2019-08-13

シュティルナーは哲学者なのか?

アピオ・ラッドの「Stirner, the Wise Guy:Introduction to The Unique and Its Property」を訳しました(脚注および文中一部省略)。「唯一者とその所有」をある程度読んだ人におすすめです。道教との関連も指摘されています。

Delphinium by Eyvind Earle

シュティルナー、この賢い男:「唯一者とその所有」入門

ほとんどすべてのシュティルナーの学徒は、独学者にせよ大学教育を受けた者にせよ、「唯一者……」の著者を哲学者と呼ぶことを主張する。私はシュティルナーが自らをそのように呼んでいたことを思い出せない。そして確かなことは、彼が本を書いたとき、哲学とは、その普及者があまりにも深刻に考えすぎたジョークであり、おどけて笑うにのみ価値があると彼は結論づけていた。そして哲学をあざける人間を哲学者と呼ぶことは、神を敬わない無神論者を神学者と呼ぶくらいバカげている。

哲学者は究極な意味での答え――普遍的答え――を追い求める。そうなので彼らはまさしく知恵を愛する者たちである。知恵をなにか客観的な、それ自体で存在する物であるかのように、あらゆる個人を超越するものとして彼らは扱う。したがって自らに合わせて使うべき自らの所有物、自らの属性とするよりも、それを追い求めなければならない何かとする。彼らはいまだに自己より、君や私よりも優れた「知恵」というイデアに愛着している。シュティルナーは彼らを「敬虔な無神論者」と呼んだ。このことはもっとも過激なキリスト者が「敬虔主義(ピエティスト)」として知られる国においてとりわけ痛烈な針だった。この外的な、普遍的な知恵とされるものを追求しつづけるかぎり、人は賢人wise manにはなれるかもしれないが、決して賢い男wise guyにはなれない。シュティルナーは賢い男だった、彼は探すべき究極の普遍的知恵などないことを知っていたから。哲学者の目標とは、ただ嘲笑者と愚弄者にのみ価値を持つ絵空事である。そしてシュティルナーはしばしば彼の書物のなかでもっとも喜びながら無作法に(哲学を)嘲笑し愚弄した。残念ながら、彼の批判者と弟子たちの大半はこのジョークを見逃している。そしてジョークを説明することがジョークを言うことほど楽しいことはありえない。そうなので、シュティルナーは「哲学的反動者」と「シュティルナーの批評家」において徐々に憤激(いまだユーモラスだが、残虐にさえ表現されている)を強めている。

ジョークを説明するのは退屈だが、ある程度そうする努力を私はしよう。こうするのは大部分が、シュティルナーをあまりにも文字通りに真剣に受けとった者が、彼についてもっともバカバカしい結論を下したこと、そして自らの反逆的思想を発展させるために彼の著作が有用であると見つけた反逆者たちが原因である。

まずはじめにシュティルナーは哲学それ自体を愚弄している。このことは彼の「唯一者とその所有」におけるソクラテス批判と「哲学的反動者」においてあきらかである。彼はたしかに同時代のドイツ哲学およびドイツの哲学者――ヘーゲル、彼の先駆者、彼の弟子、そして彼の「ヘーゲル左派」批評家たち――にもっとも猛烈に嘲笑を向けたが、シュティルナーの愚弄的、遊戯的な論理は、哲学的事業全体の土台を覆し、個人の行動における個人的好みを超えるような形而上学、オントロジー、倫理などの存在する余地を残さなかった。

