私の兄は失敗した人間である。

私の職場の同僚は失敗した人間である。

失敗した人間はいたるところに存在する。特にネット上には、たくさん。

このような人間は悲惨である。

さっさと死ねばいいのに。本人のためであり、周囲のためだ。もし永遠に目をさまさないなら。

究極的な心の平安を願うなら、音楽家は音楽を、画家は絵を、詩人は詩を書いていなければならない。人は自分のなり得るものになる必要がある。(「マズローの人間論」エドワード・ホフマン)

抑圧された人間は、「箱の中の植物」のようだ。

栄養と日光が足りない。枝葉を広げる空間が足りない。だから、無様で醜く、あちこちが腐ってしまう。本来あるべき姿から遠くかけ離れる。

人間は動的だ。生まれ、育ち、老い、死ぬ。その間、つねに衝動に突き動かされる。ひとつのことを成し遂げたら、またつぎのことを成し遂げたいと思う。ひとつのことが容易にできるようになったら、つぎにはもっと難しいことに挑戦する。これは理想論ではなく、人間の自然だ。

もしも微温的な空間のなかで、刺激も痛みもない、毒にも薬にもならない生活が理想だと考えるなら、間違っている。それは奴隷の理想生活だ。今日と同じ明日がやってくることを彼らは望む。濁った目、青白い腕、ぶよぶよの腹、萎えた足を持ち、だれかにもたれかかって彼らは生きる。十字架に杭打たれた痩せっぽちの負け犬が、しばしば彼らのアイドルであり、「いつか救われる」と妄想する。

人間は各々が能力と可能性を持って生まれる。奴隷は可能性を殺す。そして彼らは生そのものを台無しにして死んでいく。

「箱の中の植物」は、かつての私でもある。私も腐りかけていた。

神経症的と呼ばれる個人は、罪の可能性を強く刻印された人と言ってよい。つまり、彼は、他者の敵意を恐れるあまり、事実上自己の最高の能力も、最大限にまで成長をとげる権利も放棄しているのである。罪を避けようとして、彼は卑屈になり、迎合的になり、宥和的になり、自虐的にさえなる。結局、優れているがゆえの罪のおそれで、彼は劣位に立ち、自己の才能を捨ててしまう。つまり、彼はすすんで人間の可能性を落とし、安全や安定のため、自らを傷つけ、迫害するのである。(同)

あるとき、私を救うのは私だけだと気づいた。私は壁を壊した。それは私にとって、世界を壊すのと同じだった。痛みを伴うことだった。

Blossoming Chestnut Tree by Vincent Van Gogh

孤独: lika barn leka bäst――子どもは自分と似たような子どもと遊ぶ。

生まれつき少数者として生まれる者がいる。才能を持つものは常に少数者だ。彼らは社会の異物である。その人生の前半は必ず悲惨である。高みに登る前だから。山頂から見れば、大多数の人間は虫けらに見える。また、違う山の頂きに、自分と同じような個人が存在するのを見て楽しむことができる。

賃金労働の生活は、私にとって箱の中の生活である。職場にいるのは病んだ人間ばかりであり(世間では彼らは「常識人」とか「健常者」と呼ばれる)、悪い空気で満ちている。賃金労働はおそろしく退屈だ。私を成長させないから。そこで必要なのは、自分をだれかの道具に変えてしまうことだけだ。

私は楽器が好きだし、こうやって書くことも好きだ。学ぶことも好きだ。それは私を成長させる。書くこと、演奏することにおいて、私にはできないこと、やるべきことが無限にある。そして私の肉体と精神が挑戦することを望む。力を発揮したいと願っている。「行為」のさなかで私は充実を感じる。

他人の顔色を伺うこと、だれかの言いなりになること、秩序を維持すること、分子となること、微温的な生活を送ること、昨日と同じ明日を送ること――「これこそが肝要だ」としたり顔で奴隷たちから耳を守らなくてはならない。

力と勇気を持つ人間にはすべてが許される。そして、そういった人間にやるべき仕事は無限に存在する。

私たちは力と勇気に準備されている。

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