2019-07-25

たとえば、君はレスラーに対峙した。

レスラーは異様なまでに筋骨隆々だ。その目は何百人もの格闘家と戦った者だけがもつ鈍いかがやきをもっている。彼の全肉体は、あきらかに、生まれ持った才能と日々の過酷な鍛錬をあらわしていた。

きみはこうは言うまい。「はは、あんなのは雑魚だね。簡単に勝てるよ」。

ヘラクレス像

ところで、生まれつき優れた知性をもち、さらに知的な鍛錬を繰りかえした賢人がいる。こういう人間は、レスラーとは違った反応を受けるだろう。

「あいつの言ってることはなんでもない」「俺の方が物事をよく知っているんだ」「あいつの頭はヘンになってるのさ」

これは不思議なことだ。

もっと不思議なことがある。物事をよくわきまえているはずの賢人が、「なるほど、彼らは私と同じくらいの知性を持っている、それは間違いのないことだ」と信じることだ。

精神のマチスモ

肉体と精神はよく似ている

肉体の鍛錬が、大きな負荷を必要とすること、多くの栄養を必要とすることはよく知られている。

一方で、知性も負荷と栄養がなければしぼんでしまう。このことはあまり知られていないようだ。

なぜ彼らはたわいのない雑談を嫌うのか? ワイドショーの問題について考えること、会社のルーティンな仕事を続けること、グルメや贅沢品を嫌うのか。 非社交的だからか? シャイなのか? 怠惰なのか? 人生の楽しみを知らないからか? そうではない。そこにあるのは、退屈である。――ウェイトリフターに2kgのダンベルを渡したときのような、退屈。

知性ある人はなにを好むか。孤独であり、黙想であり、書籍であり、論理であり、あらゆる意味での難問である。究極的に、かれらの多くは、「生とは、死とは?」「いかによく生きるか」といった難問を好むだろう。それはかれらにとって最適な負荷だからだ。

ところで、彼らは「真実の探求者」ではない。彼らはたしかに真理を追求するが、それは手段であって目的ではない。ダンベルを持ちあげる人が目標としているのは、ダンベルを持ち上げることではない。強くなること、肉体を美しくすることである。それは、自分に力をつけること――力を所有することである。ところで、肉体の鍛錬者にダンベルに執着する人はいないが、知性を求める人にダンベル愛好家が多いことはよく知られている……。

「真実の探求者」を自称する人、科学者や哲学者がそうだろうが、彼らについても同様である。もし「真理」を見つけたら、彼らはすぐさまそれが嫌になって投げ捨ててしまうだろう! もし真理があったなら、それに満足したとき、彼の知性はそれ以上の高みを目指すことができないからである。彼の知性はしぼんでしまう。だから、ある人間が「真理」を見つけたとき、それをあらゆる手段によって否定し、すぐさま別の「真理」を見つけ出そうとする。その「真理」は、より洗練されて、完全に見えるかもしれないが――ひとつの誤謬である。

生のニヒリズム

真理の探求は、ニーチェによれば、「力への意志」の表現のひとつに過ぎない。真実とは、もっとも真実らしい誤謬のことである。「事実など存在しない。そこにあるのは解釈だけである」。私はニーチェの言っていることが正しいと思う。

知的に生まれた人間、鋭敏な神経をもって生まれた人間は、知的に生きなければならない。芸術家、哲学者、宗教家、なんでもよろしい。それはそういう職業につけというのではないし、成功を追い求めよ、というのでもない。結果ではなく、行為の問題なのだ。「実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する(ギーター)」。そうでなければ、君は満足できない。君は生まれ持った才能を腐らせて、生きることのないままに死ぬことになるだろう。

君は自分の腕をみつめて、とてもヘラクレスには勝てないだろうと考える、攻撃するよりも逃避を好む、痛いのは苦手だ。だがそのことを恥じる必要はない。自然の与えた不平等などどうしようもないことだ。世の中には、知的に優れた人間がいる。優れない人間がいる。肉体的に優れた人間がいる。そうではない人間がいる。それは自然の与えた不平等だ。だから、君は胸をはって生きてもよいが、むやみに知性を誇ることがあってはならない。

生の開花――それがあらゆる人間に課せられた唯一の義務である。まえにも書いたが、閉じ込められて、栄養不良で、萎縮した、不完全な、奇妙な人間を私は嫌悪する。このような人間こそもっとも不幸な存在である。彼らにくらべれば、飢えや寒さ暑さなどはたいした苦しみではない。

肉体に恵まれた人間は格闘技やスポーツをするときに幸福である。あるいは隷従するよう生まれた人間は、企業に奉仕するときに幸福かもしれない。知性ある人間は、知性を育まなければならない。

自分が自分のあるべき存在ではないこと、これほど苦しいことはない。

真理は存在しない。真理とは、個人が満足を得るための手段にすぎない。ただ個人の生の完成こそが、もっとも重要であり、ほかはすべてそのための道具にすぎない。

自己ではなく真理を求めるとき、真理は毒になる。

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