2019-05-03

シュティルナーとニーチェの思想はよく似ていると言われます。

ニーチェもシュティルナーも「神」や「国家」を破壊しました。両者とも、「理想ではなく現実に生きよ」と説きました。

しかし、両者にかなりの面で違いがあることも事実。シドニー・パーカー氏が、シュティルナーとニーチェの相違点について語っていたので訳します。「Notes on Stirner and Nietzsche」より。

シュティルナーとニーチェについての覚書

19世紀の最後の10年と最初の10年、フリードリヒ・ニーチェの思想に大きな関心が呼び起こされた。同時に彼の先駆者に対する徹底した捜索が始まった。エゴイズムの哲学者、マックス・シュティルナーは、その中で示唆されたひとりであり、なかにはニーチェは彼の弟子だとまでする批評家もいる。他の者は情熱的にこの主張を否定し、ニーチェはシュティルナーのことを何も知らなかった、あるいは知っていたとしても、何ら影響を受けなかったと主張する。シュティルナーとニーチェの間に、ある点で合致する部分があるのは確かだが、しかしそれぞれを同一物と認識してよいだろうか? 私はそうは思わない。

シュティルナーとニーチェはあけすけな偶像破壊者である。いずれもユダヤ―キリスト教―ヒューマニズムの道徳規範を強く拒絶する。いずれも民主主義的平等主義を獰猛に攻撃する。いずれも反国家感情を表現し、いずれもアナーキストを侮辱する。シュティルナーはプルードン――アナーキズムの最初の理論家――の象徴に対して、ニーチェはアナーキスト全般に対して。たしかに、ニーチェはシュティルナーの弟子だという主張が一見もっともらしく感じるほど、両者の主張は一致している。彼らの類似点をいくつかあげよう。

シュティルナーにとって、ニーチェと同じく、「真理」は道具であり、神聖な「物自体」ではない。シュティルナーは、「私の前に真実は物事と同じくありふれていて関心のないものだ…… そこには……私の前に確実に存在し、私が従うような……ただひとつの真実さえ存在しない……」(「唯一者とその所有」から――すべてのシュティルナーの引用はこの彼の主著からの引用である)と述べている。これは「物事の本質」という意味で真実が存在しないことを意味するのではない。「食べるために食べ物が必要なように、思考するため話すために私には真実と言葉が必要」だからである。しかし「私の下にあるすべての真実は私が好むものである。私の上にある真実、私が自分に命令するところの真実は、私が認知しないものである」。ニーチェもまた、真実は「私の神話」(善悪の彼岸)であると主張している。

シュティルナーは固定概念fixed ideasに所有されることを拒絶する。概念が人間の「公理」となったとき、「彼は彼自身、それの囚人となる。したがって彼は公理を持つのではなく、公理が彼を持つのである…… カテキズムの教義は、私たちがそれに気づく前に私たちの原則となり、もはや拒絶を許さなくなる……」。ニーチェにとっても、確信は監獄である。「信仰ある人間、あらゆる種類の「信者」は、必然的に彼のそとにある何かに服従することとなる。彼は自己を目的として所有することはできない…… あらゆる種類の信仰は自己否定の表出であり、自己からの疎遠である」(「アンチクリスト」)

シュティルナーとニーチェのいずれもが「力の倫理」を主張する。シュティルナーは言う。「力は良いものだ、それは多くの目的において有用である。カゴいっぱいの権利によってではなく、一握りの力によって進む者にとっては。君は自由を望むというのか? 愚か者め! 君が力を得たのであれば、自由は向こうからやってくる」。ニーチェによれば、人生は「弱く奇妙な者たちへの没収、傷害、征服であり、抑圧、峻酷さ、妨害であり、少なくとも、もっとも穏やかな形で搾取である。」(「善悪の彼岸」)シュティルナーが「力で得ることのできるものは力で得る。そして力で得られないものに対しては、私はそうする権利はないし、自分を否定したり意味不明の権利で自分を慰めることもない」と言うとき、そのことをニーチェが否定するとは想像できない。

