原発事故について語って欲しい、というコメントがあったので回答します。

御厨鉄さんは福島原発事故についてどのようにお考えでしょうか?「レベル7」というチェルノブイリ級の汚染地に住民を住まわせ、さらには避難者を強制帰郷させることは、私的にド級の「構造的暴力」だと捉えているのですが、御厨鉄さんのご見識においてどのような扱いをされるか大変興味があります

言っておきますが、私は質問への回答が苦手です! 大目に見てくださいね。

福島原発事故とは何だったか

まず、私は質問における「強制帰郷」や、汚染地に「住まわせ」たことについて詳しくありません。私が知るかぎり、政府(主語を政府として考えます)は特に高度に汚染された地域に国民を住むことを強制したことはないです。

もちろん、プロパガンダや情報秘匿などは明らかに存在しました。そこには「構造的暴力」は確かにあったでしょう。しかし、それが「ド級」だったか? 私はそうは思いません。

政府が国民を殺した!

政府の対応について、一国民としてレビューをしてみます。

一言でいうと、原発事故の対応は「異常時における平常運転」であり、「不快ではあるが、納得・理解できる」ものでした。

政府は国民の生命を考えていませんでした。国民の安全を考えるなら、政府は国民を強制的に非難させるべきでした。私が特に憤りを感じたのは、もっとも責任がなく、もっとも放射能の影響を受ける子どもたちを逃さなかったことです。

「原発事故での死者はない」という主張をときどき目にしますが、ジョークや修辞学としてはおもしろいですが、具体的な反証がいくらでもあげられることは別として、放射能による晩発障害は多かれ少なかれ発生する、あるいは発生していると私は考えています。単なる予想ですが、数千人、あるいは数万人が放射能の影響で死ぬでしょう。もっとも、日本政府に統計を期待すべきではないので、結果は闇の中なのですが……。

政府は国民に危害を加えた。その配慮のなさによって、国民の生命や安全を脅かした。人命を守る上で必要な処置をとらなかった。これは事実です。おそらく、もっと市民の力の強い国家では、このような露骨な「反人権」的な対応はありえなかったでしょう。

しかし、政府はつねに暴力的である

日本政府はひどい! 暴力的だ! そう言うことはできます。事故当時の私もそう考えました。「このような犯罪が許されるのか?」「政府は国民のためにあるのではないか?」「政府が国民の生命を脅かすことがあって良いのか?」

しかし、今の私は「国家はそのようなものだ」と考えます。

政府は国民のためにあるのではありません。国民を守るため、食わせるため、生かすために存在するのではありません。もちろんそう声明しまた実際にそう行動するが、それは二次的なものに過ぎない。政府は支配システムの維持と拡大のために存在しています。

原発事故のときに政府がしたことをよく思い出してみましょう。政府は、実のところ、原発の問題それ自体にあまり関心はなかった。もちろん原発は巨大なビジネスであり、支配層にとってはやみつきになるパンケーキのようなものです。しかし、背中に火がついてるときにケーキにかじりついてはいられない。

原発事故はシステムにとって深刻なエラーでした。それが国民のあいだに起こしたのは、政治家や官僚、産業界、あるいは学会――すなわち支配層に対する不信、批判、あるいは摘発や追求でした。どうやらこいつらに任せてはおけないぞ、こいつらは俺たちにとって「良い」ものではないぞ、と下々の国民が考えるようになった。

政府にとって、「私たちはあなた方のためにある」と国民に思い込ませることがは必要不可欠です。そうでなければ支配を正当化できないからです。国民が政府に対して幻滅するほど恐ろしいことはない。それは支配構造にとって非常に脅威となる。政府にとって、原発が爆発して、何万人が死のうが、苦しもうが、それ自体はシステムへの脅威ではない。ただ、国民が国家に対して怒りや不審を持つこと、その結果として政府を直接に攻撃するようになること、支配システムを破壊しようと試みること、それこそが最大の脅威です。

政府にとって最優先事項は、原発の収束ではなかった。「国民の収束」だった。

だから、政府は、原発の収束や人々の避難よりも、ただ国民の動揺を落ち着かせることに力を尽くした。いかに人々をなだめ、日常生活に復帰させるか?

