2019-06-03

Ragner Redbeard氏の「Might is Right」の序文をシドニー・パーカー氏が書いていたので訳しました。原文は彼の公式サイトより

by N. C. Wyeth

ラグナー・レッドビアードとマイト・イズ・ライト

人物

「マイト・イズ・ライト」は、人々の称賛や学術的注目とは無縁のまま存在している。それにもかかわらず、個々人の間で約85年間読まれ、議論されつづけ、いくつかの版が必要となるまでに至った。原著は1896年に出版され、直近では1972年に再版された。突飛な、感情をゆさぶる、憤慨させるような、個人的センスと集団的ナンセンスの混合物は、私がいままで知るなかで、もっとも率直でもっとも強力な「社会ダーウィニズム」を概説する例である。

著者のラグナー・レッドビアードが何者であるかについての確証はない。もっとも可能性が高い候補者はアーサー・デスモンドである。彼は赤髭(レッドビアード)で赤髪であり、彼の詩はレッドビアード氏によって書かれたものと非常によく似ている。彼はニュージーランドにおいて、アイルランド人の父親とイギリス人の母親のもとに生まれたが、正確な生年月日は不明であり、1842年か1859年であると言われている(訳者注:現在では1859年生まれであるとされる)。ニュージーランドにいる間、デスモンドは労働組合を組織する過激な議会候補者として際立った存在だった。ヘンリー・ジョージの思想に共鳴し、マオリ族のリーダー、テ・クーティを支持し、「ザ・トリビューン」と呼ばれる過激な雑誌を編集した。

1892年、デスモンドはニュージーランドからオーストラリアのシドニーへ渡った。彼はそこで政治活動を続け、「ハード・キャッシュ」誌と「ザ・スタンダード・ベアラー」誌を編集し、そこでオーストラリアの著名な詩人、ヘンリー・ローソンに影響を与えるような詩を書いた。労働党に入党し、マルクスとバクーニンを知るジョーン・ドワイヤーのような過激な人物と知り合った。彼が未発表の「マイト・イズ・ライト」の原稿を持ってオーストラリアを去ったのは1895年だとされている。オーストラリアを去ったあとのデスモンドの経歴の大部分は憶測に基づいている。「レッドベアーズ・レビュー」をロンドンで出版し、シカゴに住み、ウィル・H・ディルグとの共著「ライバル・シーザーズ」を出版し、「Richard Thurland」の名の下に「ライオンズ・ポウ」を編集したと言われている。彼の死亡日は定かではない。ある説では彼は1918年パレスチナにおいて「アレンビー将軍の軍隊に入隊中」死亡したとされる。別の説では彼は1926年、パレスチナで死んだとされる。一方で、私は彼が1927年にシカゴで本屋を営んでいたと教えられたことがある。より奇妙な物語、すなわち彼が本当はAmbrose Bierce氏であり、メキシコ革命の間に撃たれたという説や、またレッドビアード氏とデスモンドが同一人物であるという証拠がないことは差し引くとして……。

著書

しかしたしかなことは、もしデスモンドがレッドビアードであるならば、彼の見解はオーストラリア滞在の終わりに向かって劇的に変化しただろうことである。「マイト・イズ・ライト」は「労働者の解放」に向けての過激な政治的主張のマニフェストではない。私は現代のプロレタリアートの救世主が、この本を推奨することが想像できない、初期のウォブリーズ(訳注:1905年シカゴで結成された急進的な労働団体)のいくらかがこの本に影響を受けたと主張しているにしても。そして、それは人類を「気遣い」「愛する」と主張する感傷的全体主義者にとっても魅力的ではないことは確かである。

レッドビアードは、彼の著書のテーマを「爾余はすべて誤りであるAll Else Is Error.」という題の前書きにおいて説明している。

「自然界は戦争の世界である。自然な男は戦士である。自然法は歯と爪だ。爾余のすべては誤りである。戦闘状態はいたるところに存在する。私たちは永遠の衝突のなかに生まれている。それが私たちの受け継いたものであり、前世代の遺産なのだ。この「戦闘状態」は聖フランチェスコの聖句や、クロポトキンやトルストイの柔らかく欺瞞的な教義によって偽装されることがあるだろう。しかし、最終的に人類のどの部族のどの人間も、それを回避することはできない。……それがすべてを支配する……それが警察化された国民、国際的に制限された平穏、そして産業的に組織された国家を喜ばしく、祝福された、神聖なものとして想像するものを決定する。」

