2019-06-06

エゴイズムは利他主義ではなく、理想主義のアンチテーゼである。

エゴイズムは、非常に誤解されやすい思想であり、利他主義の対極とされます。

自分さえ良ければよい、他者が何を感じようとどうでもいい。そういったサイコパシックな、アイン・ランド的な自由主義思想がエゴイズムと混同されがちです。

しかし、利己主義と自我主義は異なります。自分を中心に置くことは、他者に対して寛容であることと両立します。

エゴイズムを概説するものとして、ジョン・ビバリー・ロビンソンのパンフレットがあったので訳しました。初出はGreen Anarchy issue 20号、原文はこちら

エゴイズム

Priscilla by Richard Hambleton

エゴイズムという言葉ほど、現代的な感覚で広く誤解されている言葉はない。まず最初に、エゴイズムは他者の利益を顧みずに自己利益へ専心することを意味するとされる。それは利他主義――自己を犠牲しての他者へ専心すること――への反対だとされる。この解釈は、ハーバート・スペンサーがそのように言葉を用いていることに由来する。

エゴイズムは、快楽、幸福、功利、いずれでもよいが、それらの増大こそが人生訓であるとする哲学、ヘドニズムやエウダイモニズム(訳注:アリストテレス流の幸福主義)、エピクロス主義と同一視されている。

シュティルナーとニーチェによって提唱され、イブセンやバーナード・ショーらによって詳説された現代エゴイズムは、以下がすべてであり、しかしそれ以上である。彼らが個人であるという、彼らに関する限り、彼らは唯一の個人であるという、個人による認識realization。

私たちのひとりひとりは、宇宙の中心に独りで立っている。私たちは自らの外界として解釈する光景と音に囲まれているが、私たちが知ることのすべては網膜と鼓膜、その他感覚器官における印象に過ぎない。個人にとっての宇宙はこれらの感覚によって測定されるのだ。彼/彼女にとって、自らが宇宙である。彼らのうちには、他の個人を、多かれ少なかれ自らと同じように受け止め、解釈するような者がいる。しかし他者としての個人は彼/彼女自身ではない。彼/彼女は分離している。彼/彼女の意識、そしてそこに入るところの欲望と喜びはユニークなものである。他のだれもそこに入ることができない。

あなたにとって、配偶者や子ども、友人などがどれほど近くて大切な存在であっても、彼らはあなたではない。彼らはあなたの外にいる。あなたは永遠に独りだ。あなたの思考と感情を経験する他者は存在しない。

他者があなたと同じように考え、そのことを言葉であなたに伝えたり、他の人があなたと同じことをして楽しむとき、そのことがあなたに喜びを与えることは疑いない。さらに、それとは別に、彼らがなんらかの方法で楽しんでいるのを見ることも、あなたに喜びを与える。そのような個人への満足は共感の喜びであり、ほとんどの人々にとってもっとも鋭敏な喜びのひとつである。

あなたの共感にしたがえば、あなたは自己自らの幸福か、他者の幸福から喜びを得ることとなる。しかし、あなたが求めるのはただ自分自身の幸福である。もっとも深いエゴイストはもっとも完全な利他主義者であるかもしれない。しかし彼は自らの利他主義は、根本的に、自己の満足にほかならないことを知っている。

しかし、エゴイズムはそれ以上のものである。

エゴイズムは、彼女/彼がすべての制度やすべての公式よりも優れているとする個人による認識である。それらは、彼女が受け入れて自らのものとすることを選んだ限りにおいて存在するにすぎない。もしあなたが自らを宇宙の尺度であることをはっきりと知るとき、あなた自身の意識を反映する限りにおいてそれらの存在すべてが存在するに過ぎないことを知ったとき、あなたは新しい人間となる。あなたは新しい光ですべてを見る。高みに立ち、顔にふきつける新鮮な空気を感じる。そして新しい力と栄光を見いだす。

あなたが崇拝する神がなんであろうと、それらはあなたの神、あなた自身の精神の生産物であり、残酷だろうと優しいものだろうと、神はあなたが描きだしたものであることに気づく。あなたが神を創造した(これはありそうもないが)あるいはだれか他人の理想を受け入れたか、そこに違いはない。神はあなたが受けいれる限りにおいてあなたの理想である。僧侶はあなたが尊敬する限りにおいて尊師である。もしあなたが彼を尊敬することをやめたとき、彼はあなたにとっての尊師ではなくなる。神をつくり、あるいはつくらないのと同じくらい簡単に、あなたは僧侶をつくることも、つくらないことのできる力を持っている。あなたは詩人が言うところの、世界が粉々に崩壊する中、ただ動かずに立つ者である。

そして動かされる人々の、奴隷化された人々への、自らを苦しめる者のための他のすべての理想は、もはやあなたに対して力を持たない。あなたはそれらを恐れない。それらを自らの理想とし、自らの精神とし、自らの喜びとするように、それらを変化させたり無視することは、あなたの意のままである。それらは恐れるべきではなく、あなたの所有する楽しむべき小さなペットなのである。

「国家」や「政府」は、多くの人々によって尊敬され、恐れられる、自らの上に立つものとして理想化されている。彼らはそれを「私の国」と呼ぶ。そしてあなたが魔法の言葉を唱えると、彼らは友人たちを殺すために突撃する。もし理想によって毒され盲目化されていなければ、ピンでつけた傷ほどもだれかを傷つけないだろう人々が。ほとんどの人々は、理想の影響の下で理性を奪われている。「宗教」「愛国心」「道徳」といった理想につき動かされ、彼らは他者の喉元に飛びかかる――そうでさえなければ、もっとも心優しい隣人である彼らが! しかし彼らの理想は、狂人の「固定観念」のようなものである。理想の影響の下、彼らは非理性的に無責任になる。他者を破壊するだけではなく、彼らは自らの利益をしばしば全く沈めてしまい、完全に貪欲であるところの理想への生贄として、自分自身を破壊する狂気にまで突き進む。まったく興味深いものではないか? 哲学的精神でこのことを見る者にとっては。

