2019-06-10

アナーキズムは誇張された、狂った理想主義である。

ジョルジュ・パラントという個人主義哲学者の論文「Anarchism and Individualism(1909年)」を訳しました。

個人主義とアナーキズムは親和性が高いですが、パラントはアナーキズムを「楽観主義」と批判し、社会的ペシミズムに基づく個人主義こそ正しいと考えました。

彼はなぜアナーキズムを否定したのでしょうか? 彼の思想を見ていきましょう。

by
by John Ruskin

アナーキズムと個人主義

Source: La Sensibilité individualiste. Paris, Alcan, 1909;
Translated: by Mitchell Abidor for marxists.org;
CopyLeftCreative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2006.

原文がかなり難解だったため、誤訳前提で読んでください。また、一部省略している部分があります。

アナーキズムと個人主義という言葉はしばしば同義語として扱われる。大きく相反する多くの思想家たちが、アナーキストであるとか個人主義者であるというように不注意に分類されている。すなわち私たちはシュティルナー主義的アナーキズムや個人主義、ニーチェ主義的アナーキズムや個人主義、バレス主義的アナーキズムや個人主義などと分類する。他の場合、この二つの言葉は可能な限り無視される。私たちはしばしばプルードン主義アナーキズム、マルクス主義アナーキズム、アナーキスト・サンディカリズムなどと言う。しかし私たちはプルードン主義個人主義、マルクス主義個人主義、サンディカリスト個人主義などと言うことはできない。キリスト教アナーキズム、トルストイ主義アナーキズムと呼ぶことはできるが、キリスト教個人主義、トルストイ主義個人主義と呼ぶことはできない。

他の場合では、このふたつの言葉はひとつの名前にまとめ合わされる。つまり個人主義的アナーキズム。この表題のもと、M. Haschはアナーキズムと差別化する社会哲学を示し、ゲーテ、バイロン、フンボルト、シュライアマハー、カーライル、エマーソン、キルケゴール、ルナン、イプセン、シュティルナーやニーチェといった偉大な代表者をあげている。この哲学は偉大な人間のカルトや天才の崇拝として要約することができる。個人主義的アナーキズムという表現がそのような教義を指すのかどうかは議論の余地があるだろう。語源的な意味ではゲーテやカーライル、ニーチェといった思想家にアナーキストの資格を与えることは困難である。彼らの哲学は、階級的組織と一連の価値観の調和的配置に占められているようである。さらには、個人主義者という俗称は上にあげたすべての思想家に等しく当てはめることはできない。もしシュティルナーのエゴイスト、ニヒリスト、反理想主義的反乱をそれが指すのであれば、カーライルの、明白に個人を理想のために服従させるヘーゲル主義的、楽観的理想主義哲学にあてはめることは困難だろう。

したがって、そこにはアナーキズムと個人主義というふたつの言葉の使用、またその言葉の示す理念と情念の体系において、一定の混乱がある。私たちはここで、個人主義の概念を明確にする試みと、アナーキズムと区別することによって、その心理学的、社会学的内容を判別しようと思う……。

個人主義は、個人と社会のあいだにおける深く還元不可能な二律背反(アンチノミー)の情念である。個人主義者とは、その気質によって、自らの近接的存在と社会的環境との間における避けがたい不調和を特に鋭敏に感じる素因を持つ人々のことである。同時に、彼は人生の不調和に気づく決定的な機会を得た人々でもある。暴力を通じてにせよ、経験的持続を通じてにせよ、彼にとって社会は個人に対して制限、屈辱、悲惨といった一種の人間の持続的な苦痛の永続的創造者であることが明白となっている。自らの経験、個人的人生の感覚に基づいて個人主義者は個人と社会の間に望むべき調和が確立されるところの未来社会の理想をユートピアとして格付ける権利があると感じている。それは悪を消滅させる社会の発展とは程遠く、専制的な社会メカニズムの千の歯車の中心において、個人の生活をさらに複雑に、苦しみ多く、困難にすることによって悪を増長させるものである。科学それ自体は、社会によって彼のために作られた生存条件の意識を個人の内部で激化することによって、彼の知性と道徳的地平を暗くする結果しかもたらさない。Qui auget scientiam augel et dolorem.(ラテン語:知恵高ずれば苦難増える)

私たちは個人主義は本質的に社会的ペシミズム(悲観主義)であると考える。そのもっともおだやかな形では、もし社会的生が絶対悪ではなく、個人性の絶対的破壊ではない場合、個人主義者にとって社会は少なくとも制限的で抑圧的な条件であり、必要悪であり苦渋の選択である。