しかし、この万人に対する各々の戦争では、勝利者はわずかしかいない。ただ彼らのみが力を征服し、戦利品を楽しむ。これは、「今日の世界に生きるはるかに多数の人間は、イニシアチブをとらず、独創性を持たず、思考の独立を持たず、単なる服従的な個性を持ち、自らが尊ぶ理想を生みだすようなもっともかすかな声すら持たなかった」からである。「平均的人間……は、子どもの頃から他者に統治されることに習慣づけられた生まれつきの奴隷である」。「一般人の大部分は決して自由になることはできないが、彼らはより価値の高い要素が蒸留されるための堆積物である……主人精神mastershipは正しく、主人精神は自然であり、主人精神は永遠である。しかしそれはただ、主人精神を打倒し、自らの爪の下に踏みにじることのできない者にとってのみそうなのである」

一方、強者は自由人であり、「自由人は決して自らの行動を他者の提案や指示によって制限されてはならない。もしそうされるとき、彼はもはや自由ではないからである」。自由人は「すべての法律、すべての憲法、すべての善悪の理論を超越する。彼はもちろん、それが彼らの目的に適う以上はそれらを支持し守るが、もしそうでないときには、彼らはもっとも簡単で直接的な方法でそれらを全滅させる」。「自由は、肉体的、精神的な、完全な自己主人性……そしてすべての公的強制や制約に対する徹底的な独立……として正しく定義することができる」。それは所有proprietorshipと同義語である。無所有であり非武装であることは、実質的に依存と隷属であることの条件である。所有なき自由は神話であり、児童向けの物語であり、まだ喋れぬ赤ん坊にのみ信じることができる。

レッドビアードは平等をもうひとつの神話として拒絶する。「法の前の平等」という概念をとりあげよう。「二人の訴訟当事者を、どのように合理的方法で無条件の「法の前の平等」の立場に置くことができるのか? 第一に、原告と被告はつねにまったく異なる肉体的・精神的な特徴を持っており、異なる人間的魅力を持ち――そして異なる銀行収支を持っている。そしてまたすべての陪審員、そして法務官は、基質、能力、勇気、正直さにおいて不平等である。各々が独特の特質、偏見、欠点、迷信、そして――価格を持っている。……同じように生まれる二人の人間などいない:それぞれが文字通り、各々の特異な星のもとに生まれたのである……「法の前の平等」は、単なる無意味なキャッチ・フレーズに過ぎない」

「有機的な原子すべてはそれ自体の生的な特異性を持っている」ために平等は虚偽である。「すべての生き物は、骨格や化学的構成において異なっている。民俗学、生物学、歴史学、すべてが平等は神話であると宣言する。偉大な古代の叙事詩でさえ、すべては不平等の栄光についてであった。精神の不平等、生まれの不平等、条件や勇気の不平等……精神的にも道徳的にも、すべて呼吸する生命は、異なった自我をもつ自己均衡のとれたモナドである。細菌、惑星、太陽、星々において、似通った2つは存在しない。高等脊椎動物では特にそうであり、その結果、人間が誇りに思い尊敬すべき法律は、その起源と最終制裁をただ自らのうちに――自らの意識の中に起源を持つもののみである」。

したがって、ラグナー・レッドビアードにとって、人生は闘争であり、戦争であり、その戦争においてもっとも強い者、ただ服従的な大衆にのみ適合する法律や道徳規範の権威を持つ者が勝者となるだろう。しかし、彼らが勝者であり続けるのは、彼らが自らが最強者であると証明できる間に過ぎない。もし彼らよりも強い他者が立ち上がるとき、彼らは敗北し、新しい主人がその地位につく。このように「適者生存」が続けられ、現実にはなんら根拠を持たない兄弟愛や平等といった教義によって妨害されたり否定されることはなくなるだろう。

レッドビアードは現在や未来の強者の世界における抑圧や搾取の存在を否定していない。彼が否定するのは、支配したい人々のために、利他的な愛のために行動しているとする、権力追求者の偽善的主張である。合法主義と道徳主義は、陰謀者のマスクであり、それらを強者から受け入れることは、弱さや衰退を導く。レッドビアードの立場は、次のように書くとき、マルキ・ド・サドとそう遠いものではない。「強き情熱によって活発となっていない個人は、単なる平凡な存在である。ただ強き情熱のみが偉大な人間を生む。個人がもはや……情熱的でなくなるとき、彼は愚かになる。この点を考えると、情熱を制限するような法律は危険ではないだろうか?」

批判

レッドビアードは道徳規範の軽蔑を主張するが、「すべて善悪の一方的規範は個人的自由への横暴な侵入」であり、偉大さは「すべての道徳的尺度からの超越と優越」にあるとする。しかし、彼は道徳主義者ではない。彼はユダヤ―キリスト道徳に対する敵意を明白に示しているが、彼の全体的なアプローチは「悪」からの人類種の贖いを求める永続的な道徳欲望を破壊することだった。彼にとって、「自然」なことは「正しい」のであり、人類が「自然」から遠く離れるほど、彼らは「正しさ」からも離れることになる。「自然」が精神的な構成要素であり事実ではないこと、「人間」が個人の集合体に過ぎないことはさておくにしても、レッドビアードがいかにして「すべて呼吸する生命」が異なった自我を持ちながらも、これらの多様な自我が――彼の定義する意味での――「自然」であることという共通目標を受け入れるということの整合性をもたせるのかという疑問は残る。もし私が唯一者であるならば、私にとっての「自然」は他の個々人の「自然」とは違うものになるはずである。まさに、私にとって「自然」であることは、他者にとって「不自然」かもしれず、衝突は避けられない。レッドビアードの「社会ダーウィニズム」の解釈は、あきらかにこのことを許容するが、一方で彼の「自然の平等」の道徳はあきらかにこのことを否定する。

