2019-06-30

個人主義は……私たちの知る最強の道徳的手法であり、美徳と幸福の最も不可侵の城塞である。

エピクロスとストア派の影響を受けた個人主義哲学者、ハン・ライナー(1861-1938)の「個人主義のミニ・マニュアル」を訳しました。

ソース: Petite manuel individualiste. Paris, Librairie française, 1905;
著作権: Creative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2007.
英訳:Mitch Abidor.

第一章 個人主義と少数の個人主義者について

私は個人主義者か?
私は個人主義者だ。

個人主義とはどういう意味か?
個人主義は、いかなる教義、伝統、外部の決定にもよらず、個人の良心のみに訴える道徳的教義を意味する。

個人主義という言葉はそれらの意味だけを示すのか?
個人主義という名称は、臆病さ、あるいは征服的で攻撃的なエゴイズムを哲学的なマスクで覆い隠すための教義にしばしば与えられた。

ときに個人主義者と呼ばれる臆病なエゴイストを挙げよ。
モンテーニュ。

自らを個人主義者と宣言する征服的で攻撃的なエゴイストを知るか?
生の闘争の残忍な法則を、人間の関係にまで広げたすべての人々。

いくつかの名前を挙げよ。
スタンダール、ニーチェ。

真の個人主義者を挙げよ。
ソクラテス、エピクロス、イエス、エピクテートス。

なぜソクラテスを愛するか?
耳を傾ける人々に、外部にある真実を教えるのではなく、自己の中にある真理を見出すように教えた。

ソクラテスはどのように死んだか?
法律と裁判の判決を受け、都市に殺された。個人主義への殉教者である。

彼は何を非難されたか?
都市が敬意を持つ神々に敬意を持たないこと。若者を堕落させたこと。

最後の非難はどういう意味か?
つまり、ソクラテスは権力者たちには受け入れがたい主張を公言した。

なぜエピクロスを愛するか?
気ままな優雅さの下、彼は英雄だった。

エピクロスについてのセネカの聡き言葉の引用を挙げよ。
セネカはエピクロスを「女性に変装した英雄」と呼んだ。

エピクロスは何をしたか。
狂気の始まりであるところの神々や神への恐怖から弟子たちを救った。

エピクロスの偉大な美徳は何か?
節制。彼は自然の必要と想像の必要を区別した。暑さと寒さ、飢えと渇きを満たすのに必要なものはほとんどないことを示した。そして彼は他のすべての必要から解放した。つまり、人間を奴隷化するほとんどすべての欲望とすべての恐怖から。

エピクロスはどのように死んだか?
永く苦痛をもたらす病によって、完璧な幸福を誇りながら死んだ。

一般に本当のエピクロスが知られているか?
いや。不忠の弟子たちは彼の教義を悪で覆い隠した。盗んだコートの下に傷が隠されているのと同じように。

偽りの弟子たちが言わせたことによって、エピクロスは罪を犯しただろうか?
私たちは他者の愚かさや不義によって罪に問われることはない。

エピクロスの教義の倒錯は例外的な出来事か?
すべて真実の言葉は、多くの人々によって聞かれるとき、軽薄な人々、詐欺師、ペテン師によって嘘に変換される。

なぜイエスを愛するか?
自由に生きる放浪者であり、どのような社会的つながりとも無縁だった。祭司、カルト、そして一般的にすべての組織の敵だった。

彼はどのように死んだか?
司祭に追求され、司法当局に見放され、兵士に十字架にかけられて死んだ。ソクラテスと共に、彼は宗教の最も有名な犠牲者であり、最も輝かしい個人主義の殉教者である。

一般に本当のイエスが知られているか?
いや。司祭たちは彼の肉体と同じく教義を十字架につけた。気付け薬を毒薬に変えた。外的組織の敵の虚偽の言葉とカルトによって、彼らはもっとも組織化された、もっとも尊大な空っぽの宗教を創設した。

イエスは弟子や司祭たちが作りあげた教義によって罪を犯しただろうか?
私たちは他者の愚かさや不義によって罪に問われることはない。

なぜエピクテートスを愛するか?
ストア派のエピクテートスは勇敢にも貧困と奴隷制に穴を穿った。通常の人間にとって最も苦痛な状況において、彼は全くの幸福だった。

エピクテートスの教義をどうやって知るか?
彼の弟子であるアッリアノスは、「エピクテートスの提要」と題された小著で彼の発言をまとめている。

「エピクテートスの提要」についてどう思うか?
その正確で無制限の高貴さ、いかなる偽賢人らしさのない単純さが、私にとってそれを福音書より貴重なものとしている。エピクテートスの手引きはすべての本の中で最も美しく、そして解放的である。

他の歴史的に著名な個人主義者はいるか?
他にもいる。しかし、私が挙げたものは最も純粋で理解しやすいものだ。

なぜ犬儒派のアンティステネスとディオゲネスを挙げないか?
犬儒派の思想はストア派の草案(スケッチ)に過ぎないからだ。

ストア派の始祖であるキティオンのゼノンをなぜ挙げないか?
彼の人生は立派であり、古代人の証言によれば、彼自身の哲学に沿った生き方だった。しかし、現代では彼は私が挙げたものほど知られていない。

ストア派のマルクス・アウレーリウスを挙げないのはなぜか?
皇帝だったから。

なぜデカルトを挙げないか?
デカルトは知的個人主義者だ。明らかに道徳的な個人主義者ではない。彼の道徳はストア派的であるように見えるが、彼はそれを公に実践することはなかった。自分の国の法律や習慣に従うことを勧める「仮の道徳」を彼は知らしめただけであり、それは個人主義の反対である。さらに、他の状況において、彼は哲学的勇気に欠けていたようである。

