日本でも意外とファンが多いジョルジュ・パラントを訳しました。

パラントの翻訳は「個人主義とアナーキズム」につづく第二弾。原文はこちら

ペシミズムと個人主義の関係

Source: Pessimisme et Invidualisme. Paris, Alcan, 1914;
Translated: by Mitchell Abidor for marxists.org;
CopyLeftCreative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2006.

過ぎ去ったこの一世紀は、ペシミズムがもっとも多くの、もっとも多様な、もっとも活発な、もっとも体系的な解釈者たちを見つけたことは疑いのないことである。さらには、個人主義は当世紀において、高いクオリティで並外れた激しさで表現された。

私たちの時代に支配的であるこれら二つの思想形態をまとめることは興味深いことだろう。それらの間に存在する論理的また感情的つながりは何か、そしてどの程度まで悲観主義は個人主義を生みだし、また個人主義は悲観主義を生みだすかを問いかけること。

しかしこのような質問は一般的に過ぎる。多くの種類の悲観主義があり、多くの種類の個人主義がある。後者のなかにはペシミズムを内包しないものがある。それは非常に多くの道徳家、法学者、政治家が好む、フランス革命に由来する教義化された個人主義である。この個人主義は、スチュアート・ミルが「自由論」のエピグラフに選んだヴィルヘルム・フォン・フンボルトのフレーズをモットーすることができる。すなわち「偉大な指導原理は、人間がそのもっとも豊かな多様性において発展することが、絶対的にまた本質的に重要である、ということである」。この種の個人主義者は、すべての人間個人が社会において調和的に発展することができ、彼らの多様性は、人間文明の豊かさと美を約束されていると信じている。

これら個人主義者は合理主義者だ。彼らは理性、秩序、統一、調和の原則に信仰を持つ。彼らは理想主義者だ。つまり、社会正義の理想を信じている。ユニタリアン的、平等主義的に、個々人の違いと不平等にも関わらず、人類の根本的かつ真の統一を信じる。これら個人主義者は、シュティルナーが団結主義者、社会主義者を指すところの「ヒューマニスト」である。彼らの個人主義は外に、社会に向いている。これは社会的個人主義である、社会から個人を分離せず、それらを相反して置かないという意味において。それどころか、彼らはつねに個人を、全体の機能のなかでのみ存在する、全体と調和する社会的要素と見る。多かれ少なかれ堅固な社会的楽観主義を明らかに含意するこの個人主義を私たちは主張する気はない。

私たちがここで考える個人主義はまったく異なるものである。この個人主義は政治的、法律的、道徳的教義ではなく、心理学的、道徳的態度、感性の形態、人生に対する個人的感覚であり、人生に対する個人的意志である。

これら心理学的性質のすべての特徴、程度、ニュアンスを定義によって固定することは不可能である。そのことは自らを知らしめるすべての精神のなかの特別なトーンに影響を与える。

個人的な人生感覚として、個人主義は相違する唯一性、個人性の感覚である、それの持つ相違を持つ私的な、明らかにすることができないものの中における。個人主義は社会的慣習や既成の概念に直面する個人のインスピレーション、感覚の内面への主張である。個人主義は個人的確実性、知的概念と感情的超越性、内的な貴族主義を含意する。自我と他者の間の避けがたい差異であり、唯一性の理念の。個人主義は自己への回帰であり、自己への引力である。

個人の生への意志としての個人主義は、イプセンのキャラクター(ペール・ギュント)の願いに従うと「自己になるbe oneself」という欲望、独立と独創への欲望である。個人主義者は自らの製作者、真実と幻想の自己調達者、真実と幻想の自己建築者、夢の自己建築者、理想の自己建築者そして自己破壊者となることを望む。付記するとこの独創への願望は多かれ少なかれ過酷で精力的、野心的なものになりうる。多かれ少なかれ、また幸福でもある。原因となる個人性の質と価値に応じて、また個人の意志の強さ、激しさに応じて。

Untitled by Emilio Scanavino

人生への個人的感覚、また個人的意志として、個人主義は反社会的であるか、あるいはそうなる傾向がある:もしはじめからそうでない場合、後に不可避的に反社会的となるのである。自我の深遠な唯一性の感情、独創と独立への欲望。個人主義は個人的自己と社会のあいだの静かな闘争の感情を引き起こす。実のところ、すべて社会は個人の感情を可能なかぎり減少させる傾向がある。コンフォーミズムを通じた唯一性の減少、規範を通じた自発性、警告を通じた自己の即時性、社会的に定義されたあらゆる機能の内包する誠実さの欠如を通じた感情の誠実さ、あらゆる種類の社会的訓練と不可分の恥辱を通じた自己への自信と自尊心。個人主義がその自己と一般的自己の間に対立の感情を必然的に持つのはこのためである。個人主義はここで内的抵抗の受動的または能動的な内的反逆の原則、社会に対する宣言的または沈黙的反対、社会に自己を服従させることの拒絶、つまり社会に対する不信となる。本質的に、個人主義は社会的絆を軽蔑するとともに否定する。私たちはそれを孤立への意志、社会からの知的、感情的、理論的、実践的な撤退への行動として定義することができる、もし実際にそうでなくとも――Thebeiadの孤独、さらに近代的にはソローの孤独の例に従い――少なくとも魂と意志におけるある種の内的、自発的な撤退によって。社会から距離を置くこと、まさに社会の中心において実践できるところの自発的な道徳的孤立は、無関心と諦観の形態をとることができるし、反乱の形態を取ることもできる。あるいは傍観者の態度、象牙の塔における思想家の黙想的態度を想定することもできる。しかし、発達した無関心、撤退、または傍観的孤立のなかには常に内的反乱の残滓が存在する。

