2019-05-09

金を持つ者は、持たない者より強い。

どうして違うだろうか?

人は言うだろう。

「金や権力では幸福を得ることはできない」――もちろんそうだ。金で得られるものは経済的自由であって幸福ではない。多くの人々にとって、自由と幸福は対立する。幸福を求める者は、自由などない方がよいかもしれない。

「金や権力よりも必要なものがある」――もちろんそうだ。金しか考えられない者は貧しい。金や権力よりも自由のために必要なものがある。例えば知性がそうだ。いくら金があっても、知性がなければ自由ではない。他にも、健康は重要だ。余命いくばくの金持ち老人になりたいと願う人はいない。

ところで、自明な事実がある。知性と金と健康を有する人間に、知性と健康しかない人間は敗北する。彼は力で劣る。力で劣れば、それは自由を失うことを意味する。

映画”Anarchist Banker”より

どうすれば金を、つまり金の権力と専制を支配することができるだろうか。その影響と権力から自分を解放し、私にふりかかる影響と弱体化を超越することによってだ。理解できるかね? 私は金と戦う者だった。(「アナーキストの銀行家」)

自由とは力である。

力のない者は「権利」を要求する。しかし、前に見たように、権利は個人に属さない。政府や道徳など、本質的に「強力な他者」に属する。個人はそれに服従することによってしか権利の恩恵を得ることはできない。そこで個人性は破壊される。

まさに力によって、諸個人は自己を所有することができる。

物事を取り、守ることを知る者に所有はある。……私が力によって持つものは、私のものである。私が自己を所有者として主張する限り、私は物事の所有者でありうる。
“Whoever knows how to take, to defend, the thing, to him belongs property. […] What I have in my power, that is my own. So long as I assert myself as holder, I am the proprietor of the thing”(「唯一者とその所有」)

隠遁か戦闘か?

だれが「強者」なのか? 占領する者、戦場において戦利品と野営地を得る者である。すべて人生は戦場である。
Who are the ‘Strong?’
They who conquer, they who take the spoil and camp on the
battlefield. All life is a battlefield.(「Might is Right」)

資本主義を嫌う多くの人は、隠遁生活を目指す。私もそのうちのひとりなのだけど! 「銀行家」は、そのような生き方を批難する。「単なる逃亡」であり、「非道徳的」だと。

どうすれば金を超越することができるだろうか? 最も簡単な方法は、その影響の範囲、つまり文明から身を遠ざけることだ。つまり、田舎に行き、根を食べ、湧き水を飲み、裸で歩き、動物のように生きることだ。しかし、これには明らかに困難である点を除けば、社会的フィクションとの戦いではない。何も戦っていない。逃げているだけだ。戦いに参加しない者は、敗北を避けられることは確かである。しかし道徳的には敗北している。単に戦わないという理由によって。逃げるのではなく、戦いに参加する別の方法があるはずである。

晴耕雨読の自給自足ライフ……そういった生活に憧れるが、「銀行家」はそれは敗北だとする。厳しい。

戦いによってどうやって金を服従させるのか? 金に触れずして、どうやって私にふりかかる影響と専制を排除できるだろうか。そこには一方通行の道しかなかった。私は金を稼がなければならなかった。その影響をもはや感じないほど十分に。金を稼げば稼ぐほど、私は金の影響から離れることができる。私がこのことをはっきりと知ったとき、私のアナーキズムの確信のすべての力と、明晰な男のすべての論理をもって、私は自分のアナーキズムの現段階に入った――商業と銀行の段階。

私がこの文章を読んだとき、疑問に思った。「銀行家」がどうして金の影響から逃れることができるのか?

金のない者の方が金に執着するのか、ある者の方が金に執着するのか……。金持ちであったことのない私にこのことはよくわからない。

しかし、少なくとも言えることは、私は今の段階で、金に支配されている。賃金のために一日何時間も労働をしているということは、まさに金によって支配されており、自由を奪われていることを意味する。私に経済的自由はない。

金がなければ、否応なく金がないことに苦しまされる。金があれば、少なくともその苦しみからは解放される。

金と力

金は力によって得ることができる。

資本主義社会は戦場だ。より強力な個人がより多くの戦利品を獲得する。

もちろん、その勝負は公平ではない。資本主義社会は階級社会だ。金持ちの家に生まれた者は、必然的に金持ちになるだろう。

しかし、「公正な戦い」はどこにあるのか? スポーツのようなフィクションを除けば。もちろん、公正な戦いを目指すことができる。アナーキストの革命はそのようなものだ。アナーキストが憎むのは、生まれつきの不平等だ。

しかし、アナーキスト社会はいつやってくるのか? 革命はいつ起きるのか? それらが不確定である以上、不当な社会に生まれついた私たちは、各々の能力によって戦う方が個人として有益である。

事実上、各々個人が能力を身につけ、力を得て、自由を勝ちとること――それこそがシステムに対する脅威だ。だれもが力を持ち、隷属を嫌い、自由を望めば、自由社会は実現可能である。

アナーキズムと共産主義の違いはそこにある。共産主義は万人のプロレタリアート化(「持たざる者」化)を目指すが、アナーキズムは万人が主体的な強者となることを目指す。

システムを維持しているのは、冷酷な支配者だけではない。システムから奪われ続ける人間も一つの車輪を担っている。進んで服従し、自由を捧げ、安寧と「幸福」を得る者である。

考えてみよう。10年働いて、資産形成し、リタイアする人間。40年間働いて、家や車や外食に散財する人間。どちらがシステムの安定と強化に貢献するだろうか?

一方で、システムに利用されるのではなく、システムを巧みに利用し、そこから利益を得ようとする「力ある個人」はシステムの脅威となる。

逃げも戦いもしない人間は、ひたすら奪われ続ける。もちろん、彼にとって人生は悪いものではない――幸福でさえある――主人はそういう奴隷こそ愛してやまないのだから!

強い者、富める者

アナーキストとして、私は人々が強力な個人となることを望む。力によって自由を獲得することを望む。

世の中には「便利で快適な嘘」で溢れている。弱いことが正しいのだ……我慢して待つこと、それによって報われる……勤勉に働いて貯蓄すれば良い暮らしができる……謙虚さ、用心深さ、それはつねに良いことだ……。

結局、それは人間をシステムに都合の良い行動をさせるための虚偽だ。弱い自分を肯定し、弱いままで良いのだ、とする便利な嘘だ。

不便な真実は? 個人が強力にならない限り、自由はない。

自由となる者は、自らを自由にしなければならない。自由は人間の膝下にやってくる妖精の贈り物ではない。自由とは何か? 自己に対して責任を持とうという意志である。
Whoever will be free must make himself free. Freedom is no fairy gift to fall into a man’s lap. What is freedom? To have the will to be responsible for one’s self.(シュティルナー、Forbes Vol. 78 (1956))

責任。ところで、分別ある大人は知っている……子どもに責任は取れない! 弱者と病人も同じである。自立した強者だけが責任を取りうる。

周囲を見渡してみよう。みんな「子ども」でありたがっている。つまり、自らを命令するのではなく、だれかに命令されたがっている。彼らは本心からそれを「幸福」だと感じているのだ。

しかし、成熟した、力ある者は、幸福よりも自由を求めるものである。

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