なぜスピノザを挙げないか?
スピノザの人生は立派なものだった。わずかな穀物と牛乳のスープでささやかに暮らした。提供された地位を拒否し、肉体労働を通じて日々のパンを稼いだ。彼の道徳的教義はストア派的神秘主義だ。しかし彼はあまりにも知的に専心的であったために、奇妙な絶対主義政治を主張し、権力に直面しても思考の自由を守ろうとしただけだった。ともあれ、彼の名は偉大な道徳的美学というより偉大な形而上学的な知力を思い起こさせる。

第二章 実践的個人主義への準備

自らを個人主義者と宣言するのに十分だろうか?
いや。宗教であれば言語的追従といくつかの礼拝の行動によって満たすことができる。実践哲学は実践的でなければ何にもならない。

宗教はなぜ道徳的教義よりも耽溺をもたらすか?
宗教の神々は強力な君主である。彼らは恩寵と奇跡によって信者を救う。儀式的言葉や動作や法と引き換えに救済をもたらす。金目当ての人々によって私に与える言葉や動作によってでも私に信用を与えることもできる。

真に個人主義者の名に値する人物となるためには何をしなければならないか?
私の行動はすべて私の思想ideaと一致していなければならない。

その合致は難しくないか?
見た目より難しいものではない。

なぜ?
初学者の個人主義者は、偽りの物品や悪い習慣によって抑制されている。彼はただ努力によって自らを自由にしなければならない。しかし彼の行動と思想の間の不一致は、すべての自制より痛みを伴うものである。音楽家が調和の欠如によって苦しむのと同じように、彼はそのことに苦しむ。音楽家は不快な騒音のなかで人生を無駄にしたくないだろう。同様に、調和の欠如は私にとって、苦しみのなかでも最大のものである。

ある者が自分の思想と人生とを一致させる努力のことをなんと呼ぶか?
それは美徳である。

美徳は報われるか?
美徳はそれ自体が報酬である。

その言葉は何を意味するか?
2つのことを意味する。:1―もし私が報酬を考えるならそれは善ではない。無関心disinterestednessは美徳の主要な特徴だ。2―無関心な美徳は幸福を生みだす。

幸福とは何か?
幸福はすべての外部への服従から解放されていると感じ、自分自身と完全に一致していると感じる魂の状態である。

ある努力をする必要がなくなったときに幸福のみがあるというわけではなく、幸福が美徳を成功させるのだろうか?
賢者は常に努力と美徳を必要とする。彼はいつも欠如に攻撃されている。しかし実は、幸福はもはや内部の闘争がない魂の中にのみ存在する。

知恵を求めることは不幸だろうか?
いや。幸福を期待する間、それぞれの勝利は喜びを生みだす。

喜びとは何か?
喜びは、より低いものからより偉大なものへ移行する感覚である。私たちが幸福に向かって進んでいるという感覚である。

喜びと幸福を比較して区別せよ。
平和な存在が闘うことを強いられ、彼をより平和に近づける勝利を得た。彼は喜びを感じる。そしてついに何にも煩わされない平和に到達した。彼は幸福に到達した。

それを理解した最初の日に幸福と完全を獲得する試みをすべきだろうか。
無理なくすぐに完全性を試みることは、ほとんどの場合無謀である。

無謀にはどのような危険があるか?
撤退し自信を喪失する危険がある。

完全のために準備する正しい方法は何か?
エピクロスを通じてエピクテートスへゆくのが正しい。

どういう意味か?
まず第一にエピクロスの観点に自己を置き、自然の必要と想像上の必要を区別しなければならない。人生におけるすべての不要なものを軽蔑するとき、贅沢と快適を侮蔑するとき、単純な食べものと飲みものがもたらす肉体的快楽を味わうとき。私たちの体と同じく、魂もがパンと水の良きことを知っているとき、その道をさらに進むことができる。

まだ進むべき段階はあるか?
たとえパンや水を奪われても幸福になれると感じること。もっとも困難な病において、何ら助けのないところで、幸福になれるということ。群衆の侮辱の中心において拷問で死んでも幸福になれること。

これら知恵の頂点はだれにでも到達可能か?
これら頂点へは、個人主義に向かう自然な愛情を持つすべての善意の人々によって到達可能である。

頂点へと導く知的な道のりは何か?
真の善と真の悪に関するストア派の教義である。

この教義を再び何と呼ぶか?
私たちに依存しないものの上にある、私たちに依存するものの教義と呼ぶ。

私たちに依存するものとは何か?
私たちの意見、欲望、傾向、厭悪。つまり、私たちの内的行為すべて。

私たちに依存しないものとは何か?
肉体、富、評判、尊厳:つまり、私たちの内的行為に含まれないものすべて。

私たちに依存するものの特徴は何か?
それらは本質的に自由だ。止めることのできるものはなく、その前に障害物を置くこともできない。

私たちに依存しないものの別の名は何か?
私たちに依存しないものは中立なindifferentものと呼ばれる。

なぜか?
それらのどれもが真の善でも真の悪でもないから。

中立なものを善や悪とみなした人に何が起こるか?
彼はいたるところに障害物を見つける。苦しみ、悩む。物事や人間に不平を言う。

彼はより大きな悪を感じることはないか?
彼は欲望と恐怖の奴隷である。

現実に私たちに依存しないものが中立であることを知っている彼の状態は何か?
彼は自由だ。自分がやりたくないことを彼に強制したり、したいことを妨げることはできない。あらゆる人や物について何も不平を言わない。