この説明に反応するところの個人主義者は、反逆的、撤退的、絶望的な言葉が、未来への楽しみという楽観的社会学者とは正反対であるところの悪意ある小集団を形成する。それはヴィニーが言うように、「社会的秩序は常に悪である。ときにはそれは耐えられることもある。悪と受忍性との間で、紛争は血の一滴にも値しない」。ショーペンハウアーは、社会的生は人間の苦痛と邪悪の至高の開花であると考えた。シュティルナーは、すべて組織化された社会が個人を脅かすところの、社会的理想主義の尊重や、知的道徳的結晶化の欺瞞から自らを守るために、知的道徳的な唯我論を用いた。(……)

個人主義は、私たちが生きることを強制されているところの組織社会、均質化されたルール、単調な繰り返し、奴隷化するような制限に対して、敵意と不信から無関心と軽蔑までの感覚的態度である。社会から逃れ、自分自身に閉じこもろうとする願望である。何よりも、それは社会的影響に対して抑圧されざる、侵入されざる「私the I」の、「「私」の唯一性」の深い感情である。それはM. Tardeが言うように「ただ一度しかない、即座の、存在、至高、感情の様式である、深く儚い個人の単一性」である。

この態度がいかにアナーキズムと異なるかをこれ以上説明する必要があるだろうか? ある意味でアナーキズムが個人主義から始まることは疑いようがない。それは実のところ、既存の秩序によって抑圧されている、不利に感じている少数派の反社会的反逆である。しかしアナーキズムは個人主義の最初の時点、行動の勇気と成功の革新という希望と信仰の時点を示しているに過ぎない。その第二の瞬間に個人主義は私たちが見てきたように社会的ペシミズムに移行する。

確信から絶望へ、楽観主義から悲観主義への移行は、大部分、心理学的気質の問題である。そこには社会的現実と、それによる即座の幻滅によって容易に傷つきうる繊細な魂がある。ヴィニーやハイネはその例である。私たちはそのような魂を「鋭敏sensitive」と呼ばれる心理学的類型に当てはめることができる。彼らは社会決定論が個人を抑圧する限りにおいて、苦痛をもたらし抑圧的であると考える。しかし、多数の失敗に抵抗し、彼らのもっとも過酷な経験に対してでさえ、信仰において微動だにしない他の精神がある。それらの精神は「活発active」なタイプに属する。これはアナーキストの使徒の魂である。すなわち、バクーニン、クロポトキン、ルクリュ。おそらく理想に対する彼らの揺るがぬ確信は、知性と感情的視力の欠如によるものだろう。疑念と落胆の理由となるものは、彼らを個人主義の最終的かつ論理的な段階であるところの社会的ペシミズムへと導くほど強力なショックを与えない。

いずれにせよ、アナーキスト哲学の楽観主義について疑いの余地はない。その楽観主義は、盲目なプロパガンダ者の読み物を形成する血塗られた版によって、しばしば単純化され素朴に広まっている。楽観主義的なルソーの影はそのすべての文献の上に浮かんでいる。

アナーキストの楽観主義は、社会的不調和、すなわち現況の問題が個人と社会との間にあるという二律背反を、本質的なものではなく、むしろ偶然的で一時的なものであるとする。つまり、彼らはいつの日かそれを解決し、調和の時代へと道を拓くだろう。

アナーキズムは相互を補うように見えながら実際には矛盾するふたつの原則に基づいている。一つはヴィルヘルム・フォン・フンボルトが発案し、J. S. ミルによって「自由論」の碑文とされた「偉大な指導原理は、人間がそのもっとも豊かな多様性において発展することが、絶対的にまた本質的に重要である、ということである」。もう一つは共産主義アナーキズムによって経済的に翻訳されたところの人道主義と利他主義の原則である。個人主義と人道主義原則が相反することは論理と事実によって証明されている。個人主義原則は個人によって異なり、等しくないことを望む要求であり、自らを異なる存在とし、隔離し、反対するような特徴を好むことであり、そうでなければ何をも意味しない。対照的に、人道主義は人道における同化を目指している。M. Gideの表現に従えば、その理想は「私たちのような」という表現を現実化することにある。実に、現代において私たちはアナーキズム理論家のもっとも深い洞察のなかで、二つの原則の対立を見ている。そしてその論理的かつ不可欠な対立は、政治的社会的教義としてのアナーキズムを崩壊させないことはありえない。

