴られたら別の頬をさしだせ」とどちらが正しいか?

力を求めよ

それでは、私たちは戦わなければいけないのだろうか。

互いに奪い合い、殺し合えと私はいうつもりか。

そうではない。ニーチェの「主人道徳」では、弱者を救うことを否定しない。ただしそれは「同情」によって行うのではない。

主人が弱者を救うとき、それは自分の「力の横溢」として、自分の有能さを確認するために救う――私は自分を救うだけでなく、他者を救うほどに力強いのだ、と。強者がそのような心理的動機で人助けをするのを、私は経験的によく知っている。力の支配する社会が、必ずしも「犬が犬を食う」社会ではない。

しかし、だれもが知るとおり、権力によって弱者を濫用する者は絶対に存在する。力がなければ、不当な命令や強奪に対してどうすればよいのか。なるほど、君は倫理的に正しい。道徳的に正しい。それがなんだというのか? もし相手が倫理も道徳も通用しない悪人としたら。君は国家に助けを求めるのか? では国家とはなんであるか? それは極めて集中した権力である。それもひとつの力なのだ。

弱者は、徹底して、奪われる

これは私が30年生きてきた中で例外がない。むろん、このことはわかりにくい。弱者に見える強者がいるからだ。一見愚かに、柔弱なようだが、狡猾に立ち回ったり、権力におもねったり、他者の同情心や友好をうまく引きだせる者がいる。そういう人は案外多いものだ。

ほんとうの弱者は、自分が弱い存在であることを否定することなく、「いつか報われるだろう」「いつか救われるだろう」と考えている、知的・技術的・肉体的に貧弱な人物だ。

実際、こういう人間がもっとも多い。(たぶん、日本には特に多い!) 多いからこそ、システムは安定した支配秩序を維持拡大できるのだ。

「私は弱く無力だ、だから正しいのだ」。これがニーチェのいう奴隷道徳だが、同じような価値観はどこにでも見受けられる。しかし、弱者であることは正しくない。魅力的でもない。「良き生」、充実した人生を生きるためには、人間は強くなければならない。

シュティルナーが次のようなことを言うとき、まったく正当だと私は感じる。

君は自由を望むというのか? 愚か者め! 君が力を得たのであれば、自由は向こうからやってくる。(「唯一者とその所有」)

私は、自分が自由になれるよう、力強く勇敢な人間になろうと思う。

もしも人間界が、狼と、犬と、新鮮なお肉で構成されているなら、それもよい! 私はすすんで狼になろう。

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