例えば病、監獄、貧困は私の自由を減少させないか?
外的なものは私の肉体と移動の自由を減少させることができる。私に依存しないものを望むような愚かさを持たない限り、それらは私の意志に対する障害ではない。

エピクロスの教義は人生の過程全般において十分ではないか?
エピクロスの教義は、人生に必要なものを持ち、良い健康状態であれば十分だ。喜びの前に、想像上の心配や病を偽造しない動物の平等性を与える。しかし、病気や飢餓においては、もはやそれは十分ではない。

それは社会的関係において十分か?
社会的関係の過程では十分でありうる。余分な権力だけを持つすべての暴君から私を解放してくれる。

それがもはや十分ではない社会的状況はあるか?
暴君が私からパンを奪い、私を死なせたり肉体を傷つけることができれば、もはや十分ではない。

暴君とは何か?
私の富や肉体のような中立物に対して行動することにおいて、私の意思に基づいて行動する偽装をする者をすべて暴君と呼ぶ。合理的な説得以外の方法で私の魂の状態を変えようとする者をすべて暴君と呼ぶ。

エピクロス主義が満たす個人主義者はいないか?
現在の私の姿が何であれ、私は未来を知らない。エピクロス主義がもはや十分ではないような巨大な攻撃が私を待っているのかはわからない。したがって私はエピクロスの知恵に到達したらすぐに、ストア派の不滅に達するまで自らをさらに強化することに努力しなければならない。

穏やかに暮らすには?
私はエピクロスのように穏やかに優しく、温かに生きることができる、エピクテートスの精神を持ちながら。

ソクラテスやイエス、エピクロスのようなモデルを自らに提示することは完全となるために有用だろうか?
それは悪い方法だ。

なぜか?
私が実現しなければならないのは私の調和であり、他人のものではない。

どのような義務があるか?
普遍的義務と個人的義務の二種類がある。

普遍的義務とは何か?
普遍的義務はあらゆる賢者に課せられる義務である。

個人的義務とは何か?
個人的な義務は私自身に課せられる義務である。

個人的義務は存在するか?
個人的義務は存在する。私は特定の状況で自分自身を見つける特別な存在である。ある程度の肉体的能力、知的能力を持っている。そして多かれ少なかれ富を持っている。続けられるべき過去を持つ。私は敵対的な運命と闘うか、友好的な運命と共に生きるかしなければならない。

個人的義務と普遍的義務を簡単に区別せよ。
例外なく、普遍的義務は自制abstentionの義務だ。ほとんどすべての行動の義務は個人的義務だ。すべての行動が法律により課せられるような稀な状況でさえ、それは道徳的芸術家のサインのようなものになるだろう。

個人的義務は普遍的義務と矛盾するか?
いや。それらはある植物にしか生えない花のようなものだ。

私の個人的義務は、ソクラテス、イエス、またはエピクテートスの義務と同じか?
使徒のような生活を送っているのでなければ、まったくそれらと似ていない。

私の個人的義務と普遍的義務をだれが教えるか?
私の良心。

それは私の普遍的義務をどのように教えるか?
すべての賢人から私が期待できるものを教えることによって。

それは私の個人的な義務をどのように教えるか?
自己に何を要求すべきかを教えることによって。

困難な義務があるか?
賢者に困難な義務はない。

知恵に達する前に、ソクラテス、イエス、エピクテートスは困難なときに有用だろうか?
私には役に立つだろうが、これら偉大な個人主義者をモデルとして描くことは決してないだろう。

どうやって彼らを描くのか?
証人として。そして彼らが私の行動様式を決して非難しないよう望む。

深刻な誤りと些細な誤りがあるか?
取り組まれる前に認識された誤りは深刻である。

理論的に、知恵への道を進む自己や他者の状況を判断するために、深刻な間違いと些細な間違いを区別することはできるか?
私はできる。

些細な間違いとは何か?
私は通常、わずかな誤りをエピクテートスが非難し、エピクロスが非難しなかったことを指す。

深刻な間違いとは何か?
私は深刻な誤りをエピクロスの耽溺によってでさえ非難されるものを指す。

第三章 個人のあいだの相互関係について

他人に対する義務を定義する公式を述べよ。
あなたはあなた自身のように隣人を愛する、とりわけなによりもあなたの神を愛するだろう。

隣人とは何か?
他の人間。

なぜ他の人間を隣人と呼ぶか?
理性に恵まれ、動物よりも私に近いから。

動物と私との共通点は何か?
生命、感情、知性。

これら共通の特徴は動物に対する義務を生まないのか。
これら共通の特徴は、動物を苦しませない、無用な苦痛を避ける、そして不必要に殺さないという義務を生みだす。

理性の欠如と動物の意志によって私にどのような権利が与えられるか?
人間ではない動物は、自らの強さに従ってそれらを利用し、それらを道具に変える権利を私は持つ。

ある種の人間に対して同じ権利を持つか?
私は人間を手段として考える権利を決して持たない。すべての人間が目標であり、結果である。私は慈悲や別の奉仕を通じて、ただ他者に自由に私に合意する奉仕を求めることができるだけである。

劣った人種はいないか?
劣った人種はない。高貴な個人はすべての人種で栄えることができる。

理性と意志を持たない劣った個人はいないか。
狂人を除けば、すべての人間は理性と意志が可能である。しかし多くの人は自分の情熱の方に耳を傾け、気まぐれなだけである。指揮の権威を持つ者と出会うのは彼らの中からだ。

