個人と社会のあいだの戦争は、その両者が存在する限り続くだろう。

私が知るかぎり、アナーキズムは無政府共産主義が主流です。しかし、個人主義やエゴイズムは人気がありません。これらの思想は明らかに反革命的であるため、無政府共産主義者によってしばしば敵対視されます。

でも、もともと無政府共産主義者だったが、その限界に気づき、個人主義/エゴイズムに移行する人は少なくないのではないかと思います。

そんな人物の一人にシドニー・E・パーカーがいます。彼の記述から、彼がどのようにエゴイスト・アナーキストとなったかを見ていきたいと思います。原文「My anarchism」(1981年)。

Tempest by Tommy Ingberg

「私のアナーキズム」

1947年、17歳のときに私は自分をアナーキストと呼ぶようになった。社会主義運動に3年を費やし、私は自然にアナーキストを共産主義の一形態と考えるようになった。私はニコライ・ブハーリンをバクーニンに、カウツキーをバクーニンに、マルクスをマラテスタに換えたが、道のりが違うにせよ、共有権という目標は同じままだった。戦略と強調点は異なるにしてもその後の10年間抱きつづけたのはこの目標だった。

1950年の終わりに私はアナーキズムと共産主義の両立性に深刻な疑念を抱きはじめた。当初私の共産主義としてのアナーキズム批判はそこまで強いものではなく、主にアナーキズムに対する共産主義以外の捉え方があるのではないかというものだった。それから、私は1961年にマックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」を読み、アナーキズムは共産主義ではなく個人主義であるとの確信をもった。私がそのとき到達し、今もなお持ち続けている結論は、個人主義とはジョン・ビバリー・ロビンソンの言葉によれば、「個人主義とはすべての制度と公式の上に自らがあるとする個人による認識である。制度と公式は、それらを受け入れて自らの所有物としたときにのみ存在するに過ぎない。」そしてさらに、それは「個人主義は彼がそうであるところの個人による実現である。つまり、彼に関する限り、彼が唯一の個人なのだ」(これは唯我論の主張ではない。ロビンソンは「他の個人」が存在することを認めている。「しかし、それらのどれもが彼自身ではない。彼は独立する。彼の意識、欲望、喜びは唯一者のものであり、他のだれもがそこに立ち入ることはできない」)。

さて、以上のことから、個人主義者はあらゆる制度や公式を自らにかかる権威として認めることがないために論理的にアナーキストである。さらに、個人にかかるあらゆる権威の正当性を否定し、の否定が個人の唯一性を確証づけるために、アナーキストは論理的に個人主義者である。それから私のアナーキズムは、神と国家への奉仕を社会と人類への奉仕に置き換えることを目的とした利他的な理想主義の最後の遺物から解放されるようになった。それだけではなく、アナーキズムは今私が見たように、その最後の隠れ家である「義務duty」や「道徳的義務moral obligation」というような幽霊からも権威を追いだし、私は意識的なエゴイズムへと確実に到達した。

かつての目標だった無国家共産主義社会は私にとって受けつけないものとなった。平等主義的畜群のアモルファスのなかに私のエゴを溶け込ませることを望むことはなかった。共産主義は経済的集団の前に私を無力にするだろう。生産手段の共有権は、統合か死かの選択を迫るだろう。もし特定の領域で行動と実現の可能性を独占するのであれば、あらゆる集団、あるいは集団の連合は、国家に匹敵する力を持つこととなる。それがたとえ「アナーキズム」の名の下になされたとしても、結果は社会的な全体主義となる。実際には、無国家共産主義はすべての行政権を群衆の集会や選出された代表者の手に委ねることになる。いずれにせよそれは事実上多数派による個人の統治の表出である。たとえばもし私が共産主義社会における産業管理構造の、労働者協議会のピラミッド構造における底辺にとどまった場合、私はどのような権力を行使することができるのか? 最良の場合でも、そのようなシステムは、そのもっとも純粋な形態において、集団の「アナーキズム」を生みだすに過ぎない。個人のアナーキズムを生みだすことはないだろう。

しかし共産主義ユートピアに対する拒絶は、私の個人主義としてのアナーキズムの構築を終わらせることはない。共産主義は確かにアナーキズムと両立しなかったが、アナーキズムはあらゆる規範的社会秩序と両立しないのだろうか? 言い換えれば、社会形態としてのアナーキズムの実現は可能なのだろうか?

ハーバート・スペンサーは「個人対国家論Man vs The State」において次のように述べている。「社会組織は個人の意志に優先する法を持つ。そのことを無視する法律は厄災に満ちている」。「だれにとっての災害なのか?」という適切な質問はさておく。私はスペンサーが言わんとするところがわかる。自らをアナーキストと主張するほとんどの人々は、国家が消滅すれば権威が消滅することを意味すると想定している。たしかに、政府なき社会の可能性に反対する人々への最良の答えは、国家なき、あるいはなかった原始社会の例を与え、それらが機能していたのであればなぜ私たちには不可能なのかと問うことにある。例えば、Hubert Deschampsは『The Africa of Political Institutions of Black Africa』の中で次のような部族について述べている。「そこには命令の必要も、強制的制度の必要もなかった。社会的な差異がないために衝突は最小限であり、ある者が他者の上に立つことを不可能にしている。とりわけ、彼らは生まれつき先祖代々の習慣に服従的である」。そのような社会では、国家による縦型の権威は存在しないが、「先祖代々の習慣」という形での「社会」による水平的権威――しばしば現代の政府よりも偏在的で圧政的なことがある!――が行使されているのである。そのような社会統制のモデルがアナーキストの心中に存在することは、ニコラス・ウェイターの「アナーキズムについて」というパンフレットに示されている。そこで彼は書く。「もっとも自由主義的な社会」では、「非行の適切な扱いは、教育的・衛生的なシステムの一部となり、処罰の制度的システムとはならないだろう。最終手段は投獄や死刑ではなく、排斥や追放となる」。習慣を侵害する者に対する、原始社会におけるのとまさに同じ「最終手段」は、輝かしい未来が私たちの過去にあるということに基づき、アナーキスト社会のメカニズムとして構想される。