しかし、エゴイストは一切の理想を持たない。理想は彼自身の理想に過ぎないことを知っており、それらの理想から自らを解放することを知っているために。彼女は理想の利益のためではなく、自己自らの利益のために行動する。もしそうすることを厭うときには、「道徳」の利益のために人を吊るすことも、子どもを鞭で打つこともしない。彼/彼女には「国家」への尊敬はない。「政府」は単なる人間の集まりであり、その人間は大馬鹿者であり、多数となるとさらに大馬鹿者になるところのものであることを彼女は知っている。もし国家が利益となるとき、彼はそれを支持するだろう。国家が攻撃し、自由を侵害するのであれば、彼女がそれに耐えうるほど強くない場合、力によって全力でそれから逃れるだろう。彼/彼女は国家なき人間である。

「旗」は、人々がつねにシンボルを崇拝するように、ほとんどの人々が目指すべきものというよりはシンボルとして崇拝するものだが、それはエゴイストにとって相容れないツギハギである。もし欲すれば彼らはその上を歩いたり唾を吐くこともできる、防水シートの上を歩いたり唾を吐くよりも感情を煩わされることなく。そのシンボル化する原則が、自らにとって有利となるときだけ彼はそれを維持する。しかしもしその原則が人々を殺させたり自らを殺すことを要求するとき、あなたは彼らにそうするよう説き伏せる前に、殺すことや殺されることによってどのような利益があるかを証明しなければならないだろう。

裁判官が法服をまとい法廷に入るとき(裁判官、大臣、教授たちは大衆に印象づける上での衣服の価値を知っている)、エゴイストはびくともしない。彼女/彼は「法」に何ら尊敬をもたない。もし法律が有利となるとき、彼女はそれを役立たせる。もし法律が自由を侵害するのであれば、それが賢明であると判断する場合、彼女は法律を超越する。しかし、彼女はそれを何か特別なこととはみなしていない。法律は彼女にとって、いまだに「闇の中に座っている」人々のぎこちない創造物なのである。

彼は道徳にひざまずくこともない――神聖な道徳! そのうちのいくつかを彼女は受け入れるだろう、もしそのことを選ぶときには。しかし、あなたは彼女に「正しくない」と説くことで脅すことはできない。通常、彼は殺すことや盗むことを好まない。しかし、もし彼女が自分のために殺したり盗まねばならないとき、彼はそれを良き心によって行うだろう、まったく「良心」の呵責なしに。

そして「道徳」は、利益とならない場合、他者を傷つけることを説得することはない。哀れな悪魔たちを鞭打ち、燃やすような「ホワイト・キャップス(訳注:アメリカの過激な白人至上主義者)」の中に彼女は見つけられない。彼らの行動は「道徳」の命令とは適合しないために、彼らはそのような行為によって傷つけることはない。もし彼らの手が病んでいないときには、あわれな少女を迫害することはなく、路上に放りだすこともない。

友人たち――真実を得るに値する人々に――彼女は真実を語るだろう。しかしあなたは、「嘘をつくことの恐怖」ことから彼から真実を強制することはできない。宣誓が、超自然的な恐怖によって精神を奴隷化させるための装置であることを彼は知っているからである。

その他の小さく、希薄な私たちの心を縛り付け、その生を縮めてきた理想は、まるでそうではなかったかのように、エゴイストのものとなる。

「親孝行と尊敬」は、もし両親がそれに値するとき、彼が与えるものである。もし両親が彼女を幼児期にぶち、子ども時代にバカにし、成熟期に支配しようとしたとき、その虐待にも関わらず彼は両親を愛するかもしれない。しかし、もし彼らが彼女の愛情を疎外したとき、両親は「義務」への訴えによってそれを再起させることは二度とできない。

簡潔に言えば、現代の解釈でのエゴイズムは、利他主義ではなく理想主義のアンチテーゼである。ふつうの人々――理想主義者――は自己の利益を他者の利益のもとに服従させ、通常、そのことによって苦しむ。エゴイストはどの理想によっても惑わされない。彼/彼女はそれが利害と一致するとき、それらを切り捨てるか利用する。もし彼/彼女が利他主義を好むのであれば、彼らは自らを他者のために犠牲にするだろう。しかしそれはただ彼らがそうすることを好むことによってのみである。彼らはその見返りに、なんら感謝や栄光を要求しない。

訳者あとがき

エゴイズムに関して、簡潔に描かれているパンフレットでした。

「エゴイズムは、彼女/彼がすべての制度やすべての公式よりも優れているとする個人による認識である It is the realization by the individual that she/he is above all institutions and all formulas」という記述は、シドニー・E・パーカーも好んで引用していた言葉です。

理想=イデオロギーは、自分以外のなにかを中心に置くことを意味します。人間が自己や他者に対してもっとも残酷になるのは、だれか他人の意志に従うときです。戦争や迫害はその例です。エゴイストはそのような虚偽に唾を吐きかけます。

エゴイストであるということは、イデオロギーではなく自己を中心に置くことを意味します。すなわち、自分の本心に従うこと。

エゴイストは、自分の利益とならないものすべて切り捨てます。有用なものは道具やおもちゃとして楽しみますが、それが自分にとって有害となる場合、エゴイストは峻酷となります。神や国家、法律、道徳や家族主義は、エゴイストにとって笑うべきもの、利用すべきもの、あるいは消滅させるべきものとなるのです。

参考:「エゴイズム」のパンフレットの表紙

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