2019-09-30

私は産業社会を監獄と見ている。

フラワー・ボムの「Prison Break:An Anarchist Blueprint for Hedonism」を訳しました。なお、引用部は省略しています。

The Prisoner by Joseph Wright

脱獄:快楽主義のためのアナーキストの青写真

(引用部略)

私の見解では、産業社会とは多元的な監獄施設であり、なかの人々を生産的アウトプットの価値に応じて階層化している。この刑務所の再生産および維持に貢献する者は、社会的認知と生存資源へのより大きなアクセスによって報酬を受ける。そしてそれに対してもっとも貢献しない者は嘲笑され、恥をかき、死ぬまで捨て置かれる。大衆参加によってつくられた全面的集団主義は、この二元的な生き方を標準化し、同化をうながし、不服従を抑制する社会的抑圧を生みだす。産業社会は、それが機能するために、劣等感の学習を通じて賃金奴隷化を標準化する。人々がこの劣等感を内部化して育つにつれ、彼らは産業社会に依存的となり、その秩序の象徴的代理者となる。人々が自らの個人性が弱く無力であると受け入れるにつれ、社会的監獄は集団権力と帰属意識を満たしてゆく。

私は産業社会を監獄と見ている。なぜならすべての監獄と同じく、その役割は閉じ込めることで服従させることにあるからだ。しかしこの監獄の構築には、個々人が法と秩序の集団主義的ビジョンに屈服することだけではなく、隔絶に対して統一的に受容することにもある。すなわち、ある者の自然からの疎外は、秩序、予測可能性、構造のもたらす安全の感覚によって癒やされる恐怖を生みだす。この観点からいえば、産業化とは、文明的監禁の壁を超え出てしまう自らの野生的潜在力への恐怖の結果と見ることもできるだろう。

個人的なレベルでは、野性的不服従の思想犯罪は、何年にもおよぶ行動文明化(たとえば教育産業複合体や、それらによる子どもを文明社会へ吸収する上での深刻なトラウマ的過程)による条件付けによって抑制されている。

大衆社会においては、個人の自我はユニークとなることをやめてしまう。それは自我が管理され、単一化され、社会成員の集団主義的メンタリティーによって同化吸収されるためである。

個人の肉体は、産業社会への物質的貢献に基づき評価される、単なる生産ユニットのひとつとなる。

個人性は社会によって再定義され、より広い集団主義的システムの内部にカテゴリー的に位置づける社会構造によって抑圧される。

これら社会的に構造化されたアイデンティティは、階級、人種、ジェンダーの固定化されたアイデンティティ・カテゴリーとしての自我を代理するものとなる。

文明化過程のこの段階で、個人性はアイデンティティと代替可能となり、ユニークな動物的存在としてのすべての色彩と自由を失うことになる。

社会的監獄においては、個人的動物は集合的な「市民」として知られる囚人へと変貌させられる。そしてすべて市民は監獄社会の成員としてその再生産と維持のために精神と肉体を貢献させる義務をもつ。道徳、標準化された行動規範、文化、伝統を通じて、個人レベルでそれは再生産される。この義務を拒絶する(あるいはなんらかの理由によってそれを果たすことができない)者は、貧困の罰を宣告される。

(引用部略)

パブリック・エネミー#1:ライフスタイル・アナーキスト

(引用部略)

左翼主義者からしばしば耳にするが、彼らは「ライフスタイリスト」という言葉を、アナーキーの望ましくない形態として説明するために使うようである。最初にポスト・レフト・アナーキズムの著作を読んだとき、私はカテゴリー的定義を越えた自己探求の勇気ある冒険に鼓舞されたものだった。私はアナーキーを生活Life――文明化された家畜化の社会的諸力に対するニヒリズムと野性――として受け入れた人々の著作を楽しんだ。だから、アナーキストであると自己認識する人々が、彼らのように思考し行動することを批判すること――「ライフスタイル・アナーキスト」を侮辱として使うまでに――は奇妙な印象を受けた。だから私はそれらの個々人に問おう:社会的アナーキズムと賃金奴隷制の職場の単調さ、いったいどこに違いがあるというのか? 毎年毎年、アナーキスト・ホリデー、騒がしいデモ、ポットラック(訳注:ありあわせの食べ物を持ち寄る集い)、コミューンの集会といったものがある――それらすべては今日まで、「大衆」をサステイナブルな蜂起に一切近づけることはなかった。ある意味で職場賃金奴隷制はあらゆる過激派組織よりも「大衆」に大きな影響を与えてきた:職場賃金奴隷制は資本主義を全世界にまで広げるが、過激派組織は、その最大においても、最終的には国家によって管理され抑圧される反逆の小さな波をただもたらすだけである。では個人はこのすべてのどこに適合するというのか? そこには個人を変化させようとする2つの反対する方向を引きつなぐものがあるのか。

