2019-11-03

自発的な孤独と非自発的な孤独の違い。

隠者サイト「Hermitary.com」の管理人、Meng-hu氏のブログ記事「Loneliness」を翻訳してみます。

孤独

ひろく普及している本を含めて、今日の主要メディアは、現代の都市技術文化における人々の原子化を描き、失われた――おそらく思い出された――過去の共同体と共生(コンヴィヴィアリティ)を嘆いている。若者たちが周囲の仲間や他者を無視してスマートフォンに顔を埋めるというイメージはよくみられる――まるで若者たちが今日の世界をつくりあげ、その権力と権威の舵をとっているかのように。しかし、疎外のステレオタイプはそう最近のものではない。歴史と文化についてよく読めば、そうではないことがわかるだろう。

孤独は社会的疎外であり、現代文化により特徴的な生産物だが、単純に歴史的に現代的なわけではない。スー・ハルパーンは、彼女の著書「Migrations to Solitude」で、孤独な人々は「非自発的な孤独involuntary solitude」に苦しんでいると述べた。意志を重視せねばならない。ほとんどの人々は孤独を人から離れたり、他者と実質的に繋がりを持てないことだと理解している。真に孤独な人々は、自らの意志ではなく、作られるのである。孤独な人々は監禁、喜びの喪失、悲嘆、病気、虐待、依存症、精神疾患に苦しんでいる。これらの要因は彼らを彼ら自身と他者から疎外し、心理的エントラップメントのサイクルを生みだす。それは社会的でさえある。フーコーは「監獄が工場、学校、兵舎、病院に似ている、すべてが監獄に似ていることは驚くべきことだろうか?」と言った。社会とその権力は、管理の目的で孤独の構造を構築し、可能な限り多くの人々に「非自発的孤独」を強制する。

このことが、なぜ孤独を好む個人が、同情的なメディアによってでさえ、ひとりぼっちで友情を必要としており、リハビリではないとしても、社会化を必要としていると説明されるかの理由である。回復への一般的ルートは単に模倣することにある。他者がいかにして社会的生活を送り、社会的活動に参加し、疎外されていると感じないため、また社会の一部分であることを感じるために社会の製品を消費しているかを。別のアプローチは、孤独な人々をリハビリするよりも深刻に心理学的なアプローチであり、孤独な人々や精神疾患に苦しむ人々に医薬品を用いて彼らの鬱病を抑制し、メインストリーム化する。通常、「自発的」孤独とでもいうべき状態への移行を推奨するような当局はない。なぜならそのような状態は彼らの想定では存在しない、または存在すべきではないからである。歴史的な孤独とその現代版をスティグマ化するために、孤立lonelinessは孤独solitudeと混同される。孤立からのリハビリに失敗した者は、社会によって非自発的な制度化institutionalization、組み込まれた社会的常習性へと引き戻される。

Emilio Scanavino – Composizione

古典的な内向者のように、孤独な人格は外部の人間や出来事によってではなく、直感や知覚から自己イメージを導きだす。生得的、先天的な冷静さの中心に恵まれた自己規律を通じて、社会の移ろいゆく価値観に耐える能力により、孤独者は自己と他者の鋭い観察者となり、少なくとも個人に対する危害、敵意、狡猾、欺瞞、悪い動機に対して警戒する自己知識にまで到達する。

オールダムのパーソナリティ・スケールが示すように、孤独の力は機能不全のパラノイアまで悪化することがある。しかし、すべてのパーソナリティ・タイプにはそのスペクトラムにおいて機能不全の対応物がある。したがって、宗教的、霊的、哲学的動機によって導かれた孤独者は、自然とより大きな自然のサイクル、リズム、ハーモニーに同一化する荒野の孤独者がそうであるように、もっともバランスがとれており、集中したままでいることは疑いない。歴史的にはほとんどの隠者はそのように特徴づけられた。精神疾患に苦しみ、ヴィジョンや狂った行動で孤独の直感を誇大化し悪化させた人々は、しばしばすべての孤独者を代表するかのように教会や国家、他の権威によってつくりあげられた。これは一般化に便利な道具だったのである:すべての孤独の行動が疑わしいものであり、危険であるとつくりあげるための。中世の教会は啓蒙主義の合理主義者と同じくらい、兵舎や監獄、病院などへの反対を象徴する無制限の孤独者に反対したのである。