しかし、ある程度の事柄については明白な合致が存在するとしても、シュティルナーとニーチェは一者ではなく二者であり、彼らの目的地は違った方向にある。両者は、例えば「神が死んだ」ことに同意するが、その理解に対する反応は同じではない。シュティルナーにとっては、「神が死んだ」ことは十分ではない――自らの、唯一者として生きるために、「人間」もまた滅びなければならない。「近代の入り口には神人が立っている。その出口では、ただ神人のうちの神だけが蒸発するのだろうか? 彼らはこの問を考えることはせず、神が消えたときに、幻想の働きに勝利の集結をもたらしたと今日考えている。彼らは「いと高き唯一神」となるために人間が神を殺したことに気づいていなかったのである」

一方ニーチェにとって「神の死」は、「人類」の新しい理想、すなわち超人の創造で満たされなければならない苦悩の道徳的空白を生む。「およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り越えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き潮になろうとするのか。 聞け、私はあなたがたに超人を教える」(「ツァラトゥストラはこう言った」) まさに彼が理想的存在の降臨を表現するときに用いる言葉は、宗教的預言者のそれである。「目を覚まして聞くがよい、孤独な者よ! 未来から風が穏やかな羽ばたきとともにやってきて、よき耳によき知らせを伝える/今日の孤独なものたち、ひとりぽっち立ち、いつか人間となる人々よ。あなたがたの中から、自らを選ぶものが立ち上がり、そこから超人が生まれる」(「ツァラトゥストラはこう言った」)。「この種の人間へと高みに登る」(「善悪の彼岸」)ために、ニーチェは自己への犠牲を要求する。対照的に、シュティルナーは未来の将来の目標設定を拒絶し、「人間」に関して悩むことをしない。彼にとって問題はこうである。「なぜあなたは勇気を出して今自分自身を中心に置き、完全に主要なものとしないのか?」。シュティルナー主義者のエゴイストのニーチェの理想に対する返答は、J. L. Walkerによって簡潔になされている。「私たちは超人のために世界が待つことを許さない。私たちが超人なのだ」(「エゴイズムの哲学」)

繰り返すと、ニーチェは、彼のユダヤ―キリスト道徳に対する凄まじい攻撃のすべてからして、道徳主義者である。説教壇と政治的な形によって素因深部書く説教された水平化された教義の代わりに、ニーチェは2つの道徳:主人道徳と奴隷道徳を創造しようとする。既存の道徳を否定することにおいて彼が関心を持つことは新しい道徳に置き換えることである。ツァラストラは「破壊者」であり「価値観を粉々に」したが、それは彼が「善悪の創造者」となるためである。シュティルナーもまた、既存の道徳を否定するが、しかし彼は、彼が感染していると信じる毒から浄化することを目的としているのではなく、彼は自己自らの満足をその場にもたらすことを目的としている。彼は神、人間、超人だろうと、どのような固着観念が想起されようと、あらゆる道徳規範に従うことを望まない。しかし、どれほどシュティルナーがニーチェの激しい現代道徳批判を読んで愉しんだとしても、彼はニーチェが自らから道徳の支配それ自体を除去することはできず、したがって彼が所有された人間であると結論しただろう。自覚あるエゴイストは文字通り「善悪の彼岸」にあり、彼の力の及ぶ範囲のすべての事柄は、それらのすべてが功利的なものではないとしても、「許容される」ということをまったく平然と受け入れることができる。

