2019-04-30

アナーキズム思想は少数の個人の財産であった

シドニー・パーカーの「Some Notes on Anarchism and The Proletarian Myth」を訳しました。

個人的には強烈にインパクトのあった文章で、エゴイスト・アナーキズムへの傾倒がさらに強くなりました。

Spiral Theme 1941 Naum Gabo

「アナーキズムとプロレタリアの神話についての覚書」

「アナーキズムの問題は、単一の階級の問題ではなく、結果として労働者階級の問題でもないが、個人的自由を価値付けるすべての個人が関心を抱くものである」John Henry Mackay

「主人は逃亡者をつれもどすために優しさや精一杯の努力を欠いたことは一度もない。今日においてもそうである。一般人、大衆、プロレタリアート、好きなように呼びたまえ、彼らはつねに遵法主義の銃の標準を合わせられている」Paul Herr

長年に渡り、アナーキズムは報道機関と歴史家によって「人民」や「労働者」の救世主的な役割に基づく反政治的国家社会主義の一種と関連付けられてきた。この見解は多くのいわゆるアナーキスト、実際には中央集権を嫌う集団主義者によって支持されてきた。もっともタカ派のポピュリストに対して現実が強制する修正にもかかわらず、幻想はつねにそうであるように残り続けた。

このエッセイの最初の部分はこの幻想に対する批判に捧げられている。なぜ「大衆」は「アナーキスト」のメッセージに対し無反応でありつづけるのか? 少数者にしか魅力ではないのだろうか? そうであるならば、それに応じて目標を調整すべきではないのだろうか?

ポピュリスト神話のもっとも重要な要素は、歴史的革命においては「人民」が全体として立ちあがり、彼らの主人を打倒するという概念である。彼らは本能的に「自由」の側にいると想定される。労働者たちは搾取されており、ボスたちの意志に服従させられているが、そのため彼は「自由」への欲望を持つのだから、他の階級の者よりもアナーキズム思想に反応を持つべきだという想定がある。

この想定を支持するために、プロレタリアの神話信者は、「大衆の直接行動」に関する情報の断片を慎重に集めている。彼らは朝鮮戦争において工場の上に黒旗がたなびいていたことを語り、1953年のベルリン暴動に魅了され、キューバのカストロ政権の最初の一日、パリの1968年のメーデーに熱狂する。パリ・コミューンやメキシコ、ロシア、スペインの革命については言わずもがなである。彼らが詳しく語ることをしないのは、乳を与える支配者を支持するはるかに膨大のプロレタリアである。彼らは刑務所、警察、軍隊といった機関の人員の大部分を占め、「つねに他者の遵法主義の銃の標準を合わせられており」、突出した個人を迫害し、コンフォーミティを叫び求める人々である。

アナーキストが苦しむもっとも厄介な問題の一つは、「労働者」に対する憂鬱な崇拝と、何世代にも渡って進んで主人と牧師の養分となった「普通の現実的な」数多の人々とのこの関連である。プロレタリアの神話主義者は「直接行動」や人民の「創造性」の事例を見つけ出すために好きなだけ遡ることができる。彼らに不可能なことは、それらがいかに一度でも権威主義的なシステムに台頭できたかを示すこと、あるいは彼らの内部に新しい形態の権威の芽をもっていなかったことを示すことである。まさにその圧倒的な歴史的証拠はエリック・ホッファーの「The True Believer(邦訳:大衆運動)」における主張を裏付けている。すなわち大衆は通常「成功した」革命から望むもの――強力な主人――を得ており、(殺されるときに)失望するのはただインテリの先駆者だけだった。そしてそのことはまた、サンディカリスト時代のシモーヌ・ヴェイユの憂鬱な結論を支持している。

「労働者組織はプロレタリアに欠けている力を与えることができるだろうか? 資本主義システムの複雑さ、その結果として生じる賃金闘争に対する疑念は、労働者の階級運動のまさに中心部に、労働の肉体労働と知的労働の劣悪な分業をもたらした。自発的闘争はつねにそれ自体が非効果的であることを証明することとなり、そして組織行動はほとんど自動的に、遅かれ早かれ抑圧的となるところの管理装置を秘匿する。」

2.

