2019-11-05

あなたは人間が好きですか?

私はずいぶんMisanthrope(人間嫌い)になってしまいました。

個人主義の思想家、ジョルジュ・パラントの「人間嫌いのペシミズム」(Misanthropic Pessimism, 1914)を翻訳してみます。「人間嫌い」は長ったらしいので「厭人的」と訳しています。

人間嫌いのペシミズム

Source: Pessimisme et Individualisme. Paris, Alcan, 1914;
Translated: by Mitch Abidor for marxists.org;
CopyLeft: Creative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2006.

by Emilio Scanavino

今私たちが研究しようとするペシミズムは、厭人的ペシミズムと呼ぶものである。このペシミズムは憤りや苦しみという感覚からではなく、私たちの種のもつ邪悪な側面に対して批判的で明晰な視点をもたらすところの明快な知性に由来する。厭人的ペシミズムは、普遍的欠陥と普遍的無能の、普遍的卑劣さと普遍的堕落の理論としてあらわれる。薄のろとペテン師、虚弱者と愚か者に満たされた世界の容赦ない描画として。

この悲観主義の性格は、普遍的な冷たさと意図的な無感覚、センチメンタリズムの不在からなる。これらは絶望や反乱の傾向をもつロマン主義的悲観主義とは区別するものである。ヴィグニー(訳注:アルフレッド・デ・ヴィグニー、フランスの詩人)の無音の絶望は苦痛の叫びよりも哀れである。シュティルナーにおいて我々は反逆への必死の強調を見る一方、ショーペンハウアーにおいて我々は世界の苦痛の悲劇的感情と、虚空への絶望的な訴えを見る。厭人的ペシミストというと、彼はなんら不平を述べない。彼は人間の状態を悲劇的とは受けとめず、運命に立ち向かうことはしない。彼は同時代人を好奇心をもって観察し、彼らの感情と思想を無慈悲に分析する。そして彼らの盲進、うぬぼれ、偽善、無意識の重犯罪、そして知性と道徳の弱さを愉しむ。このペシミズムのテーマを構成するのは、もはや人間の苦痛ではなく、生の病でもなく、人間の邪悪さと愚かさなのである。このペシミズムのより好ましいライトモチーフは、次のよく知られた一句だろう。「もっとも愚かな動物は人間である」。

このペシミズムがとくに焦点をあてる愚かさは、ドグマ的な愚かさとでも呼ぶべき、盲進的でこれ見よがしの愚かさであり、その荘厳で専制的な愚かさはそれ自体を社会的ドグマと儀式、世論へと繰り広げ、自らを神聖なものとし、その永遠に対する見立てにおいて百もの矮小でバカげた偏見を明らかにする。ロマン主義的ペシミズムは苦しみ、呪う能力から始まるが、厭人的ペシミズムは理解し、軽蔑する能力によってはじまる。それは知性ある、シニカルな、誇り高い観察者のペシミズムなのである。彼はマイナー調や悲劇的調子よりも、軽薄persiflageの調子を好む。スウィフトは人間の論争の虚栄心をビッグ・エンディアンとリトル・エンディアンの聖戦(訳注:「ガリヴァー旅行記」の卵を大きい方から割る人々と小さい方から割る人々の対立)によって象徴化し、ヴォルテールはパングロスの形而上学的愚かさとカンディードの単純な繊細さをバカにしている。バンジャマン・コンスタンは人類と社会について赤い手帖(「わが生活」)とジャーナル・インタイムにおいてエピグラム的に言及している。スタンダールは、そのジャーナルと「アンリ・ブリュラールの生涯」において、彼の家族、親族、主、側近、スタンダールの友人であり見習い人であるメリメについて、人間の本質に対するアイロニックな観察をもって、多くの厭人的観察を含めている。フローベールは彼の操り人形であるフレデリック・モロー(「情操教育」の主人公)とブヴァールとペキュシェ(「ブヴァールとペキュシェ」の登場人物)において、その阿呆さを攻撃している。「Thomas Graindorge」のテーヌ(訳注:イポリット・テーヌ)、「Reflexions d’un pessimiste」のChallemel-Lacourはみな、この種の高慢で、笑顔の、軽蔑的でペシミスティックな知恵の代表的タイプとみなすことができる。

真実、このペシミズムは私たちがロマン主義的ペシミズムのもとに分類した少数の思想家たちにとっても異質なものではない。さまざまなタイプの悲観論には接点と侵入点を持っているからである。ショーペンハウアー、またシュティルナーは、人間の愚かさや盲進、迷妄に対して皮肉な言葉を用いている。しかし彼らの厭人的ペシミズムにおいて、その純粋な状態を見つけることはできない。苦しみの、絶望の、反逆のペシミズムに、あるいはロマン主義的ペシミズムの特徴である感情的パトスに従属するものにとどまる。厭人的ペシミズムはおそらく現実主義的ペシミズムと呼ぶことができるだろう。実際に、(スタンダールやフローベルのような)ひとつ以上の代表例において、それは正確で詳細な慈悲無き観察の精神に基づいており、また現実主義的審美に特徴的な点である客観性と無感情について考慮されているのである。厭人的ペシミズムは、どのようなペシミズムが個人主義者を生むかの理論を確証付けるだろうか? それはたしかではない。先に引用した思想家たちにおいては、個人主義の自発的孤立の態度を思いつかず、実践せず、推奨もしなかった者がいる。彼らは人間に対して幻想を抱くことはなかったが、社会から逃げることもなかった。彼らは人間とまじわることを、彼らの中心で生きることを受け入れた。ヴォルテールは社会性そのものだった。野心の男スウィフトは、オーベルマンやヴィグニーの持つ孤独の性質をまったく持っていなかった。しかし、先に引用した厭人的ペシミストのなかでは、特にフローベールとテーヌが、知的な孤立、思想への隠遁を、凡庸さと卑劣さのこの世界で、魂の高貴さと思想の洗練を持つ人間の唯一肯定的な態度として、実践し、理論化し、推奨した。