個人主義と人道主義の原則を両立させようとする者がどのような事実や困難に直面するとしても、これらふたつの敵対する原則は少なくともひとつの点で一致する。そのいずれも明白に楽観主義であるということだ。フンボルトの原則は暗に人間の本質の善性とその自由な開花を肯定する限りで楽観的である。それは私たちの自然本能へのキリスト教的批判に対して対立するのであり、自由論の訳者であるM. デュポン-ホワイトがスピリチュアリスト、キリスト教者としてもっていた見解(肉の批判)から持っていた留保から理解することができる。

人道主義原則は楽観主義である。人道主義は、実のところ、その一般性、人道性によって人間を神にすること、したがって人間社会を神にすることにほかならない。私たちが見ているように、アナーキズムは個人主義に関して楽観的だが、社会に関しても同様なのである。個人的自由は、自ずからアナーキストの理想である自由社会と自然に調和して自発的に実現するとアナーキズムは考える。

この二つの相反する立場であるキリスト者とアナーキストに関して、個人主義の立場とはなんだろうか? 個人主義、現実主義の哲学は、すべての生きられた人生と直感によって、これらふたつの形而上学を等しく否認する。ひとつに、キリスト教形而上学は、ア・プリオリに原罪を認めるが、他方合理主義者やルソー主義的形而上学は私たちの自然の本質的善性をア・プリオリに認めることにほかならない。個人主義は事実を重んじる。個人主義は人間が互いに闘争して生きてきたこと、人間社会において、個人の集団は互いに闘争してきた存在として見ることを可能とする。まさに彼の存在条件その事実によって人間は闘争の法則の対象となる。その法則は、彼自身の本能による内的闘争であり、彼と似た存在との外的闘争である。もしエゴイズムの永続的で普遍的な性質を認識し、人間存在における闘争が悲観的であることを意味するのであれば、私たちは個人主義は悲観的であると言わなくてはならない。しかし私たちはただちに個人主義のペシミズム、事実のペシミズム、経験的ペシミズム、あるいはア・ポステリオリのペシミズムは、ドグマ的でア・プリオリに宣告する、人間の本質を批判するような理論的ペシミズムとはまったく異なると主張する。さらに、個人主義は自らをアナーキズムと完全に一線を画す。もしアナーキズムとともに、フンボルトの原則を人間本能の自然な開花のために普遍的傾向の表出として認めるならば、同時にそれは私たちの本質の内的外的な不調和によって永遠に満足されないものとして非難されることを認識する。言い換えれば、それは個人と社会の調和的発展をユートピアとしてみなすことである。個人主義は個人に関して悲観的だが、社会に対してはそれ以上悲観的である。人間はその本能により、内的闘争のために本質的に不調和である。しかしこの不調和は社会状態における苦しみのパラドックス、本能への抑圧を通じてさらに悪化する。実のところ、個人の生の意志の関係改善は、集団の生の意志を形成し、それはすぐさま個人の生の意志を抑圧し、そのすべての力で個人的生の繁栄に反対するものとなる。社会状態はしたがって私たちの本質に対して究極の不調和を押し付けるものである。社会状態は自らを誇張し、個人をもっとも暗い光の中に置く。ショーペンハウアーの思想に従えば、社会は真の意味で人間の生への意志を最高の度合いで示している。すなわち、闘争、充実感の欠如、そして苦悩。

アナーキズムと個人主義の対立点は他にも及ぶ。アナーキズムは進歩を信じる。個人主義は私たちが非歴史的と呼ぶところの思想態度である。それは実現や進歩を否定する。それは人間の生への意志を永遠の現在として見る。シュティルナーには数多くの類似点があるのだが、ショーペンハウアーのように彼も非歴史的な精神である。シュティルナーもまた、明日になにか新しいもの、偉大なものを期待することはキメラ的であると考える。すべての社会形態は、まさにその結晶化という事実によって個人を押しつぶすものである。シュティルナーにとって、ユートピア的な明日も、「終末の日の楽園」も存在しない。ただあるのはエゴイストの今日だけである。社会に対するシュティルナーの態度はショーペンハウアーの自然と生に対する態度と同じである。ショーペンハウアーにとって生の否定は形而上的なもの、私たちが言うところのスピリチュアルなものにとどまる(私たちはショーペンハウアーが物質的具体的な否定である自殺を批判したことを留意すべきである)。同じようにシュティルナーの社会への反逆は、完全に精神的で内的な反逆であり、すべて内的な意志である。それはバクーニンのように普遍的な破壊pan-destructionへの訴えではない。社会に関しては、シュティルナーの反逆は不信と受動的敵意のシンプルな行動であり、無関心と軽蔑的な諦めの混合である。個人が社会に対して戦うことは問題ではない、社会はつねに強者なのだから。したがって犬のように服従しなければならない。しかしシュティルナーは服従しながらも、慰めの一種として、巨大な知的軽蔑を支持する。これは多かれ少なかれ自然と社会に対するヴィニーの態度である。「怒りの痙攣や天国への非難のない静かな絶望、それは知恵そのものである」そして再び、「静寂は生への最良の批判である」。

