2019-11-20

我々に守るに値するほど神聖なものはない。

ティーンのアナーキスト、Echoの「Philoclasticism – The Affinity to Destruction」を訳しました。フィロクラスティシズムを「破壊愛好主義」と勝手に訳しています。

Falling Angels – Aydin Aghdashloo

破壊愛好主義 破壊への愛好

破壊は、私の個人性の究極の肯定である。私を私にするものである。破壊の哲学は私の行動のなかにある。私にはそれ以上の説明も、正当化もいらない。だが、私がなぜ破壊に関心を持つのか示すとしよう。

目的をもってなにかを初めて破壊したときのことを覚えているだろうか? それは瓶だったか、窓だったか、壁を壊したのかもしれない。君がなにを壊したかは重要ではない――そのとき君が何を感じたかだ。それは強さの感覚だ。それに少しばかりの自由の感覚。自分で推進していくという決定の感覚。創造がただひとつの良いものだというマインドセットの破壊。障壁の破壊。自分がなりたいものになれているという感覚、道徳的に正しいとだれもが君にいうことに堅固に反対しているという自己認識。君は自分を自由にする。

その瞬間、理解する――君が望むものはただ瓦礫と灰からやってくることを。君は破壊が自己推進self-propulsionそのものであり、同時に障壁を取り除き未来の自己推進を可能にするものでもあると理解する。

我々は全生活を教えられている――それに触れずにおこう、君はそれを破壊する。放っておこう、それは古く美しきものだから。君のものではない。そしていま私は君に言おう、仲間よ、どうか破壊してほしい。放っておくな、破壊愛好者となり打ち砕くのだ!

我々に守られるに値するほど神聖なものはない。

しかし、私は何を知るか? 私はティーンだ。野蛮人だ。偶像破壊者だ。暴動主義者だ。真実、私は何を知るか?

私は自分の望みが自由となることであると知っている。抑圧のためにつくられた役割を果たすことは望まない。だから、私は戦う。破壊する。攻撃する。

ここに断言するために私はいる。そしてそれは成功するだろう。

君が最初の瓶を壊したときの感覚。私はそのために生きている。私は中毒なのだ。警官に催涙スプレーをかけられた日に中毒になった。反逆することを学んだ日。彼らは反対するに値しないが、反対することも可能であると学んだ日!

だから、私の反対は破壊にある。レンツォ・ノヴァトーレとともに私は言おう。「あなたのつくる社会のすべてには縁(ふち)がある。そして社会の縁で、英雄的で落ち着かぬ放浪者は、野生と処女の思想とともにさまよい、新しく恐ろしい反乱勃発を準備することによってのみ生きることができる!」

私は落ち着かぬ放浪者である。そして私は準備する。計画する。考える。

偶像の世界を見ることに、革命を待つことに私は疲れてきた。だから私は自分の、永遠の暴動を始めたというわけだ! 私は共産主義が達成されて長くあとだろうと、別のシステムだろうと、それを続けるだろう。なぜなら私はシステムのない世界を獲得せんとしているからである。人々が完全に自己推進的となり、したがって真に唯一者となれるような激動の世界を私は求めているのである。

そして破壊は、構造の締めつけをゆるめ、自己推進的となり、真に未来を自己決定する方法である。

私は自己推進の感覚に満たされた心の、破壊的な力で満たされた個人の、自己肯定に満たされた世界が見たいだけである。私は偶像破壊者たちが、切り裂くべき新しい物事を探して大地を放浪するのを見ることを望む。

そして彼ら全員との私の約束だ――私はつねにあなた方のなかにいる。そしてもしこれをひとりの人間でも読み、我々の破壊の背後にある白熱した真実、攻撃行動の背後にある哲学を理解し、最初の瓶を破壊したときに心を満たした感覚を理解するならば、我々は希望を持つことになる、自由になることを望む他者がいるからである。破壊を望む他者がいるからである。