私は賃金奴隷制と過激組織化のふたつの経験がある。そして両方ともが同じ結論に終わった。すなわち「不満足」。どちらの選択においても、その機能を維持するために私の精神と肉体を放棄させることを要求し、そのことが不可避的に単調な繰りかえしをもたらした。どちらの選択も循環的な論理を持つ。すなわち参加すること。それがいかに困難であろうと、いつの日かすべてがよくなるという希望によって。だから、私は解放を求める。自己同一化し占有するための社会の他の房を求めるのではなく――死に欲動された賃金奴隷制の監禁からの脱獄、そして過激組織の旗の背後に隠れた精神的労働主義からの脱獄。

では、もし精神を賃金奴隷で占めることなく、過激組織化に燃え尽きることもないとしたら、彼はどうすればよいのか? もし社会、すなわち監獄がこのふたつの人生選択を含包するものであるならば、それは批判に値しないだろうか?

監獄は外的・内的に具体化することができる。もっとも成功した外的監獄は、その持つ捕虜に反映される。これら捕虜は、「市民」の集合的アイデンティティの内部化によって監獄を再強化する。私たちが産業的監禁の壁をのりこえて放浪し、舞踏し、探検する自由な個人ではないとき、私たちはいったい何者なのか? 社会保障番号と生年月日によって同定される社会の囚人である。私たちを家畜化し、制度に組み込もうとする監禁の壁に私たちは課せられており、その代償として、生まれたときに混沌が私たちを生へと結びつけていたところの虚空を埋めるために、物質主義を提供される。

自らの社会への奴隷化を完全に理解した者は、私たちが所有すると主張しているこの人生が、最終的にそれをもっとも利用する者に属するという論理的帰結に至る。このことが、個人的に私が労働を憎悪する、そして労働者のアイデンティティを美化するイデオロギーになんら親しみを持てない理由である。「フルタイム」雇用が意味するのは、精神を麻痺させる物質主義、あるいは生存の必需品への金銭的アクセスと引き換えに、平均して週に40時間、個人の精神と肉体をだれかの所有物とさせることにある。個人の労働が実際に生みだした製品価値の、ほんの一部と交換される賃金奴隷状態について詳細に語ることはしない。ただ、個人の人生の何時間かが永遠に失われてしまうことについて私たちは語っているのである。監獄と同様、社会は最小限の賃金で囚人市民の奴隷状態を購入することにより、彼らを所有している。監獄のように、社会は、法と秩序の規範のために生活を放棄する集団的服従者の大規模労働力により機能し繁栄している。

しかし、参加を拒絶する個人主義者はどうだろうか? 拒絶するだけではなく、おそらくサボタージュ(妨害行為)もする者。

私の観点からいえば、ライフスタイリストは「大衆」を待つより、いま反逆することを好む――快楽主義的冒険のための、生の、資源の、時間の収奪。そしてライフスタイリストはアナーキーの専属ではない。社会に支配されているあらゆる個々人はだれでも個人主義的不服従が可能である。食料品店があり、採集することのできる野生の食品があり、地球・動物解放活動家の黒装束を隠蔽する月と星がある。破壊すべき伐採機器があり、粉砕されるべき店先がある。悲劇の支配に対立して自らの生を楽しむことを決心した人々のあいだで、地球全体で共有される野生の反逆のうなり声がある。

人々が私にまず聞くのは「どうやって生計を立てているか?」だ。ここで私の答えには、私の生活を経済的に支えるなんらかの賃金奴隷の形態を含むことが前提されている。私が活動家だったとき、それでいくら稼いでいるのかと人々は聞いたものだった。そのたびに私は笑った。しかし私には信じがたいことだが、活動は資本主義において利益をあげうることに気づきはじめた。私は無料の小稿を出版して、すべての投稿を「アナーキスト・ライブラリー」(そして私の散漫さに堪えられる人・ものであればなんでも)に寄稿している。しかし、ある人々は大学で授業や講義をして金を稼いでいる。私はむしろ非合法に金を稼ぐことを好む――反乱をこれ以上商品化することによってではなく。だから、私が生計についてどうしているかの答えはふつう「アナーキー」である。私はこのように生活して生き抜く、賃金奴隷制と過激組織化に戻ることを顧みることなく、最大限自由に。