彼の愚弄のおもな焦点はヘーゲル主義の方法論だが、それはシュティルナーの生きていた時代のドイツでもっとも支配的な哲学的手法となっていたからである。そして彼のジョークはこの本を通じて編み込まれている。まず彼はヘーゲルの「精神現象学」とフォイエルバッハの「キリスト教の本質」に沿って注意深く「唯一者」を構成している。それらの基礎を破壊するためにである。学者のなかには、彼を究極のヘーゲル主義者と呼ぶ人もいる、著書のなかでヘーゲル弁証法を用いているために。しかし、「哲学的反動者」においてシュティルナーはこれもまたジョークであると説明している。「あなた方哲学者たちは、自ら自身の武器で殴られたという暗示を実際に持っただろうか? それは暗示以外の何ものでもないのだ。もし弁証法的に立てたものを弁証法的に破壊されたときに、君たち心ある仲間たちがそれにどんな方法で対抗できるだろうか? あなた方は全を無に、無を全に、黒を白に、白を黒に変える「雄弁」を私に示した。いかにそれに対峙することがあなた方にできるだろうか、私があなた方の巧妙なトリックを返したときに? しかしあなた方も私も、自然哲学の弁証法的トリックによってシェリングやヘーゲルがした以上に現代の自然研究の偉大な事実を取り消すことはないだろう」。シュティルナーは、彼が愚弄して基盤を破壊しようとする方法、彼らが著書のなかで見つけたと主張する方法を用いることを選んだのだ。それは彼がそれら手法を信じているからではなく、最良でもそれらは単なる知的道具であり、理念の領域の近縁においてはあらゆる使用において破滅するものとなることを示したかったのである。

実際、シュティルナーが言わなければならないことは、いかなる普遍的あるいは歴史的な進歩ではないし、弁証法やそれらの余地を残さなかった。シュティルナーが彼の本のはじめと終わりにゲーテの詩「Vanitas! Vanitatum Vanitas」からとった同じ言葉を書いていることは偶然ではない。私はその言葉を(かなり文字通りに)「私は自分の関係事を無の上に基づけたI have based my affair on nothing」と訳している(訳注:日本語訳では「私の事柄を、無の上に、私はすえた(片岡訳)」「私は何事にも無関心だ(草間訳)」)。ゲーテの詩は酒場で友人たちが笑いながら一緒に歌うような宴会の歌のように感じられる。シュティルナーがこれを著書の最初と最後で用いたのはこのように言うことを意味する。「私は楽しい、そしてそれがすべての重要事なのだ、だからこれらすべてを深刻にとってはならない」。そして彼は提案する――完全に知覚した、自らの楽しみのための自己愉悦と自己創造――は、左派や右派の道徳家やイデオローグが主張するのと同じくらい(あらゆる普遍的・歴史的な意味で)徹底的に非歴史的で反進歩的である。しかしこのことが彼の提案を純正の反逆と純正の反権威主義たらしめている。なぜなら歴史と進歩はつねに、自らのため、自らの強制する理想と価値観のために万人が生きることを望む支配権力の歴史と進歩だったからである。

シュティルナーの反歴史的、反進歩的、徹底的な現在性in-the-moment、自己中心的パースペクティブを参照して、シュティルナーの著書における歴史的進歩のあらゆる語り、またあきらかに進歩的な記述はジョークの一部であり、彼が切り裂くところの見解に対する侮辱であることに読者は気づく必要がある。私は最近あるパンフレットを読んだが、そこでは著者のひとりが、「唯一者」の「人間の人生」という章でシュティルナーがいかに個人が発達するかを表現していると想定していた。しかしまさにこの章のタイトルにおいてシュティルナーはこれが彼の見解ではなくジョークの一部であるというぎこちないヒントを与えているのである。シュティルナーの侮辱はそれぞれの唯一者と彼の楽しみのうえにおかれるすべての固着概念、すべての理想に対する攻撃なのだ。その中心的な攻撃は、フォイエルバッハ、ブルーノ、エドガー・バウアー(そしてその他の「批評的批評」)のヒューマニズム、そして当時の、キリスト教や有神論に置き換わったところのさまざまなリベラルや過激派に向けられている。シュティルナーが「人間の人生」について語るとき、彼は彼の人生ではなく、君の人生ではなく、私の人生ではなく、一般的な「人類」の人生について語っているのではない(なぜならシュティルナーにとって、「人類」はそれ自体が単なる幽霊だから――彼が明白に一度以上語ったように)。彼はジョークを受けとる読者に対し、いかに彼の敵対者たちが人間の発達をそれ自体に反して捻じ曲げて見ているかについて、戯画化された笑うべき見解を示しているのである。

