2019-08-11

脳の裏がひりひりするような怖い話。

Quoraを読んでいたら、非常にインパクトのある話があったので紹介します。

「リズム・ゼロ」マリーナ・アブラモビッチ

原文:QuoraのAyse T. Dogu氏の回答より


1974年、当時まだ無名だったパフォーマンス・アーティストのマリーナ・アブラモビッチは、パフォーマンス・アートの歴史のなかでもっとも記憶に残り、語り継がれる、そしておそらくもっとも恐ろしいパフォーマンスを行った。このリズム・0と呼ばれるショーでは、彼女が行うことは非常にシンプルである:ただじっとしていること。彼女はまたさまざまな道具や素材をテーブルに置いて、ショーを見に来た者たちが選べるようにした。テーブルには花やチョコレート・ブラウニーから、チェーンやナイフに至るまで、あらゆる種類の道具があった。そこには銃と弾丸まであった。だから来訪者は善と悪を選ぶことができるのだった。すべて来訪者は好きな物を使用することができた。

ショーの間中、彼女は無生物の物体のように受動的である。彼女の目的は、自らを生きる芸術作品のようにすることだった。しかし、この6時間のパフォーマンスが、人生で最悪の日となることを彼女は知らなかった。

当初、来訪者は非常に親切であり、善意をもっていた。ある者は彼女にバラの花をもたせ、ケーキを食べさせた。ある者は彼女の髪を愛撫し、握手をした。しかし、ときがたち、パフォーマンスが続くにつれ、作品の様相が変わりはじめた。まず、来訪者のひとりが彼女の顔を軽く平手打ちした。アブラモビッチがほんとうに反応しないことに気がつくと、集団のなかには彼女をより激しく打つ者があらわれた。さっきは彼女と握手をし、バラを与えた人々が、彼女がほんとうに脆弱な存在であることに気がつくと、暴力的傾向を示すようになった。しかし起きたことはこれにとどまらない。

群衆のなかのひとりが銃を手にとり、それを彼女の額に向けた。それから彼は銃を彼女の手に持たせ、銃口を首元に向けさせた。彼らのなかには、ペンで額に落書きをするものがいた。それから、虐待がはじまった。きつく抱きしめたり、キスをしたり、唾を吐きかける者がいた! しまいには、群衆は彼女の服をハサミで切り裂き、彼女を裸にした。しかし彼らはそれで満足しなかった。

群衆のなかのひとりは、彼女の腹部をナイフで傷つけた。他の人々はそれをはやしたてた。彼らは彼女を何度も出血させた。その血を吸う者までいた。それから彼らはマネキンのように彼女を持ち運んだ。テーブルの上に彼女を乗せてなんども虐待を繰り返そうとする者までいた! しかし彼は止められた。

群衆のなかには戸惑う者がいたが、他の人々が写真を撮って、それを彼女に持たせるあいだ何もしなかった。そのあいだ、彼女は涙を流していたが、群衆は彼女を物として扱うことを求めた。

そのとき、群衆のなかの女性が彼女の涙をぬぐい、彼女を抱きしめた。ついに、困惑した少数派があいだに入ったのである。ある者は彼女の傷をきれいにし、ある者は彼女に服をかけた。落ち着かせるためにタバコを吸わせる者もいた。

パフォーマンス・アートというよりは社会実験となったこのイベントは、いかに多数派が互いに増長することによって邪悪さを露呈するかを示すこととなった。また、勇気と団結を示すことの不可能性、あるいはそれが遅すぎてしまうことをも示した。

6時間後、パフォーマンスが終わり、アブラモビッチがふたたび動きはじめたとき、群衆は彼女から逃げだした。まるで恐ろしい人間にでも出くわしたかのように。自分でためらいなく邪悪なことをした人間が、ふたたび個人性をとりもどしたときに、彼らは直面することを恐れたのである。<訳ここまで>

「そのときの傷がまだ残っている」と彼女は静かに語った。

「私はちょっと狂ってたみたい。私は公衆が人間を殺しうることに気づいた。もし彼らに完全な自由を与えれば、彼らは殺人を犯すほど熱狂するでしょう」。最悪なことは何だった? 「男が私の額に銃を強く押しつけたこと。私は彼の意志を感じることができた。そして、女が男に何をすべきか言うのが聞こえた。最悪なのはある男がずっと、ただ呼吸するだけで、そこにいたこと。私にとってはそれが一番怖いことだった。パフォーマンスのあとには私の髪の一部は白くなっていた。それから長いあいだ、恐怖感をなくせなかった。このパフォーマンスのおかげで、私はそういう危険に身を置かないようにする境界線を知ることができた」(The Gardian, インタビュー記事より

感想「群衆はクソ」

群衆はクソ。これが読んで第一に思ったことです。

このリズム・ゼロ以降、アブラモビッチ氏は来訪者に場を支配させるようなパフォーマンスはしなくなりました。耐えがたい最悪の経験だったということでしょう。以下は個人的感想。

少数派は常に正しい

このパフォーマンスは全体的に胸糞が悪くなる内容ですが、彼女を救う「少数派」が登場することでまだ希望が持てます。

群衆はつねにアホです。「頭のいい人はなぜ優しいのか」にも書いたのですが、アホな人はどんなに極悪非道なことでも「周りがやっているから自分もやろう」となります。そうやってアホがアホ同士でエスカレートしていきます。アホですね。

一方、少数派や頭のいい人は「周りが何をしていようと自分にとって何が正しいかを考える」傾向があります。自分で考える能力を持つかどうか――実にこれが愚人と賢人を分かつ点なのです。

投稿者のDogu氏はこのパフォーマンスからひとつの道徳を導いています。

ひとりの女性が正しいことをすると、そのことが周囲の人間を変えた。だからこのようには考えてはならない。「私の単純な行為でなにが変わるというのか?」

無力な者は虐待される

このパフォーマンスでは、抵抗する意志のない者、抵抗する力のない者がどのようになるかが描かれています。

キリスト教道徳では「弱い者」「無抵抗の者」「すすんで頬を差しだす者」が偉いとされます。日本でも「俺はバカで無力だけどそれでいいんだ」と大半の人が思っています。まあ民衆がクソザコの方が、こき使ったり重税で搾取するのに便利がいい。

そういう無力な者はどうなるか? 虐待され、搾取され、地獄を味わうのです。リズム・ゼロから私が感じたのはそういうリアリズムです。まあ、キリスト者は天国で救済されるらしいからいいですけどね。

アブラモビッチ氏が動きだしたときに群衆が逃げ惑ったのは非常に愉快でした。彼女は無力で無抵抗な人間から個人性をとりもどした――それは抵抗する、拒絶する、反逆する力を有するひとりの人間となったことを意味します。暴虐だった群衆は彼女と面と向かうことすらできなくなった。

無力で弱いことは善ではありません。ただ食われるだけです。そういうことを感じました。

ともあれ、非常に「怖い」そして意義のある芸術だったと思います。アブラモビッチ氏はこのパフォーマンスから一躍有名になったようですが、私も彼女の勇気と大胆さをとても尊敬しています。

1 Comment

  1. 「少数派が正しい」のか、「正しいことをする為に考え、それを実行し、その行動に責任をもつだけの勇気を持った人たちが少ない」ということなのか。結果は同じですが。

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