政府はつねにマスコミを道具として用います。当時のテレビを見ていればわかりますが、そのはたらきかけは巧みで強力なものでした。

たとえば、マスコミは支配層対被支配層という対立構造を、原発推進派と廃止派とにすりかえました。このはたらきかけは見事でした。左翼はつねにシステムにとって便利な存在ですが、このときも彼らは「廃炉派」となり、すりかえに貢献した。支配システムに対する追求は、ここで殺された。人々はもはや支配層のことを考えるよりも、原発を残すべきか、廃止すべきかを考えるようになった。彼らの敵は、同じ被支配層になった。

また、「原子力ムラ」というフィクションも巧妙なものでした。この言葉によって、あたかも原子力関係の支配構造が異常なのであり、他の支配構造は健全であるかのように描いた。これで階級構造全体に批判の目が及ぶリスクが低くなった。

なにより、汚染はそれほどひどくないのだ、「風評被害」だ、放射能は大した害はないのだ、といった主張は繰り返しなされました。これは明白なプロパガンダですが、もし「強制帰郷」のようなことがあれば、それはこのプロパガンダの一環でしょう。

私が原発事故における政府の対応を理解できるのは、政府が合理的に立ち回ったからです。その持てる力をフルに発揮してシステムの維持を達成しました。政府の対応は、その政府の本来の役割を果たすという意味で納得できるものであり、「平常運転」でした。

暴力を飲み込む国民

私の目に異常に映ったのは、支配層よりも、むしろ被害を受けた被支配層でした。彼らはあまりに――ちょろかった。あっけなく敗北した。地震により目覚めかけた彼らは驚くべきはやさで「従順な国民」に戻ってしまった。

「絆」を守ろう。「がんばろう日本!」。「自然災害」にめげない人々を見て涙を流そう。汚染食品を「食べて応援」しよう。そして、余計なことを考えずに毎日勤勉に働こうではないか――私たちの国、日本のために!

これは外国人から見ても非常に奇妙だったのではないでしょうか? 原発が爆発して、健康被害を受け、住むところを失い、多くの腐敗が明らかになり、欺かれていたことを知ったにもかかわらず、つぎには「日本のために」がんばろう! というのだから……。

私が知る範囲では、事故がおきて3ヶ月は、国民は目を覚ましていました。半年もすれば、人々はもとの羊に戻ってしまいました。

もちろん、そこには鎮圧するためのプロパガンダの猛攻があったことは事実です。しかし、政府の構造的暴力は、政府の冷酷さによってだけでは成り立ちません。この国民の従順さによって成り立っています。支配関係は支配する側とされる側のバランスによって決まります。被支配者が自ら力をもって立ち上がろうというとき、支配層はその支配を緩めます。暴力革命はシステムの最大の脅威ですから。

そういった意味で、私は「無辜の人間などいない」と考えています。政府はクソですが、従順な、ぐーたらな国民もクソでした。彼らもまた「構造的暴力」に寄与している。

何が暴力では「ない」のか?

ところで、私は「構造的暴力」という言葉は好ましいものではないと考えます。それは範囲が不明瞭だからです。

一般的には構造的暴力がさすものの例として、「貧困・飢餓・抑圧・差別・愚民政策」があります。

たしかに、原発事故の政府対応は「構造的暴力」でした。では、なにが「構造的暴力」ではないのか? 国家が構造的暴力を持たないことはあったのか?

子どもたちを学校へ行かせるのは構造的暴力でしょう。税金を徴収することも構造的暴力でしょう。マスコミを管理し、手懐け、人々を洗脳することも構造的暴力でしょう。警察や司法が人々の行為を禁じること、それもまた暴力でしょう。私たちはそれらが暴力ではないと教え込まれているだけで、実は純然たる暴力です。

結局、支配システムがあるところ、暴力は存在します。国民国家は暴力に満ちた社会です。そもそも、国家は暴力を独占することによって成立するシステムなのに、どうして国家が非暴力的でありうるでしょうか?