同じように、シュティルナーが「第一章 人類」(特にその「階級」)における歴史的進歩として描き出したものは彼自身の歴史観ではなかった。シュティルナーはまったく意図的に非歴史的だった。その代わり、彼はヘーゲルの弁証法的進歩的歴史観をバカにする、それを曲解して自らの見解を支持する目的でヘーゲルの歴史観を利用する者たちのために。このシュティルナーの見解において明らかに見いだせる人種的ヒエラルキーは、ヘーゲルから直接的にきているものだった(しかしヘーゲルは、当時のもっとも進歩的な思想家と同様に生物学的に人種を理解できていなかったし、すべての人類が最終的に彼が信じるような進歩的変化を達成できると想定していた)。そしてシュティルナーの侮辱はヘーゲルが想定していた文化的階級に対する楽しいポリティカリー・インコレクトなジョークなのだ。シュティルナーの遊戯的な主張は、もし進歩する歴史があると仮定するとしても、まさにヘーゲル自身の論理によってエゴイズムに戻る結果になるというものである。それら進歩はすべて私たちをどこにも連れてはいかないのだ……。そして彼の「モンゴリズム」のドイツの同時代人への帰属は、検閲を避けるための彼の戦略(当時のドイツ当局に対する批判的な言及をするとき彼は「ドイツ」の代わりに「中国」や「日本」を用いている)でさえ、ジョークの一部であることを示している。

実際、シュティルナーはより深いジョークをここで言っているのかもしれない。私がはじめてバイントンのシュティルナー訳を読んだとき、道教や仏教との間に多くの類似点があることに気づいた。1906年すでにアレクサンドラ・デイヴィッド=ニールがシュティルナーの思想とヤン・チョウ(楊朱)の思想とを比較している。シュティルナーは各々個人の一時性を強調し、結晶化された永続的な「自己」を、また別の幽霊として、ほかの永続的思想と同じくらい拒絶した。彼は思想の限界を超えることが、いまここでの一時的な自己を完全に生きるために必要な部分であると考えた。自己愉悦は自己忘却においてもっとも完全に達成されると考えた。そして「シュティルナーの批評家」において、彼は唯一者について、タオ・テ・チン(老子道徳経)が語っていたのと同じように語っている。「シュティルナーは唯一者に名前をつけながら、同時に「名は名をつけることはない」と言う。彼は唯一者に名をつけるときには名を口にしながら、唯一者は名に過ぎないと言う……。 シュティルナーが語ることはひとつの言葉、ひとつの思想、ひとつの概念である。そして彼が意味するのは言葉でも、思想でも、コンセプトでもない。彼が語ることは意味ではない、彼が意味することは語ることが不可能なのだ」(「シュティルナーの批評家」)。シュティルナーはこの類似性に気づいていたのだろうか? ベルリン大学においてシュティルナーがヘーゲルのどの講義に出席したかはわからないが、ヘーゲルが東洋哲学の講義を行っていたことは確かである。このことは仏教、道教、他の東洋の書物を当時のドイツで読むことが可能だったことを示す。私はシュティルナーがそれらを読んでいると考えたい。エゴイスト的な自己創造者にとってこれら書物が自己自らの生き方、世界観を強める上で有用で魅力的であると感じて手に取ることが適切であるように。もしそうであれば、このことは彼のドイツ人の「モンゴリズム」に対する遊戯にたいして、たしかに皮肉な深さを加えることになる。