アナーキズムは誇張された、狂った理想主義である。個人主義はショーペンハウアーとシュティルナーに共通の特徴、つまり悲哀のリアリズムに要約される。それはドイツの作家が呼ぶところの生と社会の完全な「脱理想化」(Entidealisierung) に到達する。

「理想とはポーンに他ならない」とシュティルナーは言った。この観点からシュティルナーは個人主義のもっとも純性な代表者である。彼の冷たい言葉は、ニーチェの燃えるような輝く言葉とは違った形で魂をつかむ。ニーチェは不遜で、高慢で、暴力的な理想主義者である。優れた人間を彼は理想化する。シュティルナーは生と自然に対するもっとも完全な脱理想化、エクレシアステス以来もっとも過激な幻滅の哲学を代表する。尺度や留保なきペシミスト、個人主義は、絶対的に反社会であり、これは(現代社会との関連における)出来事との関係性に過ぎないアナーキズムとは異なる。アナーキズムは個人と国家の間にある二律背反を認め、それは国家に対する抑制によって解決すると考えるが、個人と社会におけるあらゆる本来的な二律背反について見ることをしない。これはアナーキズムの目からすると社会が自発的に成長する(スペンサー)のに対し、国家は人工的で権威的な組織だからである。個人主義者から見ると社会は専制的であり、国家よりも専制的である。社会は、実のところ、あらゆる種類(意見、しきたり、慣用、慣習、相互監視、多かれ少なかれ他者のスパイ行為、道徳的承認と非承認)の社会的な締め付けの集積物にほかならない。社会はしたがって、国家よりもより深く持続的に個人生活に侵入させる、要求的な、避けがたい、絶え間ない、攻撃的で、非情な、軽薄で強大な専制を構成する。さらには、より近くで見た場合、権力者による専制と多数派の専制は同じ根源から成り立つ。すなわち搾取と特権を確立・維持することを望むカーストや階級の集団的利益である。意見や慣習は、部分的には消えつつある古代のカースト規範の残滓であり、部分的には新しい主要カーストによってもたらされた新規の社会規範の種である。だからこそ、それらの社会的制約と意見や慣習にはある程度の相違しか存在しないのだ。根底ではそれらは同じ目標を持っている。集団に有用な道徳的コンフォーミズムの一定の維持、そして同じ手段によって:独立者と反抗者を悩ませ排除すること。唯一の違いは、制裁(意見や慣習)が行き渡る際においてより偽善的であるということだ。プルードンが国家は社会の鏡に過ぎないと言ったのは正しい。国家が専制的なのは社会が専制的だからに過ぎない。トルストイによれば、政府は他者を搾取し、邪悪な者や詐欺師を支持する人間の集まりである。もしこれが国家の通例であるならば社会もまたそうなのである。社会と国家:ふたつの言葉の間にはコンフォーミティがある。一方は他方と同じである。個人にとって、卑劣な精神、あるいは社会の精神は、それによって自らを維持する国家主義者や司祭の精神よりも抑圧的ではないということはないのである。

不思議なものだ! シュティルナーは、社会と国家に関してスペンサーとバクーニンと同じ誤りを共有しているようだ。彼は個人の行動に対する国家の介入に対して反対するが、社会のそれには反対しない。……(省略:シュティルナーの「エゴイストの連合」egoist associationへの批判が続く)

それがあったとしても無駄な区別だ! 社会と連合の境界をどこにおけばいいというのか? シュティルナー自身が認めたように、連合は社会に結晶化するのではないか?

しかし私たちがアプローチするとき、アナーキズムは二律背反する言葉、社会的自由と個人的自由を両立させることはできない。それはひとつの木でつくられた鋼、端のない棒である。アナーキストについてニーチェは書く。「私たちはすでにすべての壁とすべてのテーブルに書かれた彼らの未来についての言葉を読むことができる。即ち、自由社会。自由社会? たしかにそう書かれている。しかし私は君たちが知っていると思うが、親愛なる君たちよ、私たちはそれによって何を構築するのか:鉄製の木によって……」。個人主義はアナーキズムより明白で正直である。個人主義は国家、社会、連合を同じ地平に置く。個人主義はそれが可能な限り、いずれもを拒絶し、外においやる。「すべての連合には修道院の欠点がある」とヴィニーは言った。