「千の顔をもつ愚かさ」の妖怪に取り憑かれたフローベールは、いたるところにそれを見つける。彼は芸術と沈思の純粋な喜びにそれからの避難を求めている。彼はいう。「私はひとつの偉大なことを理解した。我々の種の人間にとって、幸福とはイデアのなかにあり、他のどこにもない」。「君の弱みはどこから来ているか?」彼は友人への手紙で書いている。「君が人間を知っているからではないか。それがなんの違いをもたらすか。君は思想のなかにおいて、隣人からの大海の距離を保てるような、すばらしい内的な防衛ラインを確立できないだろうか」。

すべてのものに対して心配と嫌悪を嘆く文通者に対して彼は書く。「君には欠けている感情、というよりは習慣があるようだ、それはウィットと、沈思への愛である。人生を、情熱を、自分自身を知的実践の対象としたまえ」。そして再度述べている。「懐疑主義は苦々しいものではない。君はそれによって人類の喜劇のなかにいるように思えるだろうし、ただ君ひとりにとって歴史が世界を横切るように見えるだろうから」。

テーヌは人類に対する厭人的ヴィジョンによってストイックで禁欲的な人生観に導かれ、知性を、自らを孤立させ、世界の邪悪さ、愚かさ、卑劣さから自らを守る至高の亡命所と見なしている。ひとつのアナロジーがテーヌをフローベールと結びつける。テーヌは科学的分析を、フローベールは芸術と沈思を求めたのである:知的なアリバイ、社会的環境milieuの現実からの脱出の手段として。

この結論は論理的である。厭人的ペシミズムは、瞑想的孤立を示唆し、また生みだす。知的に人間を軽蔑するためには、自己を人間から分離して、遠くから彼らを見なければならない。畜群を離れ、「人間の中にあって森の木々のなかのように生きる」デカルト的態度にたどり着かねばならない。私たちが何を望むとしても、また望まないとしても、ここには論理的孤立、一種の知的唯我論、「どこへうろつくにもすべてから身を引き離す(テーヌ)」、貴族とディレッタントの持つ無関心がある。

私たちは厭人的知性の明晰な視界は、それ自体のなかにおいて、反社会的なものを持つことを付け加えよう。皮肉の主題としてとるならば、一般的で平均的な人間の愚かさは、第一秩序の社会的価値観を尊重することなく扱うことを意味する。愚かさとは偏見の本質であり、それなしでは社会的生活は不可能である。愚かさとは社会的建造物のセメントなのだ。アナトール・フランスのTrublet博士は「愚かさは秩序ある社会の第一の善である」と述べた。社会的慣習は個人の愚かしさを隠蔽し、支持し、保証し、保護し、神聖化する全般的な愚かさによってのみ生き延びる。このことが、なぜ批判的、皮肉的、ペシミスティックな知性が社会の溶解剤であるかの理由である。社会的に尊敬されている「凡庸さと愚かさ」に対する敬意をそれは欠く。それは社会の保守的な要素である尊敬と信用を攻撃する。

終わりに

パラントは、人間嫌いのペシミズムが冷徹な現実主義的であると主張します。

彼はショーペンハウアーやシュティルナーに見られるロマン主義的ペシミズムと、フローベールの描いたような現実主義的なペシミズムを対比させています。

人間嫌いのペシミストは、人間を同情なく無慈悲に観察し、冷静に判断をくだします。彼は人間たちの愚かさの現実を受けとめながら、その事実に抗おうとはしないし、悲嘆にくれることもありません。彼がするのは、笑うこと、軽蔑することなのです。

私が思いだすのは、人間のなかで泣いたヘラクレイトスと、人間のなかで笑ったデモクリトスの対比です。パラントは後者を支持するというわけでしょう。

パラントは孤立や隠遁のようなライフスタイルを「論理的帰結」として描いています。

パラントは瞑想と孤立のなかに幸福を見いだそうとする人間を、単に隠者的であるというより、反社会的であると考えます。これはパラントに特徴的な思想なのですが、彼は個人主義と反社会的態度をイコールで結びつけている。批判的精神は「愚かさ」という社会的結合を溶融させる第一のものだと彼は考えているようです。

以下は私の感想です。

私もかつてはパラントがいうようなロマン主義的ペシミストであり、人間の愚かさを嘆き、それを改善しようと試みたことがありました。しかしながら、人間の愚かさとは、何かの間違いによって起きているのではなく、むしろ愚かな方が自然であり、必然でさえあると気づき、それ以降は、人間の愚かさ、無能さを、昆虫の肢の構造を観察するような感覚で、非常にニュートラルに受け止めるようになりました。私は積極的に軽蔑して愉しむような気持ちにはなれませんが、やはり社会や人間集団を遠ざけたいという気持ちは強いです。

ところで、パラントが影響を与えた代表的日本人には夏目漱石があげられます。彼の作品にも人間嫌いのペシミズムが感じられるが、いかがでしょうか。

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