私はシュティルナーのジョーク、皮肉、嘲笑についてもっと説明してもよいのだが、ジョークを説明することはそれをするよりも決して楽しいことはない。シュティルナーにとって歴史には究極的な目的などなかったし、本質的な進歩はなく、弁証法は彼にとって道具以外のなにものでもなかった。この道具の使い途として彼が見つけたのは、弁証法を破壊するためにそれを用いることだけだった。そしてこのことは侮辱と皮肉によってもっともうまくいった。シュティルナーは徹底的に不敬な無神論者であり、私がbarefisted atheist(グローブを外した無神論者)と呼びたい者である。彼は人生において、なんら神への欲望や必要がなかったし、なんらかの究極的に結晶化された「自己」が達成されることさえ不要だった。そして彼は彼みずからの無神論の意味を受け入れること――そして実のところ楽しんでいたのだが――に意欲的だった。神がなければ道徳の根拠はない。神がなければ神聖物の根拠はない。神がなければ普遍的な意味、普遍的な狙い、普遍的な目的はない。実のところ、普遍的宇宙universal universeもない。宇宙は不条理である。唯一の意味、狙い、目的、宇宙は、個人が自らのために創造するまさに短命の移ろいゆく存在である。この全体的不条理に直面したとき、君はそれを無視して君自身の意味での普遍性を仮定することを選択することができる。これはシュティルナーが言った「まぬけなエゴイストduped egoist」になることであり、宗教者の典型となる道である(マルクスとその追随者、ヒトラーと追随者、ミーゼスと追随者のようなイデオローグを含む)。あるいは不条理が君を圧倒するままに任せ、新しい宇宙的悲観論の新しい宗教に陥ることができる。そこでは不条理さが恐ろしい神となり(君がそれを名で呼ぼうが呼ぶまいが)、君はふたたび「まぬけなエゴイスト」となる。あるいは君はシュティルナーがしたのと同じように、究極の不条理のなかにユーモアを見出し、普遍的意味と普遍的目的の欠如を、君や私に自らのための自らの生活をあえて創造する能力を与えてくれるものとして認識することもできるだろう。シュティルナーはあえて自らの自己創造の力を握りしめ、神聖だと考えられていたものすべてに、それを破壊するつもりで狙いを定めた。彼は神聖物を破壊する上であざけり笑うことが最高の武器になることを知っていた。賢者となる代わりに、シュティルナーは賢い男になることを選択した。そしてもし君がジョークを理解できないなら、ジョークは君に向けられる……。(以下略)

訳者あとがき

著者アピオ・ラッドは匿名の現代アナーキスト。エゴイストでありインサレクショニスト(暴動主義者)です。

原文ではWolfi Landstreicher(ヴォルフィ・ラントシュトライヒャー?「放浪する狼」といった意味)という名義なのですが、最近はアピオ・ラッドに名前を変えています。彼の著作では「すべての聖書を焼け」を訳しています。そちらでもシュティルナーやニーチェの著作を「聖書」のように扱うことを批判しています。

本論でも、エゴイズムの不条理を「神」のように扱う人々が「まぬけなエゴイスト」として批判されています。実際、シュティルナーはすべての神聖物を破壊せよ、と説いたのに、彼や彼の著書、思想を神聖物のように扱うことはまったくバカげている。

……なのですが、私もラッドが「あるパンフレット」を批判しているように、「唯一者」のなかの人間発達論を割とクソまじめに受けとっていました(「国家は存在しない」)。こういう古い本を読む上で、現代の感覚で読んではだめで、時代背景や著者の状況を含めて読まなきゃいけないことを痛感します。

「唯一者」草間平作訳より、私の気に入ったフレーズ。

ともあれ、「唯一者とその所有」を読んでいると、背筋を伸ばして読まなければならない深遠な哲学書、という感じはしません。哲学というのはふつう、一生懸命に「永続的で普遍的な」真理を構築しようとする試みであり、たとえば「純粋理性批判」とか「エチカ」はそんな感じなのですが、シュティルナーは巨大なハンマーでドカンドカンと「神聖物」を破壊していきますから、非常に愉快で、読んでいて笑ってしまうことが多い。彼はたしかに「哲学者」ではないでしょう。