反社会的である個人主義は公然とした反道徳主義である。このことは絶対的に真というわけではない。ヴィニーの悲観的個人主義は、厳格で純粋、道徳的で高慢なストイシズムと調和的である。それでもヴィニーには反道徳的要素が残っている。すなわち社会を脱理想化し、社会と道徳という2つの言葉を隔絶し反対し、社会を臆病、非知性、偽善の致命的発生源であるとみなす傾向。「 Cinq mars, Stello, and Servitude et Grandeur militairesは脱幻想の一種の抒情詩の歌である。しかし、私が破壊しようとするのは社会的で誤ったものだけであり、私が踏みにじるのは幻想である。私はそれらの廃墟、灰燼の上に、狂熱、愛、そして名誉の神聖な美をかかげる」。無論シュティルナーやスタンダールの個人主義が、疑いや留保なく反道徳主義者であることは言うまでもない。アナーキズムには粗末な道徳主義が含まれている。アナーキズムの道徳は、義務や制裁がないとしても、道徳以外ではない。悲観主義の要素を除けば、その中心にあるのはキリスト教道徳である。アナーキストはこれら調和に不可欠な美徳が自ら繁栄すると考える。強制の敵、……。しかしアナーキストは、未来都市では怠惰は稀となるか存在しないと考える。

楽観的、理想主義的で、人道主義と道徳主義の染み込んだアナーキズムは社会的ドグマティズムである。それはシュティルナーが指すところの「原因cause」である。「原因」と、「個人精神の単純な態度」は別である。原因は理想に対する共通した追従、分有された信仰とその信仰への献身を意味する。これは個人主義ではない。個人主義は反ドグマ的であり、改宗主義ではない。個人主義は喜んでシュティルナーのフレーズをモットーとする。「私は自らを無の上に置いた」。本当の個人主義者は自らの人生と社会への感覚を他者に伝えることを望まない。このことの何が良いのか? Omne individuum inefabile. (すべて個人は筆舌に尽くしがたい)。気質の多様性、単一ルールの無用さに確信を抱き、私はデイヴィッド・ソローとともに喜んで言おう。「私の生活方法を当てはめるような人間は決してだれもいない。私はこの世界には多くの異なる人物がいることを望む。しかし私はそれぞれに注意深く自らの道を見つけ出し、それを追求するよう注意して欲しいと思う。父親や母親や、隣人の道ではなく」。個人主義者は、個人主義に対して反対する気質があることを知っており、個人主義を押し付けることは馬鹿げていることもまた知っている。孤独と独立、瞑想的で純粋な内的生活の円熟を望む思想家の目からは、ヴィニーのように、社会的生活とその扇動は、あらゆる真実と強い感情を排除する、なにか人工的で、不正に操作されたものに見える。そして反対に、その気質からどうしても生活的社会的な行動を必要とする人、混乱に陥った人、政治的社会的な熱狂を持つ人、連盟や集団の理想を信じる人、「理想」や「原因」といった言葉を永遠に口にする人、明日が何か新しく偉大なものがもたらされると信じる人、これらの人々は群衆を前にヴィニーの言う鋤を貶め、必然的に瞑想に対して誤解と軽蔑を持つ。内的生活と社会行動は相互に排他的である。この二種の魂は互いを理解するようにはできていない。アンチテーゼとして、私たちは寡黙で、不信に満ちた、悲しい個人主義のバイブルである「生の知恵についてのアフォリズム(邦訳:「幸福について」)」、あるいはアミールの「ジャーナル・インタイム」を読むべきだろう。またはヴィニーの「Journal d’unPoète」、ルクリュ、クロポトキンを読むと、私たちは二種の魂を分かつ深淵を見ることができる……。


ジョルジュ・パラント(Georges Palante, 1862年11月20日-1925年8月5日)はフランスの思想家。 パ=ド=カレー県ブランジー=レザラスに生まれ、ドウェー大学にて文学士、のちに哲学アグレガシオンを取得。……

徹底した個人主義の哲学で知られ、ニーチェ、フロイト、シュティルナー、ショーペンハウアー、イプセンらから影響をうけている。哲学的、社会学的著書や、雑誌論文(とりわけ、『メルキュール・ド・フランス』誌の哲学時評を長年担当していた)を発表した。……日本では大杉栄、夏目漱石、宮嶋資夫ら、パラントと同時代の思想家、作家に影響をあたえた。(Wikipediaより)

この論文は、個人的にかなり重要であるため、あとで詳細に解説したいと考えています。

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