それでは私は階級闘争の存在を否定するだろうか? いいや。しかし、階級闘争の現実と理論の間にはかなりの混乱がある。

否定できない存在としてあるのは、国家にせよ「私的」なものにせよ、雇用者と被雇用者の間にある利益相反である。この相反に対する自覚と程度は、「階級闘争」の説教者が他者や自己に信じこませるほどには広くないが、それはたしかに存在し、ときには被雇用者たちの条件の改善をもたらした。賃金支払者が自らの利益を守るように、賃金労働者が利益を守ることは自然なことである。このことは事実であり、否定するのは愚か者だけだろう。

理論については、一方で、この利益相反が最終的に搾取の廃絶や階級なき社会の確立をもたらすという根拠のない信仰に基づいている。その論理的根拠が、階級闘争が共産主義内のすべての対立を解決するというマルクス主義的弁証法的歴史観であるか、自発的革命である「大衆の創造性」というバクーニン主義/クロポトキン主義の信仰であるかは、階級闘争がユートピアへの王道であるという根本的な観念においてほとんど違いはない。しかし、形容によって変更されようと、「科学的」ジャーゴンで装飾しようと、理論は地上にきたるべき「天上の王国」という救世主信仰の世俗化されたバージョンのままである。150年以上にわたり、プロレタリアの理想主義者たちは「労働者」たちにあれこれになること、あれこれをすることを励ました、そして彼らの反応が事実上皆無だった――その呼びかけが戦争となるまでは。今生きている私たちのだれもが思い出すことのできる数年間、アナーキズム思想に対する大多数の労働者の反応は無関心あるいは敵意のどちらかであった。

プロレタリアートの、あるいは革命神話におけるその先駆者たちの革命のなかで、彼らの奴隷根性に終焉をもたらしたものはない。彼らの主張した階級としての「創造性」と「自由への欲望」は、ポピュリズムの戯言であり、大部分は社会的罪の償いを望む、罪悪感をもつ上流階級や中流階級の生みだしたものだった。クロポトキンはその典型的な例であるが、彼は何度も何度も繰り返し「アナーキズムは大衆の「創造」である」としたが、決してその両者の間の因果関係を説明したことはなかった。彼がしたことはそのようなものとして彼が解釈した歴史的偶然を選び、提供したことであり、それらはアナーキズム的というより民主的性格のものである。

3.

今日「アナーキズム」と呼ばれるものに存在する問題は、その説明者が「社会化されたメンタリティ」に支配されている事実にある。ここで私が意味しているのは、個々人の解放は「社会」との統合にあるとする考えへの執着である。この場合の社会は既存の社会ではなく、不確かな未来がもたらすことになっている理想的な無階級/無国家の社会である。

この種の社会化されたメンタリティの際立った特徴は、アナーキズムが反国家主義に等しいとする信念を持つことにある。国家が廃絶されれば人類は自由の住民となる。不幸にも、事実はそうではない。権威は国家以外にもその源を持つからだ。そのなかのひとつが「社会」である。まさに、社会習慣やその他は、それらが法的効力によって規定されていないために、司法による保護手段のある国家法よりもより永続的に抑圧的でありうる。多くの自称アナーキストは国家の抑圧性を認識しているが、社会のそれについては盲目である。彼らの「アナーキー」は、したがって、縦型の国家権威を水平型の社会権威に置き換えることにあるのである。

ひとりのアナーキスト個人主義者として、私は自らにふりかかる国家の管理の正当性も、「アナーキスト」と自らをラベルする頭部欠損の群衆の正当性も認めない。レンツォ・ノヴァトーレが以下のように書くとき、私は彼に同意する。

「アナーキーは社会的形態ではなく、個人化の手法である。制限された自由と良き生以上のものをそれぞれの成員に与える社会はない。しかし私はそれには満足せず、より多くのものが欲しいと思う。私が獲得する力を持っているもののうちすべてを望む。すべての社会は私を許可と禁止の限界に閉じ込めようとする。しかし私はそれらの限界を認めない。力と勇気を持つ者には何をも禁じられておらず、すべてが許されている。

