2019-06-17

理性によって管理され、制限され、導かれる自由は自由ではない。

イタリアの個人主義者、エンツォ・マルトゥッチ(1904ー1975)の「Unbribled Freedom」を訳しました。マルトゥッチは、レンツォ・ノヴァトーレに強い影響を受けている人物です。

束縛なき自由

シュティルナーとニーチェは疑いなく正しかった。他者の自由が始まるところで私の自由が終わること、これは事実ではない。本来、私の自由は私の強さが止まるところで終わるのだ。人間を攻撃することが気分を害するとき、自分の利益に反すると考えられるとき、私は衝突を避けるだろう。しかしもし、ある本能、感情、必要に迫られたとき、私は自分の同類に襲いかかり、抵抗がないか、弱い抵抗しかなければ、私は自然と支配者、超人となるだろう。もし他者が執拗に抵抗し、殴打に対して殴打で返されたときには、私はやむなく中止し、折り合いをつけなければならない。自分の生の即座の満足に見合うと私が判断しない限り。

放棄、道徳、義務、正直さについて人々と話すことは無駄だ。互いのつま先を踏むことを抑えるために、キリストやヒューマニズムの名のもとに人々を束縛することは馬鹿げている。その代わりに、ある者は各々に言う。「君は強い。意志を固めよ。あらゆる手段によって欠点を補え。君は自分の人生を守れ。君に反対することを望む者から自らを守れ」。

すべての人間がこのアドバイスに従うなら、専制は不可能である。私は自分より強い人間に対しても抵抗するだろう。もし私が自分一人できなければ、友人の助けを借りるだろう。もし私の力が欠如しているときは、それを詐術によって補うだろう。そしてそのコントラストから自然に均衡が生まれる。

実のところ、社会的不均衡の唯一の原因は、奴隷たちを主人の鞭のもとに忍従させる畜群精神である。

「人間の命は神聖なものです。他者の生命も自己の生命も抑圧することはできません。そして私に残酷で終わりなき苦痛をもたらす、敵の生命をも尊重しなければなりません。ひどい苦しみを引き起こす不治の病に苦しむ哀れな兄弟の生命を奪うことはできません。苦悩でしかない人生から、自殺を通じて自らを解放することさえできません」。

なぜ?

キリスト教徒は答える。「なぜなら、生命は私のものではないからです。それは神が与えたもので、ただひとり彼のみが私たちから奪うことができるのです」。

よろしい。しかし神が私たちに生を与えたとき、それは私たちのものとなる。トマス・アクィナスが指摘したように、神の思想は考える者のために、それ自体の存在と、客観的現実を与えた。そう考えることによって、生命は実質的に人間となり、つまり、私たちの排他的所有物となるのである。したがって、私たちは互いに奪い合うこともできれば、自ら破壊することも可能なのである。

エミール・アーマンドは、個人を国家から解放したが、社会に対してより厳格な服従をもたらした。実のところ、私は自分が望むときに社会契約を取り消すことはできず、連合(アソシエーション)のつながりから自己を解放するためには連合員の同意が必要となる。もし他者が同意しない場合、そのことが危険で私を傷つけるものであっても、彼らとともに存在しなくてはならない。あるいは、一方的に協定を破ることによって、かつての同志たちの報復と復習にさらされることになるか、である。しかしこれはスパルタの兵舎の社会主義である。何だと! 私は自分自身の主人ではないというのか? 昨日は、ある種の感情と必要によって、私は連帯を望んだ。今日、私は別の感情と必要によって、協会を抜け出したいと思った。そのとき、私はもはやそうすることはできない。つまり、私は昨日の欲望に縛り付けられたままでなければならない。昨日はある方法を望んだから、今日私は別の方法を望むことができない。それなら私は奴隷である、自発性を奪われ、連合員の合意に依存するところの。