私の歴史の知識からは、慣習だろうと法律だろうと、権威のない組織集団は存在しなかったように思われる。すべての集団はその成員が機能するために従わなければならない規範が必要だからである。そして、これらの規範は、どれほど反抗的な個人でも従わせることを確実にするための制裁が必要となる。これら制裁は習慣的、宗教的、政治的、経済的、道徳的なものの形をとるだろうが、しかしそれらは個人に対する権威となる。アナーキズムは社会形態として存在したことはなかったし、存在する見込みもない。まさに、私はアナーキズムを社会理論と捉えることは重大な間違いであると考える。私はあらゆる社会に対して、私の個人性を保証することも尊重することも期待していない。すべての社会は自己所有を弱めようとする、それがまさに社会の本質なのだ。すべては私の存在と行動を、協力や競争、兄弟愛、相互利益、または愛といった理想によってそれぞれの社会が定義する支配的な集団として原則づけようとする。したがって、すべての社会において、利益の焦点となるべき個人は、彼の特異性や具体性の上に立つ一般性のごちゃまぜのなかで迷子になる。すなわち個人と社会のあいだの戦争は、その両者が存在する限り続くだろう。アナーキズムは社会形態のひとつではない。それは個人主義の最先端であり、エゴイスト哲学の負の側面である。アナーキストは社会救済計画の売人ではなく、集団の権威に個人の独自性を服従させようとするすべての試みに対する永遠の反抗者である。アナーキストは、多様なエゴイズムを調和的に繋いできた、もっとも輝かしく、もっとも合理的な社会ビジョンでさえ、それによって誘惑されることを拒む者である。

上述したNicolas Walterのパンフレットでは、私が概説したアナーキズムは「詩人と浮浪者」にふさわしいと、「アナーキーは今ここにあり、世界にないとすれば、或る者の生活の中にあるのだ」と軽蔑的に棄却されている。

よろしい。しかし今ここ以外のいつ、どこに、或る者はアナーキーを期待できるか?

訳者あとがき

「アナーキスト社会」などというものは存在しない。「アナーキスト社会」の実像は、縦型の権威から横型の権威に置きかえたものである。そこには依然として権威が存在するだろう。唯一性を持つ各々個人は、集団に服従させられ、鎖につながれる。真のアナーキズムとは個人主義であり、個人主義はアナーキズムである。アナーキズムは個人の所有物であり、社会や集団に対して個人が闘争するところに存在する。

大雑把にまとめると以上がシドニーの主張です。

集団主義アナーキズムだけでなく、プリミティヴィズム――これもアナーキストに人気のある学派です――を批判している点も強調しておきたいです。

多くのプリミティヴィズム・アナーキストは、文中にあるように「原始社会に国家は存在しなかったのだから無国家社会は可能だ」と考えます。無国家社会だったことは事実です。しかし、無国家社会は果たして権威と無縁なのでしょうか? ここでシドニーは、国家が消滅すれば自由社会が実現するのではないと指摘します。

原始社会が現代と比べてかなりの程度で平等主義的、相互扶助的社会だったことは事実です。しかしそこには権威が存在するため、アナーキー社会とは言えません。原始社会は、しばしば左翼的願望が投影されがちです。原始社会では男女平等だった、争いがなかった、自然と調和して生きていた、など――この点はテッド・カジンスキーも「The Truth About Primitive Life」で強烈に批判しています。そこには、やはり集団である以上は権威が存在するのです。

シドニーは「社会形態としてのアナーキズムはかつて存在しなかったし、これからも存在する見込みはないAnarchism has never existed as a form of society, nor is it ever likely to. 」とします。強烈な文句ですが、これがエゴイスト・アナーキズムです。当然このような思想は無政府共産主義に正面から敵対するものです。

しかし、アナーキスト社会が実現しないのであれば、エゴイスト・アナーキズムとはつまるところ何なのか? エゴイストたちはどこへ向かうのか?――と非常に索漠とした気分になります。そこには目指すべき理想はなく、ただ自己と現実だけが存在します。この感覚は、まさしくニヒリズムです。ニーチェ流に言えば、ニヒリズムをあえて肯定する超人となれ、ということでしょうか。

ともあれ、シドニーも衝撃を受けたシュティルナーの名著「唯一者とその所有」は、もっと知られるべき名著(奇書?)です。

シュティルナーの思想の位置づけは、反ヘーゲル主義であり、フーコーなどポスト構造主義の先駆けです。そしてニーチェの思想とかなり似通っています。ピンと来た人にはぜひ読んでいただきたいです。

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