不完全な個人を道具とすることはできないか?
できない。彼らは発達が停止した個人であるが、明日には目覚めているかもしれない人間と見なさなければならない。

私は指揮の権威を持つ人々の命令について考えるべきか?
命令は子供の気まぐれや狂人の空想でしかない。

隣人をどのように愛せばよいか?
私のように。

その言葉はどういう意味か?
つまり:私が自分自身を愛すべきであるのと同じように。

私が自らを愛すべきだと教えるのはだれか?
公式の第二部が私が自らをどのように愛すべきかを教える。

第二部を繰り返せ。
あなたは何よりもあなたの神を愛するだろう。

神とは何か?
神にはいくつかの意味がある。神はあらゆる宗教や形而上学において異なる意味を持ち、また道徳的意味を持つ。

神という言葉の道徳的意味は何か?
神は道徳的完全の名である。

「あなたの神を愛する」という愛の公式において、「あなたの」という所有格はどのような意味か?
私の神は私の道徳的完全である。

何よりも愛さねばならないのは何か?
私の理性、私の自由、私の内的調和、そして私の幸福、これらは私の神の別の名だ。

私の神は生贄を要求するか?
私の神は、私の欲望と恐れの犠牲を求める。虚偽の物品に気づき、「こころの貧しい(訳注:マタイ5:3、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」から)」ことを求める。

彼は他に何を要求するか?
自分の情念と、必要であれば人生を犠牲にすることに準備されていることを求める。

では私は隣人の何を愛するか?
隣人の情念に対して、動物や自分自身の情念に対してと同じ義務を持つ。

説明せよ。
他者や私自身に無意味な苦しみを生みださないこと。

無意味な苦しみを生みだすことはできるか?
無意味な苦しみを積極的に生みだすことはできない。しかし、特定の必然的自制は、結果として他者または私自身を苦しめるだろう。私は自分の情念よりも他人の情念を神に対する犠牲にすべきではない。

他者の生に対する私の義務は何か?
殺したり、傷つけてはならない。

殺す権利を持つ場合はないか?
自衛の場合、必然的に殺す権利を生むように思われる。しかし、ほとんどすべての場合、もしも十分に勇気があれば、殺さずに自分自身を救うことを可能にする落ち着きを維持できるだろう。

自衛することなく攻撃された方がよいのか?
この場合、自制はより優れた美徳であり、真の英雄的解決策である。

他者の苦しみに直面したときに、悪行と同等となる不正な自制はないか?
ある。罪なしに救うことができた者が死ぬことを許したなら、私はまったくの暗殺者である。

このことに関するボシュエの言葉を引用せよ。
「裕福な非人道的存在は、貧者に服を着せなかったことで貧者の衣服を剥いだ。貧者に食べ物を与えなかったために、彼を残酷に殺した。」

誠実さについてどう思うか?
誠実さは他者と自身に対する第一の義務であり、私の神が絶えず犠牲として要求する証であり、決して消させてはならない炎のようなものだ。

最も必要な誠意とは何か?
私の道徳的確実性の宣言。

第二にどのような誠意をおくか?
私の感情の表現における誠意。

外的事実の説明の正確さは重要ではないか?
それらは哲学的誠実、感情的誠実に比べれば重要さに欠く。それでもなお、賢者はそれを観察する。

嘘は何種類あるか。
三種類。悪意のある嘘、干渉的officious嘘、そして喜ばしい嘘。

悪意のある嘘とは何か?
悪意のある嘘は犯罪であり、卑劣な行為である。

干渉的嘘とは何か?
干渉的嘘は、他者や私自身にとって目標として有用なものだ。

干渉的嘘についてどう思うか?
その嘘に有害な要素が含まれていない場合、賢者はそれを非難しないが、それを避ける。

干渉的嘘が必要となる場合がないか。たとえば、嘘が誰かの命を救うことができるとき。
この場合、賢者は事実に触れない嘘をつくことができる。しかし、彼はほとんどつねに、嘘をつく代わりに返答を拒否する。

喜ばしい嘘は許されるか?
賢者は自らに喜ばしい嘘を禁じる。

なぜ?
喜ばしい嘘は、他者に有用となる、保持されてきた言葉の権威性を犠牲にすることがある。

賢者は自己にフィクションを禁じるか?
賢者はフィクションを禁じない。例え話の寓話、象徴、そして神話を話すことはありうる。

男女関係はどうあるべきか?
男女関係は、すべての人々との関係と同様、絶対的に自由であるべきだ。

この関係において守られるべき規則はあるか?
互いの誠意を表すべきである。

愛についてどう思うか?
相互の愛は中立なものの中で最も美しく、美徳に最も近い。愛はキスを気高くする。

愛のないキスは誤ちか?
愛のないキスが二つの欲望と二つの喜びの出会いであるならば、それは誤ちとはならない。

第四章 社会について

私は孤立した個人と関係を持たないか?
私は孤立した個人だけでなく、さまざまな社会集団、そして社会との関係も持つ。

社会とは何か?
社会は共通労働のための個人の集合である。

共通労働は良いものでありうるか?
特定の条件下では共通労働が良いことがある。

どのような条件下か?
共通労働は、もし互いの愛や作業への愛を通して労働者全員が自由に行動し、その共通の努力が調和のとれた協調において彼らを団結させるなら良いものだろう。

社会的労働は実際にこの自由の特徴を持つか?
実のところ、社会的労働に自由の特徴はない。労働者は互いに従属している。その努力は自発的でも調和のとれた愛の行為でもない。消耗させるような拘束の行動である。