(引用部略)

特権的か、単に決意したのか

だんだん聞くのがうんざりしてきているアナーキーとしての生活のもうひとつの批判は、トレイン・ホッピング(列車の外に乗って移動すること)、非合法的に食料と資源を奪取することや、他の個人主義的反逆形態もまた「労働者階級」を弱めてしまう「白い」活動だという神話である。この批判は、しばしば「労働者階級」と有色人種が個人レベルでの自由を実現することの不可能な一枚岩な大衆であるという、アイデンティティ的な仮定に由来している。左翼主義者は、過激な指導者による厳格な教育を通じて、人々、特に有色人種を革命に導く必要があると信じさせる。この考え方は、恩着せがましいだけではなく、かなりの部分、すべての有色人種と労働者が同じように考え、政治的関心を共有するという前提に依拠している。おそらくはこのことが、毎年過激組織化と「革命」のプロパガンダが行われるにもかかわらず、資本主義が依然として強力な労働力を持ち、その悪夢的な産業技術複合体を拡大させている理由だろう。

だから個人主義者たちは労働者を無視しているとする人々に私は問おう:あなた方は違う結果を期待しながら同じ条件のもと同じことをすることに、どれほどの時間、金、エネルギーを無駄にしてきたのか? あなた方は、ライフスタイリストが賃金奴隷制や組織化の消耗的繰り返しのために生活を犠牲にすることへの拒絶を、ほんとうに非難するというのか? アナーキーが他者を教育し組織する義務によって定義され制限されるのであれば、それはすでに家畜化されている。ただ「白人」のみが個人主義的エンパワーメントに基づく活動を創造することができるという十把一絡げな想定は、人種差別とはみなされないのか?

私はかつて、ライフスタイル・アナーキストは特権的だと言うのを聞いたことがある。そのことについてしばらく考えた。自分の人生を取り戻すために勇気あるイニシアチヴをとることがどうして特権的なのか理解しようとした。そのような批判は、内在化された敗北からきていると感じずにはいられなかった; 個人的自由を獲得困難な贅沢だと受け止めるしかないほど強力な敗北。人種やジェンダーのようなアイデンティティの監獄と同様に、このような精神性は、自らが永遠に力なき社会の被害者であるという見方をもたらす。自己を自由の究極的な創造者と見るのではなく、自らを精神的監獄の文脈に関してから見るのである。

長年私はアナーキズムが被害者意識の内在化と栄光化のプラットフォームになっているのを見てきた。私はこのことを前の執筆で批判したのだが、ここにある関連性は、以下のアナーキズムにおけるほのかなメッセージである。「もし被害者でなければ、その者は特権を得ているのだ。そしてもし特権を受けているのであれば、自らの人生をよりよくすることに罪悪感を抱かなければならない。私たちが苦しむのであれば、あなたも苦しまなければならない」。この種のほのかなメッセージは過激派のあいだで広まっているものであり、個人主義者の思想を「特権的」とラベルすることと、内在化された道徳の監獄に挑戦するあらゆる思想の放棄を促すことに責任があると私は考えている。

私にとって、野生性としてのアナーキーは決して爆発することをやめない爆弾である。産業社会と組織的なコンフォーミティの基盤に一撃を与えるのは、耐性のある雑草である。アナーキーは公的組織構造への憎悪である。それは勇敢さのヘドニズム、明日を期待せず今日反逆する統治されざる個人にあらわれる。社会によって課せられる定義、役割、制限を拒絶する者をあらわす社会的構造――人種、ジェンダー、他なんであれ――は存在しない。野生の個人主義は社会にとっては狂気の敵戦闘員であり、精神的従属の社会契約に火をつける者である。この社会監獄内において、人種、ジェンダー、その他社会構造的アイデンティティは、肉体に烙印を押された数字のように、権威主義的ヴィジョンにそって人々を集団化するものである。個人のユニークさを制限する内在化された監獄をアイデンティティ・ポリティクスは再強化し、その肉体と精神が他者の警察となるよう計画する。

もし個人の自由が、個人の集団へのコミットメントによってのみ定義されるのであれば、なぜその集団が国家よりも非統治的であるというのか? アナーキストの政府批判が自由を与えないからというものであれば、なぜアイデンティティーやコミューン、または社会の統治を受け入れるのか?