孤独と沈黙の美徳にメディアは注目しているが、そのような断片の目標はしばしば、ライバルを打ち負かし、集団を打倒し、自己と組織のための力をより多く掌握する技術を磨く目的で真の孤独と沈黙の力を採用することにある。このようなプレゼンテーションはさもなければ、あまりにも孤独と沈黙を軽視する人々に向けてつくられている――警告が復活し、悪い動機に警報を慣らしている。孤独と沈黙の利用exploitationは、アスリートや兵士たちがより効果的に他者を害するために行うような心身修養の方法として行う、瞑想やヨガ、そのほかの霊的―精神的鍛錬のビジネス・企業利用とパラレルである。

東西の歴史的な隠者に見られる、孤独と沈黙の純正の源泉に代わるものはない。非自発的な孤独からは、狂った社会へのリハビリまたは和解以外の移行はありえない。本来の悪意を欠き、本来の意志の喪失なく、真の孤独者は社会の装置を迂回し、自社会的商業的商品と約束から派生した屈折した技術に替えられない自己規律へと到達することができる。

(訳文ここまで)

自発的孤独と非自発的孤独

自ら孤独を選ぶ人

ちょっと難解な内容でした。メン・フーが言っているのは、非自発的孤独と自発的孤独を一緒にするなってことです。

社会は孤独者を量産します。それは管理の上で都合がいいからです。人々が協力して団結することは、必然的に階級秩序の不安定化を導きます。だから分断統治しなければならない。文明と技術が発達するにつれ管理は効率化し、生産階級はバラバラに分断されていく。

社会は、「非自発的」孤独者を量産する一方で、重度の孤独者を治療・支援しようとします。矛盾するようですが、孤独は「悪い状態」「病んだ状態」と見なさなければならない。社会の中心に憧れをもたない人間など「存在してはならない」からです。孤独者は、「普通の人々」と同じように社会参画や消費の喜びを模倣するよう強いられる。それが困難であれば、薬物治療によってメインストリームの生き方を受容できるよう改造する。

私がメン・フーの記述で気に入ったのは、「社会にとって自発的に孤独を選ぶ者は存在してはならない、存在すべきではない」という点です。社会にとって孤独者はすべて「いやいやながら孤独である」存在でなければならない。自ら平静な生活を送るために孤独となった者は存在してはならないのです。

この点はテレビの引きこもり特集や引きこもりに関する本を見ればわかります。彼らは「社会の落伍者」「無能力者」「異常者や病者」として扱われ、自らの意志にしたがってライフスタイルを選びとった人物とは描かれません(もっとも、彼らの大部分は非自発的な孤独者でしょうが)。彼らは矯正されるべき、治療されるべきある者以上の存在ではない。

孤独は反社会的、あるいは非社会的です。社会を拒絶して無視する、あるいは社会の価値観を批判・否定して自らの意志と判断によって生きるのは、必然的に反社会的となる。したがって、社会は自発的孤独者の存在を隠蔽・抹殺しようとします。ウーによれば、そのことは中世から変わらないようです。

また、この数年で主流メディアによって「孤独」や「沈黙」が着目されており、再評価されているのですが、それは企業や組織がライバルとの競争力をつけるために過ぎず、本来的な意味をもっていないことも指摘されています。この点は私も同感です。

しかしながら、自発的孤独と非自発的な孤独は、そこまで区別できるわけでもないという気もします。メン・フー氏は鴨長明が好きみたいですが、彼も神職を志して失敗したから引きこもったのであり、その背景には末法思想や混乱した世の中といったさまざまな要因が関わっているでしょう。エピクロスが「隠れて生き」たのも、動乱の時代が背景にあります。私自身、自分が孤独を求めるのは自発的なのか非自発的なのか、よくわかりません。現代日本のような抑圧的な環境にいなければ普通の生活を送ったかもしれません。

メン・フーの考え方については、共感できないところもあります。クリストファー・ナイトを隠者と認めなかったり、個人主義アナーキズムに否定的だったり、日本の引きこもりを自発的孤独者と考えがちなど。ともあれHermitary.comは非常におもしろいサイトなのでよいものがあったらまた紹介します。

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