まあ、「彼が破壊しつくした廃墟のなかでどうすればいいのか?」という問題は残ります。アピオ氏は「それを受けいれて喜ばしい創造的生を生きよ」というわけですが、これはかなりカミュっぽい思想であり、ある面ではポスト・モダン思想に通じるところがあります。

さて、神聖物を破壊するためには、嘲笑がもっとも有効な武器であるというのは共感できるところです。戦時中の不敬罪の歴史を調べていたときに思ったのですが、「天皇は人殺しだ!うちの子を返せ!」という悲痛な叫びよりも、学生たちがなんでもないものかのように「天ちゃん」と呼んでいたという、後者の方がはるかに天皇制にとって危険だと感じました(憲兵は後者を捕まえなかったみたいですが)。

実際、「国家はひどい、おそろしい存在だ!」というよりは「アホが集まってアホなことをしてるアホなところ」くらいに考える方が、個人が健やかに生きていく上でも、実際に国家を破壊する上でも有効であるという感じがします。もしも国家が権威を失ったらだれも命令には従わないでしょう?

いずれにせよ「唯一者とその所有」はおすすめの本です。ほんとうに優れた思想はメインストリーム哲学の外にあるかもしれません。

また、文中に書かれている「シュティルナーの批評家」は、「唯一者」への批判に対してシュティルナーが三人称的に書いたものです。アピオ・ラッドが英訳しています

最後にゲーテのVanitas! vanitatum vanitas!を紹介します。たしかに「居酒屋ソング」っぽい、やけくそな詩です。

ゲーテ「空なり!空の空なり!」

訳:生田春月

おれは何にもたのみにやしなかつた
愉快愉快!
それでこの世が樂しみだ
愉快愉快!
おれの仲間になりたいものは
杯を打合せて合唱しろ
滓(をり)まですつかり飮みほして

おれは金をたのみにした
愉快愉快!
そこで喜びと元氣を失つた
悲慘悲慘!
貨幣(かね)はころころ轉げまはり
そつちで掴んだと思ふまに
あつちで滑つて行つてしまふ

おれはそこで女をたのみにした
愉快愉快!
さあそこでいろんな恥をかいた
悲慘悲慘!
薄情ものはこつちの手に合はず
操があるのは退屈だ
一番いいのは賣物でない

おれは旅行をたのみにした
愉快愉快!
そして 國風(くにぶり)を忘れてしまつた
悲慘悲慘!
それに何處へ行つても氣が晴れず
食物たべものは口に合はず、寢床はおそまつだ
おれをわかつてくれる人もない

おれは名譽をたのみにした
愉快愉快!
だが見ろ!直ぐに他人が凌駕した
悲慘悲慘!
それでおれの方で上に出たときは
みんなはおれに澁い顏をした
おれは誰の氣にも入らなかつた

おれは 戰爭(いくさ)をたのみにした
愉快愉快!
さうしておれたちは澤山の勝利を得た
愉快愉快!
おれたちは敵國へ侵入した
互に戰友に負けまいとした
そしておれは 脚あしを一本失つた

もうおれは何にもたのみにやしなかつた
愉快愉快!
それで世界中はおれのものだ
愉快愉快!
さあ宴會も歌もおしまひだ
杯の底の滓までも飮み盡くせ
最後の一滴(しづく)まで飮み盡くせ!

2 comments

  1. 唯一者とその所有をこのブログで知って読んでいます
    齟齬さんは自殺の予定ありますか
    私は今年の冬に決行予定です

    1. こんにちは。自殺の予定はないですよ。死ぬ理由もないですから。
      ぜひ「唯一者とその所有」を読んでみてください。もしかしたら死ぬ気がなくなるかも?

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