この社会的労働の特徴から何を結論づけるか?
社会的労働は悪であると結論づけた。

賢者は社会をどのように考えるか?
賢者は社会を制限と見なす。人間が死すべき存在であると同じように社会を制限的であると感じる。

その制限に直面した賢者の態度とは?
賢者はこれら制限を物質的必然とみなし、中立をもって肉体的に服従する。

知恵に向かって前進する彼に対する制限とは何か?
知恵に向かって前進する彼にとって危険をもたらす。

なぜか?
実際的に自らに依存するものと中立なものを揺るぎない確信によって区別することがまだできない彼は、物質的な制約を道徳的な制約に変えてしまう恐れがある。

不完全な個人主義者は社会的制約に直面したときにどうすべきか?
それらに対して理性と意志を守らなければならない。他者に課す偏見を拒絶し、それを憎んだり愛することを自らに禁じる。しだいにそれに関する恐怖や欲望から自らを解放する。完全な中立、彼に依存しないものに直面したときにおける知恵へと前進するだろう。

賢者はより良い社会を望むか?
賢者は自らに希望を禁じる。

賢者は進歩を信じるか?
賢者は賢人はすべての時代においてまれであり、道徳的進歩などというものはないと述べる。

賢者は物質的進歩を喜ぶか?
賢者は、物質的進歩はある人間の人工的欲求の増大と、他の人々の労働の増大を目的としていると気づいている。物質的進歩は彼には体重の増加と見える。それは人間をますます泥と苦しみの中へ投げ込むものである。

完全な機械の発明は人間の労働力を減らさないか?
機械の発明はつねに労働を悪化させた。より強い痛みと協調の欠如をもたらした。自由で知的な先駆けを、隷従的で恐ろしい精度に置きかえた。それは労働者を、かつては微笑む道具の主人だった者から、機械の震える奴隷へと変えた。

製品を何倍にもする機械が、なぜ人間の労働量を減らすことができないか?
人間は貪欲であり、いったん満たされると想像上の必要という愚昧が増大する。狂人が余計な物を持つと、さらに欲しがるものだ。

賢者は社会的行為を実行するか?
社会的行為を実行するためには他者に行動を起こさせなければならず、人間は合理的な理由ではなく情熱を介して行動することに賢者は気付いている。人間の情熱をかき立てる権利があると彼は信じていない。社会的行動は彼にとって専制政治であるように見え、参加することを拒否する。

賢者は人々の幸せを忘れる点で利己的ではないか。
賢者は「人々の幸せ」という言葉には意味がないことを知っている。幸せは内面的で個人的なものだ。自己の中でしか生みだすことはできない。

それでは賢者は被抑圧者に哀れみを抱かないか?
賢者は、呻吟する被抑圧者が抑圧者となることを熱望することを知っている。彼は自分の手段で彼らを安心させるが、共通行動による救済を信じていない。

賢者は改革を信じないか?
改革は物事自体ではなく物事の名前を変えることに賢者は気づいている。奴隷は農奴に、そして賃金労働者となった:言語以外の何も改革されなかった。賢者はこれら言語学の問題に無関心なままである。

賢人は革命的か?
経験が賢者に証明するのは、決して永続する結果をもたらさないということである。理性が彼に語るのは、嘘は嘘によって反論されないこと、そして暴力は暴力によって破壊されないことである。

賢者はアナーキズムについてどう考えるか?
賢者はアナーキズムをナイーブさnaivetéの形態と見なす。

なぜか?
アナーキストは、自由を制限するのが政府であると考えている。彼は、政府を破壊することで、自由を拡大することを望む。

それは正しいのではないか?
真の制限は政府ではなく社会である。政府は他のものと同様、社会的産物である。枝を一本を切ったところで木を破壊することはできない。

賢者はなぜ社会の破壊に取り組まないのか?
社会は死と同様、不可避である。物質的次元では私たちの強さはそのような限界に対して弱い。しかし賢者は、死の恐れを破壊するのと同じように、社会の恐れを破壊する。彼を待つ死の種類に無関心であるように、住んでいる環境の政治的および社会的形態に無関心である。

それでは賢人は社会に対して行動しないか?
賢者は、社会的不公平も海の中の水も破壊することができないことを知っている。しかし、溺れた人を救うために水の中に身を投じるように、抑圧された人を不正から救うために励む。

第五章 社会的関係について

労働は社会的か、自然法則か。
労働は社会によって悪化させられる自然法則である。

社会は労働の自然法則をどう悪化させるか?
三つの方法で。1―社会はすべての労働から任意の人間を分離させ、その負担を他の人間に課す。2-多くの人間を無駄な労働と社会的機能として雇用する。3-何よりも、特に富裕層の間で、想像的な欲求を倍加させ、その欲求の満足のための卑しい労働を貧しい人々に課す。

なぜ労働の法則が自然と思うか?
私の肉体は、労働の生産物によってのみ満足させられる自然な欲求を持つからである。

肉体労働だけを労働と見なすか?
疑いない。

精神spiritにも自然の欲求があるか?
運動は私たちの知的能力の唯一の自然欲求である。精神は運動と遊戯を永遠に必要とする幸福な子供であり続ける。

特別な労働者が精神の遊戯に機会を与える必要はないか?
自然の光景、人間の情熱の観察、対話の喜びで精神の自然欲求を満たすには十分である。

つまり芸術、科学、哲学を非難するのか?
私はそれらの喜びを非難しない。愛のように、それらが無欲である限りは高貴である。芸術、科学、哲学、愛において、自己に与える快楽は、それを受け取る彼の喜びによって対価を払われるべきではない。

しかし苦しみながら創造する芸術家、疲弊しながら探求する学者がいるではないか?
苦痛が快楽より大きいなら、それら哀れな人々はなぜ断念しないのかが理解できないが?

