2019-07-15

私はかつて人間を愛した、神を愛するのと同じように……。

現代の人々は、神に奉仕する近世や中世の物語を嘲笑う。ありもしない神を信じるなど、馬鹿げたことだ、と。しかし「人間」に奉仕する物語となると、熱心に感動する。たとえば、ヒーローが人類を救うためにエイリアンとか、悪の秘密組織と戦うことは、偉いことだ、すばらしいことだとされる。ヒーローが死んでしまえばなおさら感動的である。彼は「人間」のために自分を犠牲にしたのだから……「なんて崇高なことだ!」と彼らは涙を流す。

一方で、人間に奉仕せずに、ただ自我だけを信じ、愛し、快楽を求める人間、社会や人類に自分を捧げる気のない人間が、どれほど不当に扱われることだろう! そのような人々が受けている扱いが、かつての無神論者と同じ扱いだったことは想像に難くない。

現代では「人類humanity」が、神よりも一層危険な神として置き換わっているのである。

Brookside Winter by Mednyanszky

抑圧された大衆?

私は神を否定する。神のために自分を犠牲にすることを嫌う。
同時に、人間を否定する。人間のために自分を犠牲にすることを嫌う。

もちろん、抑圧されている人間は存在する。彼らは貧困と不自由に苦しむ。

しかし、彼らを救うべきだろうか。

「救うべきではない」とある人は言う。彼らは自己責任だからしょうがないのだと。資本主義イデオロギーに浸かっている彼らは、「君が思っているよりも、この社会はうまくいっている」という。

私はこういう人物をよく知っている。彼らの特徴は、第一に想像力にかけており、第二に経験にかけているために、子どものように理解しやすい。こういう人は、だいたい中流以上に生まれ、そこそこいい大学を出て、そこそこいい暮らしをしている。貧困を経験したことはないし、また貧しい人間と深く関わったこともない。大学なんかには、こういう浮ついた人間がゴロゴロしている。

私はグラムシとか、カミュとか、ブルデューとか、エピクロスもそうだが、貧困を経験した人間を愛するし、その思想に共感する。生まれが貧困でなくても、すすんで貧困に飛び込んだスピノザやシモーヌ・ヴェイユのような人もいる。

社会の上層という一種のフィクションを生きてきた人々は、社会を皮相的に見る。彼らにとって、弱者の貧困は必然なのだ。

一方で、その裏返しとして、抑圧される人々を理想的する人もいる。虐げられる弱者を美しいものとして描く。アナーキストでいえば、クロポトキンやトルストイがそうだ。こういう人々は、農民や労働者というものを理想化してしまう。

怠惰な知識人はこのどちらかの罠にはまる。つまり、社会を理想化するか、社会を否定して、下層を理想化するか。いずれにせよ彼らは現実に肉薄していない。

私はそのどちらも否定する。社会的不平等は存在する。それを踏まえた上で、救う必要を感じない。だから、私は人間を救わない。

たしかに、彼らは抑圧されている。不当に虐げられている。では、彼らは自由を望んでいるのか? その生活に苦しんでいるのか?――その生活から、快楽を得てはいないのか。まあ、これは前にも書いたから繰り返さない。

理想と現実

こういった理想主義者に欠けているのは、現実を認識する能力と勇気だ。

人間の本性というものがあり、多くのアナーキストが望むように自由を求めるのであれば、理想社会は支配者を排除すれば成り立つ。つまり、国家や階級社会などの「不自然なシステム」を破壊すれば、民衆は解放される。

しかし、民衆は解放を望まない。なぜなら、奴隷根性がその遺伝子にまでしみついているからだ。つまり、彼らは、特段に自由を望むわけではない。彼らは国家に命令されること、企業に奉仕することに、少なからぬ喜びを感じているのである。

この事実に直面した人はどうすればいいのか。人間に困惑するところの彼は。あくまで民衆を信じよう、啓蒙し、民衆をめざめさせよう。それもよいだろう。もし「あなた」が満足するのであれば、そうしてほしい。しかし、私は可能性がないことに自分の人生をかけたくはない。この点は、「アナーキストの銀行家」と同じだ。

もし未来の社会が私の期待どおりにならないとしたらどうか? もし自由な社会が決して存在しえないとしたら? その場合、私のすべての自己犠牲とはつまるところ何だったのか? 理想のために自分を犠牲にすることは問題ない。個人的な酬いなしに、自分の努力によって私が何も得られなくても。しかし、自分がはたらきかけている目標がいつか実現するという確証もなしに自分を犠牲にすることは……それはあんまりだ。

だから、私がすることは、彼らを消してしまうことだった。

存在するもの/しないもの

私はエゴイズムを知って、国家をフィクションとして考えることを知った。つまり、それらは別に存在する必要はないのである。

いかに国家という巨大な存在を消しうるか?

無論、国家は徴税や刑罰といった形で私に現前する。しかし、それは私の身体的自由と経済的自由を束縛することはできるかもしれないが、私の精神の自由までは奪うことはできない。私はテレビを見ないし、新聞も読まない。ドメスティックな政治やニュースにも関心がない。こうした生活では、国家というのはほとんどないに等しい。第一、税務局はあるし、監獄はあるけど、国家などというのは見たことがない。そういうわけだから、金をくれ、さもなければ投獄する、という脅しに対しては、私は運悪く強盗にあったのだと思い、支払う。だからといって、四六時中強盗のことを怯えたり、強盗を殺そうと追いかけるようなことはしたくない。なぜか。強盗は数十万人の徒党であり、私ひとりでは勝ち目はなさそうだし、強盗のような下賤な存在を考えることは単純に不快だからである。だから、私には国家は存在しない。さよなら。

同じように、道徳とか、神とか、そのようなものは存在しないことは、別に言うまでもないことだ。さて、これら超大な存在の他に、消してしまうべきおばけがもうひとつあった。それが私にとって「人間」だったのだ。

私は人間を否定する。第一に、私にとってそれはほとんど存在しない。イデオロギーとしてのみ知る。第二に、それは私にとって不快なものだからだ。虐げられている国民や大衆は見たくない。国家が醜悪なのと同様、彼らも醜悪である。

シュティルナーはすべてのイデオロギーを否定した。個人の所有物ではなく、個人を所有するもの。それを彼は「おばけspooks」と呼んだ。私が自分を犠牲にして民衆を救おうとしていたのだが、そんな私をシュティルナーは、「きみの頭は狂っている!」と嘲笑うだろう。

反対に、私が認めるのは、個人、それだけである。私は少数の個人のみを、自分を所有する人々、所有したいと願う人々だけを人間として認める。私が救いたいと思うのは、彼らだけだ。そして実際に私を救ってくれたのも、少数の個人だけだった。

2 comments

  1. いつも見させて頂いています。
    車上生活によって自由を得るというやり方は、賃金奴隷に長く甘んじる必要があるという点が消極的に映ります。アナーキストの銀行家のように積極的な姿勢を取るべきでしょうか?
    また、略奪は一方通行でなくてもよいと考えます。デジタルパイレーツとして生きていくのも現実的な手法として一考に値するのではないでしょうか?
    御厨さんはやはり車上生活派ですか?

    1. コメントありがとうございます。
      質問に答える前に聞きたいのですが、デジタルパイレーツとはどのようなことを言うのでしょうか?

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