ジョージ・チャタートン・ヒルの「ニーチェの哲学」において、彼はニーチェはシュティルナーを「depasses(仏:超越)」したとしている。なぜなら、「シュティルナーは個人それ自体に究極の比重をおき、そして彼の個人的満足がエゴイズムを正当化するものとして構成する」が、ニーチェは「個人のエゴイズムはただその種族の究極的目標に関するのみ肯定される……ニーチェはシュティルナーを越え出ている」とする。チャタートン・ヒルは間違っている。ニーチェは「シュティルナーの概念」を採用していないがために、それを「超越」することはできない。シュティルナーとニーチェの根底にあるのは、ひとつに解釈することのできない分かち難い2つの事実である。輝かしい偶像破壊にもかかわらず、ニーチェはまた別の偶像、超人の創造によって贖われる抽象化された「人間」という偶像に取り憑かれている。ニーチェの「エゴイズム」への擁護は、この目標達成によって条件付けられている。そして彼は、個人が自らの「人類の向上」という規範的理想と一致しないときは、「エゴイズムを抑圧することは社会の義務である」(「権力への意志」)と率直に述べている。これはエゴイズムの見解ではなく、「人類」が個人よりも重要だとする見解から生じる選択を要求する道徳主義者のものである。ニーチェの哲学は、「人類」や「人間種」のような超個人的な「実態」が、私の利益を服従させ、私の人生をさえ犠牲にさせる権利があるとする。シュティルナーは対照的に、そのような神聖な信仰のすべてを拒絶する。彼は喜んで「人類」やその「向上」よりも自分自身をより重要なものとして称賛する。彼は人間の贖いという神話ではなく、自己自らの現実世界、唯一者としての存在に関心があるのだ。

訳者あとがき

ニーチェとシュティルナーの違いについて描かれています。

簡単に言えば、ニーチェは「超人」という新たな理想をつくりあげ、その理想のためにときには個人が否定されうることを肯定しています。一方で、シュティルナーは超人だろうとなんだろうと、そういった理想が個人の上に立つことはよろしくない、と説きます。

たとえばシュティルナーの「唯一者とその所有」は、「人間」という概念を「神」にかわるものとして指摘し、厳しく批判しているのが特徴の書です。これ、わかる人にはわかるでしょうが、非常にポスト・モダン的な思想です。

私たちは「私たちは人間である」という考え方よりも、「人間だから私はこうである」というように考えることを自然に、無意識に行っています。このとき、「人間」という概念が各々個人を規定していることとなります。現代では「人間」は神に近い概念となっている。

一方でニーチェは「人間」という概念それ自体を否定しません。「 人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である」(「ツァラトゥストラ」)と言っているとおり、人間としての自己から、超人となるべき強く戦士的な個人を説きます。

ニーチェとシュティルナーを比較した場合、「人間」という概念にまで踏み込んだ点で、シュティルナーの方が徹底したエゴイストであることは疑いようがありません。

ただシドの主張には違和感があります。シュティルナーは理想それ自体を否定しているわけではありません。彼が否定したのは「神聖」です。つまり個人の上に立ち、所有するような抽象概念のことです。神や国家、道徳はその例でしょう。

つまり、彼は個人を所有するような理想に対して反対しましたが、個人所有する理想については否定しません。

シュティルナーが真実を否定していないことは文中に引用されています。「私の下にあるすべての真実は私が好むものである」。真実は、個人の「上に」あるとき否定されるべきものとなるのです。

その意味で、ニーチェの超人思想は――むろんニーチェを神のように崇拝する人は別として――各々個人が所有する理想であるとき、エゴイズムに反しないのではないでしょうか。ニーチェの超人思想は、ユダヤ―キリスト―ヒューマニズムのドグマに連なる「もうひとつの神聖物」なのか、個人が所有するべきものとして提供されているのかは深く考えるべき問題です。

個人的に、ニーチェの思想はエゴイズムと矛盾しないと考えます。ニーチェは、理想のほとんどを破壊したあとに、一つの個人が持つべき理想を提供しました。シュティルナーは、理想のすべてを破壊し――それで終わりました。シュティルナーは本当に、ことごとく破壊して、そのまま去ってしまうような人物です。

非常に似通った思想家の二者は、この点で異なるのではないかと私は考えています。

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