つまり、芸術家や学者にも肉体労働を要求するのか?
愛するものたちと同様、自然は学者や芸術家に肉体労働を要求する、他の人間と同じように自然欲求が課せられているから。

虚弱者にもまた物質的必要がある。それが不可能な人々にも労働を課すほど君は残酷ではあるまい?
もちろんそうだ。しかし私は肉体の美や精神の力が虚弱であるとは考えない。

つまり個人主義者は自らの手で労働するか?
そうだ、可能な限り。

なぜ「可能な限り」と言うか?
社会は自然法への服従を困難にしているから。すべての肉体労働に報酬があるわけではない。通常、私たちは個人主義者となるとき、肉体労働の見習いとなるには遅すぎる。社会は万人から、自然労働の偉大な道具である地球を、少数者に譲り渡すために奪い取る。

それでは個人主義者は、現在の状態において、本当の労働とは考えない仕事によって生きていくことができるのか?
できる。

個人主義者は役人でありうるか?
ありうる。しかし彼はすべての種類の役割に同意することはできない。

個人主義者が忌避する役割とは何か?
個人主義者は行政、司法、または軍事の命令のいかなる役割も放棄する。個人主義者は、知事、警官、将校、裁判官、死刑執行人のいずれでもない。

なぜか?
個人主義者は社会的暴君の間に現れることはありえない。

どのような役割を受け入れることができるか?
他者に危害を加えない役割。

政府が報酬を与える役割以外に、個人主義者が忌避する有害な職業はあるか?
ある。

いくつか挙げよ。
窃盗、銀行、娼婦の搾取、労働者の搾取。

個人主義者と社会的な劣等者の関係はどのようなものか?
個人主義者は彼らの人格と自由を尊重する。職業的義務がフィクションであり、人間の義務が唯一の道徳的現実であることを決して忘れることはない。階級が愚かなものであることを決して忘れず、社会的虚偽が劣等者とみなすが、彼は自然が平等に生み出した人間に対して自然にふるまうだろう。

個人主義者は社会的劣等者と多くのやりとりをするか?
個人主義者は彼らを混乱させる可能性がある自制を避けるだろう。しかし彼は、劣等者が社会的で不自然なものであると感じるのを恐れるために、ほとんど会うことはないだろう。つまり彼らが奴隷的であり、恥ずべきであり、敵対的であることを知ることへの恐れ。

個人主義者と同僚や仲間との関係はどうか?
彼は礼儀正しく、順応するだろう。しかし彼らを傷つけることなく、できる限り会話を避けるだろう。

なぜか?
ふたつの微かな毒から自己を守るために:集団への忠誠esprit de corpsと職業的精神麻痺。

個人主義者は社会的優越者にどのように立ち回るか。
社会的優越者の言葉はほとんどすべて中立なものを扱うことを忘れないだろう。無関心によってそれを聞き、可能な限りわずかに反応する。彼は異議を申し立てない。自己に最良となる方法を示さない。無用な議論をすべて避ける。

なぜか?
社会的優越者は、一般的に虚しく腹を立てやすい子供だからだ。

社会的優越者の命令が中立なものではなく、不正や残虐行為であるとき、個人主義者はどうするか?
服従を拒む。

不服従が危険をもたらすことはないか?
いや。不正や悪の道具になることは理性と自由の死である。しかし、不当な命令への不服従は身体や物質的な資源を危険にさらすだけであり、それは中立なものである。

命令の強制に直面したときの個人主義者の思想とは?
個人主義者は不当な命令者に精神的に述べる。あなたは現代の暴君の権化である。しかし暴君は賢者に対して何もすることができない。

個人主義者は自らの服従への拒絶を説明するか?
する、もし社会的命令者が自らの過ちを理解し、それを拒絶することができると考えられる場合。命令者はほとんどの場合理解できない。

それでは個人主義者はどうするか?
服従の拒否は、不当な命令への唯一の普遍的義務である。拒否の様式は私の性格次第で変わるだろう。

個人主義者は群衆をどう考えるか?
個人主義者は群衆をもっとも残忍な自然の力のひとつとみなしている。

無害な群衆の中で個人主義者はどのように行動するか?
群衆に順応していると自らが感じないように、また一瞬でも自らの人格がその中で溺れないように励む。

なぜか?
自由人であり続けるために。おそらくそれは、予期せぬ衝撃が群衆の残酷さを爆発させ、それを感じ始めた、群衆の一部となろうとする彼は、道徳的な情熱の瞬間に群衆と離れることが困難となるだろうから。

賢者は、不正や残虐行為を試みようとする群衆を見つけたときにどうするか。
賢人は、高貴で中立的ないかなる手段によってでも、不正や残虐行為に反対するだろう。

このような状況でも賢者が採用しない方法は何か?
賢者は虚偽者、祈り屋、または扇動屋に成り下がることはない。

群衆をおだてることは、強力な論説的手法である。賢者は絶対に自らにこれを禁じるか?
賢者は皮肉的に愛想よく助言を包み込み、群衆を子どもと同じように喜ばせるよう演説することができる。しかし彼は限界が不確かでありその冒険が危険であることを知っている。魂が堅固であるだけでなく、論説の柔軟さについても絶対的な確信がない限り彼はリスクを犯さないだろう。

