知性ある人にとって、人類の大半はおバカである。

このシンプルな事実を指摘したところ、批判的なコメントがついた。自分を賢いと思いたいだけだ、優越感を得るためだとか、そのような。

ここにはひどい誤解がある。

平均人、大衆、普通人がおバカであること。これは悲観的事実なのだ。

世の中の人間が賢人ばかりだったらどれほど良いだろうか? そのような社会は、まったくのユートピアである。

現実として、人間の大半は愚かだ。「それでも人類に希望を持とう」という姿勢は理解できる。しかし私は甘美な理想だけを信じるバカではない。だからそれを受け入れた。

悲観的事実を受け入れたために、私はプルードンもクロポトキンも、アナーキストの大半が胸中に抱く「理想社会」も投げ捨てなければならなかった。

理想社会は実現しない

私は理想社会を信じていた。人間を信じていた。しかし、私は気がついた。「彼ら」と「私」は違うということに。

私はひとつの三段論法を信奉していた。「私は自由を愛する」そして「私は人間である」ゆえに「人類は自由を愛する」。

これは事実ではない。人類は、必ずしも自由を愛することはない。自由より隷従を望む人間が存在する。そしてそういう人間が大半なのだ。

これは自然の与えた不平等である。自由に用意されている人間がいて、そうでない人間がいる。

人類は自己家畜化している。

多くの素朴なアナルコ・プリミティヴィスト、左派人類学者が信じるように私たちは「狩猟採集民」として生まれるわけではない。「文明人」として生まれることがありうる。

農耕が始まって1万年間、300世代以上の間、私たちは農耕社会に適する人間となるよう改良されてきた。つまり、人間に有用な種となるように動植物を家畜化してきたのと同じように、私たちは「人間に有用な人間」となるよう人間を家畜化してきたのである。

だから、大半の人間は「家畜的」である。

このことを疑う必要があるだろうか? 自分の意志を持ち、自由と独立を求める人間はつねに通例というより異常だった。そして今でも異常である。

自由を求める人間が、家畜的な人間を、自分と同じような人間であると信じること。家畜的人間を解放しようと試みること。それは、楽観的理想主義であり、盲目的である。その結果は「賢人とバカと奴隷」に描かれている。

奴隷根性は、遺伝子にまで根付いている。それは「彼ら」が生まれもった自然なのだ。自然を歪めることはできないし、無理矢理に彼らに自由を与えること、それは彼らの自由を奪うことにほかならない。

例外的個人と社会

ところで「私」とは何なのか。なぜ私は大衆と異なり、隷従よりも自由を望むのか。

このことは、私はやはり自然の気質に由来すると考えている。つまり、家畜化にもスペクトラムがあり――人類のなかにも容易に手懐けられない、家畜化されていない人間が存在するのだ。

さて、私は自分と同じような、この、自由と独立を望み、成熟し、また成長を求める、過剰で横溢する力を欲し、人生の苦難から目をそらさない個人を「例外的個人」と呼ぶ。彼らは社会から逃れるか、あるいは反抗するかはわからないが、ともあれ反社会的である。

一方で、社会の持つコンフォーミズムと強制とに服従する向社会的な人々がいる。彼らはもはや個人とは言いがたい。彼らは社会の体現せるところの媒介者、エージェントに過ぎない。

つまるところ、「私」は「彼ら」は違う、個人と社会は違う、という当たり前の事実に気づけばよいのだった。

「人間」という概念が神に代わる信仰となるとすでにシュティルナーが指摘していたが、まさに私は人間という概念に縛られていたわけだ。

ところで、このような書き方は選民思想のように思われるかもしれない。しかし私をエイリアンかなにかのように扱い、「彼ら」と「私」が異なることを痛みをもって教えてくれたのは、「私」ではなくつねに「彼ら」だったのである。

無論、完全に家畜化されない人間がいるとすれば、一種の精神疾患に近いものになるだろう。私は自分の内面に多くの家畜的傾向を認めることができる。一例をあげれば、私は東アジア人であり、東アジア人は高度に家畜化された人種である。自分が家畜化されていること、それは否定できない。個人は多数なのだから。

だから、私は「距離のパトス」を持つ。つまり、「彼ら」と同じではありたくないと思う。それは私が一貫した人間でありたいという欲求による。弱さより強さを、服従より自由を求める。それはオルテガの言う精神の貴族主義であり、意識的努力によって私は自己を規律する。

笑う個人

Constantin Piliuta

世界にとっては遅すぎるかもしれないが、個人的人間にチャンスはつねに残っている。
It is probably too late for the world, but for the individual man there always remains a chance.
(ヨシフ・ブロツキーのノーベル賞講演より)

「大衆の意識」などというものは変革できない。彼らは抑圧されているわけでも、洗脳されているわけでもないからだ。そして「国家」を解体すること、それも不可能である。少なくとも、ひとりの人間では。

それでは、私はどのように生きるのか?

Quoraで、「20代や30代で時間を無駄にすることって?」 というような質問を見ていた。そのなかの回答のひとつにこうあった。

「世界を変えようと試みること。この世界で君が完全にコントロールできるのは自分という人間だけだ。これは偉大なスタート地点でもある。誤解しないでほしい、社会的意識を持つことはすばらしいことだ。しかし、個人が自らのコントロールを超えたもの(選挙結果のような)にとりつかれることは、極めて不健康である」。

この回答に私は共感する。これはエピクテートスの考え方でもある。エピクテートスは、自分がコントロールできるものとできないものを区別せよと説いた。自分がコントロールできないものに気を病むことは意味のないことだと。

私は自分の自由を求める。自分が有能で、強力で、自由な個人であることを求める。私はすべての支配への反抗を準備する。私は、大衆に何も求めない。社会がどうなろうと、国が栄えようと滅びようと、大衆が死のうと、苦しもうと、意に介さない。それはシュティルナーが言ったように、頭の中の「おばけ」に過ぎない。それは私が楽しみ、おもちゃにするときにのみ存在する。

もっとも、私は孤独に引きこもるわけではない。反社会的でもない(だからブログを書いている)。私は社会的に「選択的」なだけだ。私は大衆に愛をもたないが、その分、自分と同じような例外的個人を深く愛するだろう。

人類とは、社会とは、国家とは、私にとって笑うもの、おもちゃにして遊ぶべきものに過ぎない。

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