(引用部略)

脱獄

もし人々が反逆的方法によって蜂起する可能性がほんとうにあるのであれば、それは賃金奴隷であることが、私たちが「社会」と呼ぶところの監獄の壁を究極的に再強化することになるという個人の自覚からもたらされる可能性がもっとも高いだろう。そして個人が自らを劣った市民成員であると自己同一化することを続ける限り、服従は内的、外的に規範化されるだろう。

もし小綺麗に整えられた食料品店の通路が、この拡大しつづける監獄の壁にレンガを加えるという彼らの役割に疑問をもたらすのに十分ではないのであれば、「The Invisible Committee」のようなベストセラーな暴動集団はいったい何ができるというのか? 反社会的で個人的な生き方としてのアナーキーは薄められ、文明秩序への敵意を失うことなく「大衆」に説教することはできない。資本主義のもとでは、社会運動としてのアナーキズムは、賃金奴隷制と共存する趣味活動にまで集団化されてしまった。新人が加入して組織の仕事を始めると、次の大統領の任期のうちには燃え尽きて辞めてしまう結果になる。そして新しい刑務所長のように、新しい大統領が引き継いで支配する。

冬が近づくにつれ、私はかつての夏の楽しい活動を思いだす。私はそれぞれの季節にさまざまな機会があることを知っている。私がどこに旅行しようとも、私が行き着いたところには資本主義が取り囲むことを知っている。脱獄すべき多くの監獄があるのであり、この再野生化の間には多くの楽しむべき決裂がある。

この短いエッセイ快楽主義の青写真となることを意図している。もし私の運が良ければ、犯罪を、トレイン・ホップを、ゴミ箱あさりを、万引をして、なおかつそれをしたことを喜ばしく感じるように人々に奨励できるだろう。ある個人が自らの自由を創造し、他者にもその自由創造を触発するというときに、だれが運動家やアカデミックな先駆者を必要とするだろうか? 社会的監獄から逃げだしたほかの遊牧民的反逆者たちの冒険に触発されて私は受刑者でいつづけることを拒絶した。産業社会を保護する賃金奴隷制よりも、私は野生の冒険――それはよいときもあれば、悪いときある――を好む。

学校を中退し、ピッキング・セットとバックパックだけで人生に直面する人々に愛と支援を。収容所の監獄と「更生」施設のなかで反逆する者に愛と支援を。自らの生活を武器とし、投獄よりも死を選び、自らの墓に反逆する人々に愛と支援を。もっとも野性的な夢の実現したアナーキーに愉悦を見つけたライフスタイリストの元労働者に遠吠えを。

終わりに

まず、ライフスタイル・アナーキズムとは? という点について。

これは政治哲学者マレー・ブックチンの1995年のエッセイ「Social Anarchism or Lifestyle Anarchism: An Unbridgeable Chasm」からとられたものでしょう。文中でも描かれていますが、未来的・理論的・集団主義的な社会アナーキズムと対立する、即時的・実践的・個人主義的なアナーキズムです。特徴的なのは「労働者」や「大衆」の「階級闘争」に与しません。アナルコ・プリミティヴィズム、ポスト構造主義アナーキズム、個人主義やエゴイストと親和性がある。「アナーキストの銀行家」もこれに近いかもしれません。

フラワー・ボム氏の著述については前にも「Anarchy: The Life and Joy of Insubordination」を翻訳しました。彼は33歳で賃金労働をやめて、あとは「アナーキー」で食っている人です。おそらく、彼は文中にあげられているような犯罪行為で生計を立てているのでしょう。「ゲリラ農園」とか「ゴミ漁りDumpster Diving」とか楽しそうですね。前にゴミ漁りの動画を見たことありますが(一例)、宝探しみたいで楽しそうなんですよね。

フラワー・ボム氏の思想のひとつに犯罪主義があります。自らを解放する行為として犯罪を喜んで行うことを提唱しています。これは過激なように思われますが、もともと私たちは社会という監獄に生まれたときから閉じ込められているわけで、そこから自らを解放する試み:脱獄は必然的に犯罪的となるしかありません。

ともあれ私も社会を監獄であると認識するひとりであり、彼の記述には共感を覚えながら訳しました。

監獄の生活に順応するか、脱獄するかは人それぞれでしょう。私は犯罪・非犯罪あらゆる手段を検討しながら脱獄のチャンスを伺っています。これは難解な問題を解くのと似ていて、とてもおもしろいのです。彼が「快楽主義」と表現するのもわかります。反逆には喜びがある。

そして「自分は虐げられる弱者なのだ」という敗北主義は、実につまらない生き方に思えます。

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