賢者は法廷で証言するか?
賢者は法廷で証言することはない。

なぜか?
物質的、または中立な利益について法廷で証言することは、社会的偶像を犠牲にして専制を認めることを意味する。さらには、助けを求めるために権力に訴えることの中には臆病さがある。

賢者は訴えられたらどうするか。
性格によるが、彼は真実を語ること、または社会的専制に対して軽蔑と沈黙で反対することができる。

個人主義者が自らの罪を認めるとき、何を述べるか?
彼は自分の本当のそして自然な誤りについて述べる。そして告発されているところの表面的で社会的な誤りとは明白に区別する。彼は自らの良心が本当の誤りのために本当の罰を与えていると付け加えるだろう。しかし、表面的な誤りについては、社会は中立なものについてしか行為しないのであるから、表面的な罰を下すだろう。

告発された賢者が彼の良心の前には無実であり、法律の前に有罪であるなら何を言うか?
法的犯罪がいかに自然的に無罪であるかを説明する。法律、すなわち組織化された不正、肉体と富といった中立なもの以外には何もすることのできない無力なものに対する軽蔑を彼は語るだろう。

もし告発された賢人が良心と法律の前に無実であるなら、彼は何を言うか?
自らの本当の無実について語るしかない。これら二つの無実を説明しようとするならば、最初のものだけが彼にとって重要であると宣言するだろう。

賢者は民事法廷で証言するか。
賢者は、抑圧された弱者に対する証言を拒むことはない。

賢者は刑事裁判所または巡回裁判所court of assizeで証言するか。
する。もし被告人に役立つ真理を知るなら。

賢者が被告人にとって不利な事実を知るなら、彼は何をするか?
沈黙する。

なぜか?
非難は常に不正であり、賢者は自らを不正の共犯者にしないから。

なぜ非難が常に不正であると言うか?
他の人間に死を課したり投獄させる権利はだれにもないから。

社会には個人の権利と異なる権利がないか?
個人の集合である社会は、個人には存在を確認できない権利を持つことはない。ゼロは、どれほど足したところで常に合計はゼロである。

社会は一定の悪人に対する自己防衛の状態ではないか?
自己防衛の権利は、攻撃そのものである限り存続する。

賢者は陪審員となるか?
彼は第一の質問に常に「否」と答える。すなわち「被告人は有罪か?」

その反応はときに虚偽とならないか。
その反応は決して虚偽とはならない。

なぜか?
裁判長の質問は次のように翻訳されるべきだ:「あなたは被告人に罰を与えさせたいか?」そして私は誰にも罰を与える権利がないから「否」と答えるよう強制される。

決闘についてどう思うか?
暴力への訴えはすべて悪だ。しかし、正義に訴えることと比べれば、決闘のもつ悪は少ない。

なぜか?
それは臆病ではないから。助けを求めるのではないし、そして一人の人間に対する万人の力を用いるのではないから。

第六章 偶像の犠牲について

時代と国家の偶像を犠牲にしてもよいのか?
無関心をもって私は偶像が私から中立なものを奪うことを許す。しかし、私は自己に依存するもの、私の神に属するものを守らなければならない。

私の神と偶像をどのように区別できるか?
私の神は、エコーではなく本当に私の声である瞬間、私の良心によって宣言される。しかし偶像は社会の産物である。

他にどのような特徴によって偶像を認識するか。
私の神は中立なものの犠牲のみを望む。偶像は自らを犠牲にすることを要求する。

説明できるか?
偶像は最も服従的で劣等な方法、すなわち規律と受動的従順を美徳として宣言する。私の理性と意志の犠牲を要求する。

偶像は他の不正を犯すか?
自らより優れているもの、私が放棄する権利を持たないものを破壊することを望むだけでは満足せず、私にまったく属さないものを犠牲にすることを望む。つまり、私の隣人の生。

偶像の他の特徴を知るか?
真の神は永遠で計り知れない。常に至る所に存在し、私は常に至るところで理性に従わなければならない。しかし偶像は時代と国によって異なる。

偶像が時代によって異なることを示せ。
かつて私は自らの理性を抑圧し、隣人を殺すよう求められた。王や私の外に存在する私の知らない神の栄光のために。今日、私は祖国の名誉のために同じ忌まわしい犠牲を払うよう求められる。明日にはおそらく人種、肌の色、世界の一部の名誉のために求められるだろう。

偶像はその名が変わったときだけに変わるか?
偶像は可能な限り名前の変更を避ける。しかしそれはしばしば変わる。

名前の変わらない偶像の変化を挙げよ。
隣国では、祖国の偶像はプロイセンだった。今日、同じ名の下、偶像はドイツである。それはプロイセン人にババリア人を殺すことを求めた。その後、プロイセン人とババリア人はフランス人を殺すことを求めた。1859年、サボヤードとニコイは、ブーツのような形の祖国の前に屈する恐れがあった。外交の危険は、六角形の祖国を崇拝させる。ポーランド人は死んだ偶像と生きた偶像の間でとまどう。祖国の名を騙るふたつの生きた偶像の間でアルザス人はとまどう。

現在の第一の偶像は何か?
ある国では王や皇帝であり、他の国々では「国民の意志」と呼ばれる詐欺がある。いたるところに秩序、政党、宗教、祖国、人種、肌の色がある。私たちは、数千の名を持つ世論を忘れてはならない。最も強調されたところの「名誉」から、もっとも些細な「隣人が何を言うだろうか」という恐怖まで。