結果として、アナーキーとは新たな窒息する社会の構築ではない。アナーキーはすべての社会――キリスト教的、民主主義的、社会主義的、共産主義的、その他、その他――に対する決定的な戦いである。アナーキズムはごく少数の貴族的なアウトサイダーによる歴史の段階に追随するすべての社会に対する永遠の闘争である。」。

好むと好まざるとにかかわらず、アナーキズム思想はそれを自らの利益としまた推し進めた少数の個人の財産以上のものでは決してなかった。搾取された大衆の革命的美徳への投資、彼らが決して読んだことのない回覧紙における彼らの呼びかけは、しばしば彼らがどのように振る舞うべきかを定める道徳の巧妙な変装であることがしばしばある。それは彼らがどのように行動したか、行動しているか、行動するだろうかを決定する多彩色のマントを投げかける。もちろん、イエス・キリスト、カール・マルクス、ミハイル・バクーニンの再来を救えと……。

アナーキズムを有機的に階級闘争と結びつけて考える者は、現実にはアナーキズムと社会主義の中間に位置する。一方では彼らはアナーキズムの本質であるエゴの至上性を守ろうとする。他方では彼らは民主主義的ー集団主義的―プロレタリア的神話の捕虜であり続けている。社会主義に結び付けられた臍帯を切ることができるまで、彼らは自己を所有する個人として完全な力を享受することは決してないだろう。彼らはレモネードの泉とタバコの木と飴の岩山につながる幻想の道のりに魅了され続けるだろう。

4.

私の望みが何であろうと、私が知る惨めさと階級がどれほど不愉快なものであろうと、私は支配者が被支配者の強力なしに存在できないことを知っており、したがって統治が政府単体の生産物であると想定するのは馬鹿げていることを知っている。多数者の隷属性がなければ、特権的少数者はその権威を失うだろう。私は未来の理想社会の実現を存在意義として依存することがないために、私は自らの思想を検証する上であらゆる階級や集団を顧みる必要がない。

しかし、社会―政治的神話の拒絶は、個人のすべての行動の拒絶と同義ではない。もし大衆が無関心で敵対的であり、もし未来が「1984」と「すばらしい新世界」の恐るべき混交となるよう約束されているならば、それにもかかわらず、人類の不完全性は、最後のロボット化が完了するまでには、社会的構造にギャップと亀裂をもたらすだろう。組織化された集団におけるそのような間隙では、あちらこちらで、自分自身とエスタブリッシュメントの価値観から隔絶されたと感じ、同時に問題解決としての集団主義と権威主義の両方に信仰を失った者たちのための、共感的な環境、収容所におけるオアシス、レジスタンスを創造することが可能である。そのような展開は「階級闘争」の産物ではない。それは何よりも個人主義者の努力の、エゴイストの感性の創造物なのである。

訳者あとがき

「この人は私の言いたいことを言ってくれている!」……と驚くことが、アナーキスト・ライブラリーを読んでいると多いのですが、このエッセイもそのひとつです。

シドニー・パーカー(1929ー2012)はイギリスのエゴイスト個人主義アナーキスト。シュティルナーの大著「唯一者とその所有」のイントロダクションを書いたことでも有名です。

あとは日本では有名ではないと思いますが匿名者の書いた「Might is Right」の序文も書いています。

彼の指摘することにはどれも同意できます。「労働者」や「人民」の多くが反逆ではなく支配を望んでいること。彼らを扇動して革命を起こしても、次にはあらたな権威主義が生まれること。アナーキストの多くは労働者たちの革命の「神話」を抱いているが、そのような「下からの」創造性は現実にはほとんどないこと。

アナーキストの大半は「社会化されたメンタリティ」を持ち、社会主義の臍帯に繋がれている……私も大衆という存在の可能性のなさに気づき始めてきたので、疑念が確信に変わった感があります。

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