構造的暴力という言葉は、なんとなく「構造的暴力のない国家」という理想モデルを想起させます。それは左翼的幻想です。むろん欧米先進国であれば、日本政府よりもましで、より巧妙な対応をしたでしょう。しかしそれは政府に善意や非暴力への意志があるからではない。国民が政府に対して比較的強い立場にあるから、つまり支配関係のバランス、それだけです。システムの維持のためにより巧妙に、より上手に国民をなだめる必要があるというだけで、結局、国家が暴力的存在であることは変わりません。

そういった意味で、原発事故の政府の対応は、特に暴力的だったとは思いません。ただ「見えやすい」暴力だった、それだけだと私は考えます。

おわりに

以上、回答してみました。何かの助けになれば良いのですが。

原発事故は、今となってはクリアにシンプルに理解できることなのです。それは国家や政府といったものの役割をある程度理解できているからです。

しかし、事故当時は無知な学生だった私にとって、震災と原発事故は衝撃的でした。まさに心を揺り動かした事件でした。

それはもちろん政府について考えることもそうでしたが、文中にも書きましたが、国民がいかに操作され、なだめられ、沈静化させられるか、それについても大きな衝撃を覚えた事件でした。

もしも原発事故がなければ、私はアナーキストにはなっていなかっただろうと思います。

最後になりますが、以前、原発事故について、シュティルナー主義者が書いた「あなたの主人より」という手紙を訳しています(3.11――「社会的大災害」でも目の覚めない奴隷)。原発事故が、海外のアナーキストにとってどのように映ったかが書かれており、興味深いものです。

で、以上書いて思ったのですが、質問に回答するのはなかなか楽しいです。私に聞きたいことがある人は、なんでも聞いてください。

3 comments

  1. なんでも聞いてくださいとのことなのでお言葉に甘えます。

    経団連に続いてトヨタまで「終身雇用は無理」と言い出しました。
    リストラが普通に行われていることを考えると終身雇用は既に終わっていたという方が正確だと思いますが、とにかく建前上の終身雇用すら否定したことで、いわゆる氷河期世代の様な状況が世代を問わず増えていくのではないでしょうか。
    そういう明日も知れない状態が当たり前の世の中になった場合、アナーキストは増えると思いますか?

  2. ご丁寧にわざわざ記事にして回答頂き誠にありがとうございました。多くの論者が原発事故についてはスルーですが、御厨鉄さんはきちんと事実を踏まえ、また諸学を統合した知見でもって検証しておられ、さすがだなと思いました。またいつか機会がございましたら3.11や(放射能オリンピックと揶揄される)東京五輪についてお聞かせ下さいませ。今後ともよろしくお願い致します。

  3. いつも興味深く記事を拝見させていただいております。
    現実問題として、生きていくための思想として読ませていただいております。
    せっかくのお申し出に便乗させていただきまして、お尋ねいたしますが、「安楽死」についてはどのようにお考えでしょうか。

    現在、高齢化による社会保障費の負担が増大しております。
    まだ日本では議論はあまり進んでおりませんが、自殺幇助が合法であるスイスのディグニタスという機関では、すでに過去にも安楽死を希望する日本人数名に対する自殺幇助が行われているようです。
    延命措置に関わるコストや生命の尊厳の観点から安楽死の導入が期待される一方、安楽死はシステムにとっても都合の良いものだと思われます。
    つまり、システムに有用な人材は必要だが、労働力として使えない老人、病人は不要である。
    そこにリソースを投じるメリットがないので切り捨てることができるようになる。
    表向きはシステムが「あなたが野垂れ死ぬよりは安らかな死を提供します」という形で、安楽死を余儀なくされるということが考えられます。
    しかし、アナキズムと自由を考える上で、死の問題は避けては通れないと思います。
    資本主義は死を隠蔽することで発展をしてきたという言葉を耳にしたことがあります。
    出典は不明ですが、的を射てると感銘を受けました。
    死というものから遠ざけられてしまっているために、隷属を余儀なくされている部分があるかと思います。
    つまり、老後のために現在を犠牲にして金銭的労働に従事し続けるというような事です。
    自由を求める上で死を取り戻す必要があると思われます。
    鶴見済の完全自殺マニュアルと通づる話かもしれません。
    私の考えるアナキストは自由を求めて野垂れ死ぬのが理想だと思うのですが(アナキストの銀行家になれない場合)、それにはかなりの覚悟が必要かと思います。
    安楽死があると大分やりやすくなるとは思うのですが、それこそシステムに死の面倒を見てもらうという事になってしまいます。
    私個人としてはスイスに行く金を準備しておいて、あとは望むように生きていくのが妥協案かなと思っております。
    アナキスト的には政府にそのような権力を渡すべきではないかもしれないですが、それによって自由を得られる部分も少なからずあると思うのですがどうお考えになられますか?
    それとも野垂れ死ぬ覚悟くらいは必要でしょうか?
    長文失礼いたしました。

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