唯一性の感情と多かれ少なかれ個人的な力への意志の精力的表出、すなわち独創への意志、独立への意志、不服従と反乱への意志、自己への孤立と撤退への意志。ときにそれは、至高への意志、力の採用、他者に対する諸力の採用への意志ともなるが、しかしつねにそれは自己への回帰、個人的確実性の感情である、たとえ敗北の中においても、希望と理想の失敗の中においても。内的確信への到達不可能性、不変性、苦い結果に至るまでの自己への忠誠。ある者の誤解された理念への、ある者の難攻不落で不可侵な意志への忠誠。個人主義とは全体としても詳細としてもこれらすべてであり、状況と事態に応じて支配的な要素は。

個人主義、私たちが表現したように理解された個人主義は、すなわち、魂の内的気質として、感覚と意志としての個人主義はもはや、社会的生活、その要求と義務に向かい、あるいは従属する、先に述べた個人主義、政治的法的な個人主義のようなものではない。それは内部へ向かう。個人主義ははじめから、あるいは後に逃避として、破壊できない、触れることのできない内的存在への逃避を求める。

個人主義とペシミズムの感覚の間には心理学的に密接な関係があると言うことは、ほとんど明白なものを指摘することを意味する。ペシミズムは基本的な個人主義を前提する。自己へと回帰する(ほとんど常に痛みを伴う)感情の内面性、それが個人主義の本質であると前提する。楽観主義が抽象的な形而上学的テーゼ、教義的伝聞のエコーに過ぎないのに対し、ペシミズムは生きられた生の感覚である。それは内部から、個人の心理から来るものである。それは私たちにもっとも親密であるもの、すなわち苦しむ能力から始まる。自己に引きこもって生きる者、社会的生活を苦痛として見る孤独の本質を持つ人々の間で支配的である。サラブレッド(純血種)のペシミスト、悩める偉大な芸術家と理論家は、孤独に生き、人間たちの中にあって異邦人であり、皮肉と不遜の視線を投げかけるところの社会から、まるで要塞に入るように自我の中に撤退する。それは偶然ではない、ペシミズムがエゴイスト的な孤立を導くのは密接な心理学的関係によるのである。

まったく逆に、個人主義の精神はほとんど運命的にペシミズムを伴う。世界と同じくらい古い経験が私たちに教えるのは、自然において、個人は種の犠牲になるということではないか? 社会において個人は集団の犠牲となるということではないか? 個人主義は一方では個人と種の間の、一方では個人と社会の間のアンチノミー(二律背反)に対する絶望的な、諦観的な知覚である。

生が、疑いなく永続的にこのアンチノミーに勝利すること、そしてそれにも関わらずすべての人類が生き続けているという事実は、悲観主義と個人主義を共に批判する上で議論の余地のない反論に見えるかもしれない。しかしこれは確かではない。種としての、そして社会としての人類が個人の不服や反乱を気に病むことなくその運命を追求するのであれば、個人主義は万人にとって死ぬことはないだろう。つねに打ち負かされながら、決して手なづけられずに、独立の意志における独自性と唯一性の感情を注ぎ込まれた、特別な資質の魂に生まれ変わる。個人の能力を超えた諸力に囲まれ、目標を達成したのちに死んだすべての個人において個人主義は敗れる。しかし彼は世代を超えて生き残る、生に対する人間の意志としてのその力と明白さを強め、個人の意識を多様化し洗練されたものとしながら。したがって個人主義とペシミズムの両者の一致は、分かちがたく統一されており、相互に結びついていると確証づけられる。

しかしながら、ペシミズムと個人主義の間に発見したと信じるところのこの心理的な結びつきは、ア・プリオリな見解にほかならないことがありうる。もし心理学的考証ではなく19世紀の思想史をたどるのであれば、私たちの示唆する思想との関係が、一見するよりも簡単はなく一貫してもいないことに気づくだろう。精確な思想にたどり着くことを望むのであれば、私たちはペシミズムと個人主義を異なる形態において詳細に探求し、その関係をより綿密に分析しなければならない。

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