2019-05-13

シュティルナーは死んだ! ニーチェは死んだ!

人間はだれかに頼りたいと思う生き物です。あなたは違いますか?

キリスト者が「聖書」を信仰したように、マルクス主義者は「資本論」を信仰します。

エゴイストや個人主義者は「自分のみを信じる」と主張します。しかし、実際にはニーチェやシュティルナーを預言者として信仰することがあります。これはひどい矛盾ですが、そういう人は珍しくない。

そういった自称エゴイスト、自称個人主義者を批判するコラムがあったので訳します。Apio Ludd「Burn All Bibles」より。

Fire Painting by Yves Klein

すべての聖書を焼け

少し前、個人主義アナーキストのビラをより分けているとき、私は二人のエゴイストの議論についての記事に出くわした。議論の内容は、私が語りたいこととは無縁だ。関係があるのは、彼らが持論を支持するために用いた方法である。エゴイスト個人主義者を自称する彼らのうちいずれもが、自らの意志ある自己創造の生きた経験に基づいて議論を発展させることをしなかった……。いや、彼らはそのかわりに、マックス・シュティルナーの文と詩句を引用したのである、それらがまるで聖書であるかのように。

信心深いクリスチャンのまぬけや、大衆精神のマルキストのアホが彼らの聖書を用いて自らの信仰を支持することは、私の想像どおりである。結局、彼らは信仰、聖書、預言者、神々を持つ。彼らの立場で考えれば、怠惰で信心深い愚者が、自分で感じたり考えるよりも、自分の経典に頼ることは理にかなっている。結局のところ、そのような自己自らを導くような思考や感情が、彼らの信じる退屈で価値のない教義に疑念をもたらすことができる……そしてそこから彼らはどこへゆくのか?

しかし、自らを自己所有の、自己創造の個人であると主張する人が、自らの思想を支援するときに、自分自身ではなく、何か、だれかに頼ること。自己自らの生活と世界を、自らの望むままに創造していると言う人が、なんらかの本を聖書として扱い、なんらかの思想家を預言者とみなすこと、これらは馬鹿げており、深刻な矛盾である。したがってシュティルナーやニーチェを預言者として扱い、彼らの著書を聖書のように扱うことは、彼らを深く侮辱することであり、より重要なことは、自らを信心深い不運な畜群のなかの愚鈍な弟子として自らをさらけだすことである。問題は彼らが自らの信仰を「個人主義」や「エゴイズム」と名付けることではなく、彼らの創造性をより高度の力に服従させる隷従の形態である。もしそうでなければ、彼には聖書は必要ないだろうし、引用する必要もない。彼は自分自らによって話し行動することがまったく可能だからだ。

誤解しないでほしい。私はシュティルナーやニーチェの文章が大好きだ。彼らは賢かった。彼らは陽気で、詩的で、激烈だった。彼らの著書には、そこから盗んで、自分の人生や世界で戯れるときに自分自身のやり方にまぜあわせる価値のあるものがたくさんある。しかし、それらの文章を聖書のように扱うやいなや、もはや自らの戯れに盗むことではなくなる。そのかわりに、それらに自分自身を譲り渡すこととなる。つまり、それらの文章をなにか崇拝すべきなにか神聖なものにしてしまう……君はそれらを聖書に変えてしまうのだ。

真に意志ある自己創造者は、聖書に縛られること、あらゆる聖典に奉仕することを拒む。そのような服従が始まった兆候があれば、そのとき聖書を焼く準備ができたことになる。しかし火は単に聖書を焼く道具というだけではない(最良の道具でもない)。この場合、自己創造者が燃やしたいのは、その本が彼自身の上に持っている神聖物である。すなわち、本を彼にとって自らの自己創造や世界創造における戯れに用いるために盗む道具やおもちゃから、普遍的に適応できる「答え」に変えてしまうもの。この神聖物を根絶するため、焼き払うための最良の道具は、嘲笑と愚弄、皮肉と軽蔑の焼灼酸である。それらは神聖物の汚れを完全に根絶するのに必要なだけ頻繁に、寛大に用いられる。

そしてもし燃やさなければならない聖書が、シュティルナーやニーチェの著作であるならば――まあ、幸運を! それらの書物は、それ自体が焼灼酸で神聖物を根絶させる方法の例を無限に提供してくれる。だから君のニヤつき、神なき神から賢いウィットの武器を盗んで欲しい。彼らは死んでいる……彼らは君を止めることはできない! それから、その武器を君自身の無知な崇拝的態度に用いて欲しい。それから君は、それら書物を戯れるべき道具とおもちゃに戻したことに気づくだろう。もしそうでなければ?

次に君が大きな焚き火をするとき、ぜひそうしてほしい……君のシュティルナーを投げ入れよ、ニーチェを投げ入れよ。大声で笑いながら歌え。「シュティルナーは死んだ! ニーチェは死んだ! 神のように死んで去った!!!」 なぜなら結局、君が聖書なしに生きることを準備できたとき、君はつねに自分自身からそれらの本の新しいを盗むことができるから。

訳者あとがき ニーチェで遊ぼう

私がはじめてニーチェを読んだのは、22歳頃だったと思いますが、すっかりニーチェにはまってしまい、それこそニーチェを「神」のように考えていたのを覚えています。

数年して、ニーチェは相変わらずもっとも好きな思想家のうちの1人でしたが、彼の人生や著作についてより深く知るにつれ、私にとって「神」ではなく、「賢くておもしろい、気のいい友人」という具合になりました。

最近はシュティルナーにはまりまして、今度はシュティルナーが神みたいになりつつあります。まあ、これはニーチェ熱ほど強いものではなく、すぐに「友人」になると思いますが……。

私たちは「神を求める」精神性を持っています。キリスト教、共産主義、日本教でもいいですが――それらは、自分の人生の自由と責任から逃げたいという弱さや幼児性のあらわれなのでしょう。それ自体はしょうがないことです。

でも、ニーチェやシュティルナーを読み、自らを「エゴイスト」や「個人主義者」と信じる者が同じことをするとき、その内部に深刻な矛盾を抱えることになります。

Apio氏の「人生や世界との戯れのなかで、おもちゃや道具toys and toolsとしてそれらの思想を扱え」という記述はかなり好きです。つまり、自分を楽しませるもの、自分にとって有用なものとして扱えということです。

ニーチェやシュティルナーは、まさに神聖物なしに生きた、生きようとした思想家です。

エゴイストとして生きることは、ニーチェやシュティルナーを神聖物として信奉することではありません。自分自身として生きること、自分の世界を創造することです。そのためにはニーチェやシュティルナーを殺すことが必要ですが、結果として、それこそがニーチェやシュティルナーの説いた思想を実践することになるのです。

1 Comment

  1. これは多くの人にとって耳が痛い話ですね

    スピリチュアル界隈では4,50年前にクリシュナムルティというインド人のおっさんが流行りました。彼もここに書いてあることとほぼ同じようなことを言っていましたね

    しかしながら、結局は彼の聴衆もクリシュナムルティをグルとしてあがめてしまった訳ですが

    シュティルナーの教えを本当に理解できる人は極めて少ないと思います。私も当然理解できていません。なぜなら、私もまだ、この幻想の世界に生きることを愛しているからです

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