アーマンドによれば、私が彼らから奪われることの引き起こす悲しみや危険を考慮しなければならないために、関係を断つことはできないという。しかし、私が去りたいと願うときに、彼らのなかに留めることによって私に起きる悲しみや危険について他者は考慮しない。ここには相互関係が欠如している。私が連合から去りたいと思う時、私は自分が決めたときに去る、連合との合意を結ぶときに、私がいつでも自分の関係断絶の自由を同僚に伝えているときはなおさらである。このことによって社会が長続きすることが否定されるわけではない。この場合は、連合を維持するのは感情や関心である。アーマンドが望むような倫理的指針ではない。

キリスト教徒からアナーキスト(?)まで、すべての道徳主義者は、責任に基づく自由と、気まぐれと本能に基づく認可を区別することを主張する。理性によって管理され、制限され、導かれる自由は自由ではない。それは自発性を欠いているから。したがって、生命を欠いている。

私の狙いは何か? だれもが自らの本性に従い、望むように生きることができるよう、権威を破壊し、国家を廃絶し、自由を確立すること。この狙いはあなたを怖がらせるだろうか? それでは、私には何もすることはない。レンツォ・ノヴァトーレのいうように、私は弧を超えているbeyond the arc。

だれも命令しないとき、私は自分の望むことをする。私は自発性を放棄するか、あるいはそのことに抵抗する。私は本能に従うか、ときに応じて、理性によってそれを手綱につける。

手短に言えば、私の人生は多様で激しいものである、いかなる法にも依拠しないために。

すべての学派の道徳家たちはその反対を主張する。彼らは人生は常にそれを単調で無色にさせるようなただひとつの行動規範に従うことを要求する。彼らはつねに人間に対して一定の行動を行い、他のすべての行動を慎むことを求める。

「あなたは、どんな場合でも、愛、許し、俗物的な物品の放棄、そして謙虚を実践しなければならない。そうでなければ罰が下る」と福音書は言う。

「あなたは、どんな瞬間でも、エゴイズムに打ち勝ち非利己的である必要がある。そうでなければ不条理と悲しみに苦しむままだろう」とカントは指摘する。

「あなたはつねに本能と食欲に抵抗し、バランスがとれており、思慮深く賢明であること示さなければならない。そうでなければ、私たちはあなたを国家主義者の焼印を押し、あなたを暴君として扱うだろう」とアーマンドは判断する。

つまりは、彼らのすべては人生を切り刻み、人間をつねに同じように考え行動する均一の人形にするようなルールを強制したいのである。このことがおきる理由は、私たちが聖職者に囲まれているからだ。教会の聖職者、それに反対する聖職者、信心深い、また無神論的なタルチュフ(無神論者)。そしてすべてが私たちを教化し、導き、管理し、手綱をかけ、現実的または超自然的な処罰と報酬の預言をもたらすのである。しかし、自由な人間が立ち上がるときがきた。法と宗教を超えて、すべての聖職者と神権に対抗する方法を知っている者、さらに超越する方法を知っている者。そしてなお、さらなる超越。

エンツォ・マルトゥッチについて

エンツォ・マルトゥッチ(1904ー1975)は、16歳でブルジョワ家庭と教育から脱走し、アナーキストとなった人物です。イタリア放浪中にレンツォ・ノヴァトーレに出会い、彼が1922年に警察に殺されてからも彼の個人主義アナーキズムに献身を続けた。以上の記述はシドニー・パーカーのサイトから。詳しく知りたい人は読んでください。

本文においてマルトゥッチは、キリスト教道徳とカント主義的道徳論、そしてエミール・アーマンドを代表とする集団主義的アナーキズムをも批判しています。

冒頭にあるように、ニーチェとシュティルナーの影響が色濃く、国家を廃絶するばかりではなく、アソシエーションや社会の抑圧性を批判しており、個人主義的な内容といえます。

「私の人生は多様で激しいものである、いかなる法にも依拠しないために」
my life is varied and intense precisely because I don’t depend upon any rule

このフレーズがとても好きです。

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