実のところ、この矛盾はレッドビアードが男性と女性との性的関係を扱うとき、彼自身によってはっきりと描かれている。同じページにおいて、彼は「道徳原則……は人間の人工的な制定であり、自然、正確、真実である必要はない。道徳規範はすべての臆病者にとっての黒き恐怖である」とし、続けて「読者は性的道徳はこれらのページで非難されていないことを明確に理解しなければならない」と述べる。「なぜなら、女性はその最良のときでもか細い存在に過ぎないからである……彼女たちは徹底的な服従によって保たねばならない」それは「これらの愛すべき生き物が主人精神から開放され、支配者や男性との対等者となることは、種族にとって悲しむべきこと」だからである。彼はこの警告に続いて、「性的退化」、「乱交」、その他の「悪」を批判するが、まさに彼が激しく攻撃しているキリスト教道徳を思い起こされる言葉を用いている。「もしも現代のソドムが」、と彼は書く、「大地に破壊されたとしたら、どうやって自然の永続的純性は喜ぶことができるのか!」。「自然」と「神」を置きかえたとき、宗教的道徳主義者のうち反対するものがあるだろうか?

レッドビアードの女性の「自然」に対する見解は一貫したものではない。「愛、女性、戦争」というひとつの段落において、彼は「自己主人精神の不可能な……世俗的出来事における単なる赤ん坊」として繰り返し主張するが、つぎの段落では彼は「彼女たちはその情熱が掻き立てられたとき、鋼鉄の神経を持つ男でも躊躇する英雄的(そして恐ろしい)行為を実行した。彼女たちは軍隊を率い、もっとも暗く染まった犯罪者となった」。女性が「服従者」として運命づけられると主張しながら、同時に「支配者」となることが可能だと言うことで、レッドビアードは自らの男性優位性を効果的に破壊し、さらに、自らがしていることを忘れているようにも思われる!

レッドビアードはまた、アングロ・サクソンが優れた人種であると信じるレイシストでもある。黒人、ユダヤ人、アジア人、「退化した白人」はすべて彼の超人階級から排除される。彼のレイシズムは、しかし、彼の「権力の哲学」の論理を損なっている。彼の哲学の典型的な説明では、彼は権力を持つ限り「自らの好きなようにできる」資本家について書いている。彼は地球を所有するかもしれない……もし彼が望むのであれば、彼はそれを好んだり利益であると感じるなら人間や国家を売買するだろう。自然において、彼のエネルギーと野望に制限はない。必要なものはエネルギーと野望につりあうだけの力である。すべて必要なものはデザインとつりあう力である。しかし同じ原則は他の人間や、他の人間集団によっても起こりうるのであり、そのことが「適合が疑いなく絶対証明される」。「富者の正しさ」は、彼らが維持できるものであり、「貧者の正しさ」はそれ以下ではない。富の集積には制限はなく、その再分配についても同様である」。

したがって、もし適者生存のために「必要なものすべて」が「デザインに等しい力」であり、「同じ原則が他の人間や他の集団によって適用される」のであれば、これは論理的にすべての人間にあてはまるのでなければならない。黒人やユダヤ人、アジア人、「劣化した白人」がレッドビアードの言うアングロ・サクソンの超人よりも強者であることを証明したとき、彼は勝者を否定することができない。もし私が自分の力の限りで自分のしたいことをするのであれば、そのとき私の人種や肌の色は関係ないはずである。私は自分が強力な存在であることを示すのでだから。レッドビアードのレイシズムは、セクシズムのように、彼の「権力の哲学」と大きな矛盾がある。彼はそれらを集団主義的概念によって擁護することはできるが、そのことは個人の「力might」の外側には、なんら「権利rights」がないという彼の個人主義的概念を否定することになるからである。

マイト・イズ・ライトは重大な矛盾のある作品である。キリスト教の聖書のように、それを相容れない見解の情報源として使用することもできるが、尊ぶべきバカ話や神話とは違い、その持つ生のままの力は、私たちの先祖が遺したかなりの数の宗教的、道徳的、政治的迷信を排除する点で有用である。ラグナー・レッドビアードがだれであろうと、彼の著書に対してどのような正当な批判が加えられようとも、自らの「権利」が自らの力と等しいと認識する者すべてにとって、彼は依然として注意に値する。

関連:「Might is Right」全文

 

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