肌の色は危険な偶像か?
特に白い色はそうだ。それはフランス人、ドイツ人、ロシア人、そしてイタリア人を一つのカルトで団結させ、これら高貴な祭司は膨大な中国人から血塗られた犠牲を得ることに成功した。

白い色の他の犯罪を知るか?
アフリカの全土を地獄にしたのは彼らである。アメリカのインディアンを破壊し、黒人をリンチするのは彼らである。

白い色の崇拝者は血だけを偶像に捧げるか?
称賛をも捧げる。

称賛について話せ。
長くなりすぎる。しかし、白い色が犯罪を求めるとき、その典礼は犯罪を文明と進歩の必然と呼ぶ。

人種は危険な偶像か?
そうだ。特にそれが宗教と同盟するときには。

それらの同盟の犯罪について。
メデスの戦争、サラセン人の征服、十字軍、アルメニア人の虐殺、反ユダヤ主義。

今日もっとも要求的で、普遍的に尊敬される偶像は何か?
祖国。

祖国が特に要求するものは何か。
軍務と戦争。

個人主義者は平和時に兵士となることができるか?
できる。罪を犯すことを頼まれない限り。

賢者は戦時中に何をするか?
賢人は、真の神の秩序を忘れない。理性:汝殺すことなかれ。そして彼は人間より神に服従することを好む。

彼の良心はどのような行動を指示するか?
普遍的良心はほとんど特定の行為を命じることはない。ほとんど常に禁止である。隣人を殺したり傷つけたりすることを禁じ、それ以上何も語らない。方法は中立であり個人的な義務を構成する。

賢者は戦時中でも兵士であり続けることができるか?
賢者は、自らが殺害や傷害に関与しないことが確実である限り、戦時に兵士であり続けることができる。

殺人の命令への服従を正式かつ公然と拒否することは厳格な義務になりうるか?
そうだ、もし賢人が、彼の過去や他の理由によって、注目を惹く状況の中にいることを知るならば。そう、もし彼の態度が広く知られるのであれば、そのことは他者を善や悪に導く。

賢者は殺人の命令を下した士官に発砲するか?
賢者はだれも殺さない。彼は、君主殺しが意図的殺人と同様に犯罪であることを知っている。

第七章 道徳性と形而上学の関係について

道徳と形而上学との関係を考える方法はいくつあるか。
三つの方法。1―道徳は形而上学の結果であり、行動における形而上学である。2―形而上学は道徳の必要と前提である。3―道徳と形而上学は互いに独立している。

道徳を形而上学に依存させる教義についてどう考えるか。
この教義は危険である。それは、不必要なもの、確かなものの上の不確実、夢による実践の必要性を強いるものである。道徳的な生活をそれは恐怖と希望で震える夢遊病に変えてしまう。

道徳と形而上学を互いに独立させる概念をどう考えるか。
道徳的観点から支持できるのはこれだけである。これは実際に守られるべきもののひとつである。

理論的に、最初のふたつは真実の一部を含んでいるのではないか?
道徳的に誤っているが、それらはおそらく形而上学的意見を表現している。すべての現実が全体を形成し、人間と宇宙の間に密接な結びつきがあることを象徴する。

個人主義は形而上学か?
個人主義は最も異なる形而上学と共存することができるようだ。ソクラテスと犬儒派は形而上学に対して一定の軽蔑を持っていた。エピクロス主義者は唯物論者だった。ストア派は汎神論者だった。

形而上学的教義全般についてどう考えるか。
その美しさのために詩として愛する。

形而上学的な詩の美しさを構成するものは何か?
形而上学は、2つの条件の下で美しい。1―確固とした体系ではなく、他の詩を否定するのではなく、可能的と仮定的説明として受け止められるべきであること。2-統一への調和のとれた還元によってすべてを説明しなければならないこと。

肯定的な形而上学の存在下で私たちは何をすべきか?
それら詩と夢の体系を考慮するためには、肯定の醜悪さと重さを惜しみなく取り除くべきである。

二元論的形而上学についてどう思うか?
それらは暫定的説明、準形而上学である。本当の形而上学は、一元論に到達するもの以外は存在しない。

個人主義は絶対的道徳か?
個人主義は道徳ではない。それは私たちの知る最強の道徳的手法であり、美徳と幸福の最も不可侵の城塞である。

個人主義はすべての人間に適するか?
個人主義の見た目上の苛烈さに克服し難く反発する人間がいる。彼らは他の道徳的手法を選ぶべきだ。

個人主義が自己の本性にふさわしくないか知る方法はなにか?
個人主義を忠実に試みたのち、自分が不幸であり、真の避難所にいると感じず、自己や他者への同情に悩むのであれば、個人主義から逃れるべきだ。

なぜか?
この方法は私の弱さには強すぎるため、エゴイズムや落胆へと導くだろうから。

個人主義的な手法に対して私が弱すぎる場合、どのように道徳的生活を生みだすことができるか?
利他主義、愛、哀れみによって。

この手法は私を個人主義者と異なる行動に導くか?
真に道徳的な存在はすべて同じ行為を実行し、さらには、すべて同じ行為から自制する。あらゆる道徳的存在は他の人間の生を尊重する。道徳的存在が無用な富などを得ることに没頭することはない。

だれに個人主義的方法を徒に用いようとした利他主義者はどう言うか。
彼はひとりごちる。「私は進むべき同じ道を持つ。私は運命や人からの暴力を引き起こす、自分には重すぎる鎧を置き去っただけである。そして私は巡礼者の装備を選んだ。しかし、私はこの装備を自身を支えるためであり、他者を攻撃するためのものではないことに常に念頭に置こう」

 

(訳者:御厨鉄)

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