そして我々を抑圧するものを破壊したら? そのとき、ただそのとき、我々は自由になれる。そのときのみ我々はほんとうの自己を示し、真に個人となり、真に公然と唯一者になることができるのである。我々の現在の唯一性は自分を定義する上で選ぶことのできるあれやこれやの特徴によって定義される。それはもはや自由になることで世界に身を投じ、どこに自分を落ち着かせるか、といった問題ではないのだ。個人は定義されるものではない。個人はつねに新しく、一度たりとも他のもののレプリカではないからである。だから我々はそれを攻撃もする――我々が定義されなければならないという概念を。ノーム・チョムスキーがかつて言ったことを考えよ:人々を受動的に保つスマートな方法とは、受けいれられる意見のスペクトラムを厳格に制限するが、そのスペクトラムの範囲内では非常に活発な議論を許すことにある。私はこの発言を変えよう。人々を抑圧されたままに保つスマートな方法とは、彼らの存在の選択肢を厳格に制限し、一方で彼らを最良に定義する選択肢を見つけようと激しく闘争することは許すのである。

だから、我々はもう定義されないようにしようではないか!

そして定義されざる者でいることに伴う自由への鍵とは、破壊である。

自由は創造から生まれるものではない――創造は役割を重視し、創造物が守らなければならないという概念を生む。破壊は見るものがいかようにも使える、ただ空っぽの空間を生む。

私の創造への反対は、しかし、絵画や彫刻のような芸術に反対すると見られてはならないし、あなたを幸せにするものを持つことに反対するというわけでもない。都市と農場のような事柄とは違う。それらは役割を我々には課さないし、文明を支持するというわけでもないからだ。

なぜ我々は破壊への道から逸れてしまったのだろうか? なぜ破壊しないのか?

そして最後に、私がこのエッセイ全体で述べてきたことを示そう。破壊愛好主義の概念である。つまり、破壊への愛好。もちろん、これは単にクソなことを打破するにとどまらず、破壊の実現であり、つまり自己推進との関係でもある。私が先に述べたように、破壊はそれ自体において自己推進の行為であるが、同時に他の機会の可能性を開くことでもある。このように、破壊は自己推進の完全な形態である。

しかし――このことは不穏な結論を導くかもしれない、もし自己推進的であることの意味を理解しなければ。破壊愛好主義で人々にクソなことをするのを正当化できるという結論に至るかもしれない。しかしそれは間違っているだろう。自己推進的であることは自由である、The Coming Insurrectionにおいてthe Invisible Committeeが言っているように、自由とは「[我々のつながり]に働きかけ、その空間を動き、そのつながりを形成あるいは解体するような実践的能力である」。このことは、我々が自由になることを望むのであれば、結晶化された役割をつくりだす余裕がないことを意味する。我々は関係性に働きかけることはできないからである。君が人々にクソなことをすれば、彼らに役割を強制することとなり、君が望むように支配下に置くこととなる。すると突如として、君は自由になる能力を失ってしまう。君は自分の結晶化された自分の役割を形成するからである。君は自分の望むように行動する能力を失い、関係に働きかける能力も失い。君は征服者の役割のなかにあり、征服者でいることの関係を終わらせるまでは、自由ではありえないからである。君は征服者として人々と関わることを余儀なくされる、自分自身としてではなく。

だれもこの立場になる者はいないと予想する。受け入れがたい困難な立場だから。しかし君には奨めたいのだ――いますぐ出かけよう。そして破壊するにはあまりにも重要なものを手に取り、まさしく、破壊しよう。そのときの感情を、自己推進の感覚を学び、中毒になろう――破壊愛好者となろう!

訳者あとがき

一般に考えられているほど、アナーキズムは「破壊」を重視しません。アナーキズムは創造や発展に価値を起きます。たとえばアナーキストが好むのは「自己創造」や「自己発展」です。

Echo氏の思想は、創造に対して批判的であり、破壊こそが自由であると考えている点で特異な思想です。

Echo氏の主張には、あきらかにエゴイズムの影響が見られます。たとえば「守るに値する神聖なものはない」というのは、エゴイストの決り文句のようなものです。シュティルナーの「唯一者」を読めばわかりますが、彼もまたさまざまなおばけを派手に破壊した人物です……。

ともあれ、私たちはさまざまな因習に縛られ、「役割」「定義」を強制されて生きています。破壊がなければ創造はありません。生きる上での限られた選択肢を私たちは与えられており、そのなかで奮闘することは奨励されますが、その外の生き方は与えられません。

破壊がなければ創造がない、という点でEcho氏には同意します。

それにしても、10代でレンツォ・ノヴァトーレを知ってるとはうらやましくなりますね。私は今年知りましたから。

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