2019-02-27

アナーキスト二年生になりました

アナーキストであると自覚してから一年がたった。

はじめはおっかなびっくりアナーキストを名のり、興奮しながらアナーキズムを調べた。ただ、いまはアナーキストは私にとって何でもない、空気のように当然の思想である。

現状でどのような思想をもっているのか、軽くまとめようと思った。

ちなみに私の「個人主義的無政府主義記念日」は昨年2018年、1月25日。

私とアナーキズムの一年間

余は如何にして無政府主義者となりし乎

自分が抱いている世界に対する漠然とした感情、皮膚感覚がアナーキズムという名前であると知ったときはおどろいた。アナーキズムは政治思想という感覚が強く、私は政治的なものと縁遠い人間だと思っていたのだ。

いまでも私は政治と無縁でありたい人間だ。しかし政治はいやおうなく個人を巻き込むもの。私たちには自分の統治者に投票する自由はあるかもしれないが、投票からも統治者からも逃げだす自由はないのである。

アナーキズムという言葉を本当の意味でしったのは一年前である。それまで私は多くのひとびとがそうであるように、世の中には資本主義と共産主義、社会主義しかないと思っていた。

したがって多くのアナーキストと同じように私は共産主義からアナーキズムに入った。哲学が好きだった私はミシェル・フーコーに強い関心をいだき、次に彼の師匠といえるマルクス主義哲学者、ルイ・アルチュセールを読んだ。彼の「国家のイデオロギー装置」という概念は漠然としているがたいへん包括的な概念で、学校、軍隊、宗教、家族といったイデオロギー装置を通じて国家が人々を操作しているというようなものだ。

そこで私は「学校ってどうなのか?」「家族とは何だったのか?」と、これまで当たり前に受け止めていた諸概念に対して根本的に問い直す必要を感じた。

アルチュセールの次に、私はメキシコの社会学者、イバン・イリイチを熱心に読んだ。彼のテーゼを簡潔に言えば「学校は悪」というもの。私は学校が死ぬほど嫌でトラウマをたいへん抱え込んだから、胸が軽くなる思いがした。

また私は数年前、個人的な事情で警察の刑事課のお世話になり、そのときから警察に強い不信を抱くようになった。2000年頃、警察の内部告発が盛んになった時代の著書を多く読むようになり、日本の警察が完全に腐敗していることを知った。

次に私は国家に対してその権威を完全に信じなくなった。折しも日本礼賛ブームで、国家に対する嫌悪感が余計に強まった。「日本人論」に関する批判、ハルミ・ベフやピーター・デールを読み、日本人論が完全にエセ科学であることを知った。また私は英語を学びはじめ、批判精神をもった外国人が日本に対してどのように感じているかを知った。日本人的とされる特徴が単なる奴隷の鎖であることを知った。

また、私は賃金労働者としてのトラウマに満ちた数年間を通じて、労働倫理に対して強い拒絶感を抱いた。マルクスの資本論を読み、資本主義の経済構造と階級構造を理解した。ただ共産主義そのものは信じられなかった。史的唯物論はでたらめの妄想に思えた。

さて、国家の権威を信じず、学校生活・賃金労働を牢獄として認識し、軍隊と警察はクソであると知り、共産主義に対して否定的である人間は、完全にアナーキズムへと準備されていたと言うべきだろう。

私はいまだにアナーキズムを信じている

一年がたった今でも、アナーキズムは思想、哲学、政治、way of lifeとしてもっとも正当で倫理的、さらにもっとも普遍的で自然であると考えている。

人類学、歴史学、生物学、心理学を調べるたびに人間にとってアナーキズムがいかに正当であるかを確信させられた。「銀行家」が語ったように、「読んだものすべてがこれらの意見を確証づけた」のだった。

決定的だったのは、人間は何十万年もアナーキストとして生きてきたという事実だ。私たちはたまたま何かの不幸で階級秩序のまっただ中に生まれてしまったに過ぎない。

資本主義は片隅であり、共産主義も同様である。しかしアナーキズムは、そのふたつを飲み込んでありあまる広い思想だ。いまのところは、私は今後もアナーキストであり続けるだろうと信じている。

知的到達点としてのアナーキズム

アナーキズムは極めて単純な思想だが、理解しやすい思想ではない。

アナーキズムはイデオロギーのすべてを攻撃する。

宗教。国家。資本主義。間接民主主義。法律。学校。賃金労働。結婚。家族。これらのイデオロギーを棄却したところにアナーキズムがある。

多くの人々にとってこれは困難な思想だ。

学校がなければバカが生まれる。法律がなければカオスになる。資本主義は人々に自由と豊かさを与える。家族や宗教は生きる意味を与える。国家は私たちの命を守る。ふつうの人はそう考える。

徹底した刷り込みの効果が、ここにあらわれている。テレビをつければ家族愛、楽しい学校生活、さも有能そうな成功した実業家、お国のために働く兵士、尊敬すべき天皇、偉大なる我が国、といったイデオロギーが大衆を飲み込む。

人々はなぜ簡単に欺かれるのか? 生まれたときから国家や学校、メディアによって繰り返し刷り込まれているからだ。孵化直後のひな鳥が親鳥を誤認するように。

アナーキストになるということは、私たちがもっとも身近に感じている集団や社会の主義信条から身を引きはがすことである。それは通常、母体から出生するときのような耐え難い苦痛と困難をもたらす。

しかし、だれかが言ったように、「人はまず人間となって、次にアナーキストとなる」。私たちが社会的役割や偏見を拒絶して「内なる声」に従ってゆくとき――つまり「自己が自己となるとき」――ひとは必然的にアナーキストとなるのである。

そういった意味で、アナーキズムは神秘思想的な部分を持つと同時に、合理的な批判精神の不可避の到達点であると私は考えている。

私のアナーキズム

アナーキズムは自然であり、文明は反自然だ。学校や家庭のようなイデオロギー装置は人々を自然人=アナーキストの状態から文明人につくりかえる。いわば文明的なものはすべて、人々を自然から引き離し、同時にアナーキズムから遠ざける。

自然から離れた人にとって、私のアナーキズムはかなり過激に、異常にさえ見えるだろう。

私の現時点での考えはこうだ。暴力は悪ではない。悪人を殺すことは生産的だ。医療は有害だ。結婚は不幸だ。重度の障害者は出生時に殺すべきだ。そしてほとんどの場合、子どもを生むことは悪である。さらに言えば、私は人類は滅びるか、滅びかけることが良いと考えている。

おおよそ常識とはかけ離れているだろう。

さて、どうして人類が滅びた方が良いのか?

アナーキズムの実現を困難としているのは膨大な人口数である。アナーキズムが実現していた時代の人口は数百万人であり、現代の1000分の1。

農耕革命が起きてから、人類は爆発的に増えた。

人類がもし社会的不幸をなくしたいと考えるなら、人口を減少してアナーキズムを実現するか、あるいは人類を滅亡させるか、そのいずれかであると私は考える。

人々は巨漢を線路につき落とすことで5人の鉄道作業員を救うべきかの議論が好きだが、これはたしかに意味深い。

私はアナーキスト革命が実現可能なら、それによって人類の99.9%が死のうと構わないと思っている。

もし0.1%が適切に繁栄し、現代のような厄災に満ちた社会を生まないのであればそれは良いことである。0.1%が繁栄に失敗して人類が滅亡したとしても、人類がもはや苦しまなくなったのだから良いことである。

実際に、ジャレド・ダイアモンド氏などは、おそらく農耕革命の前夜には、「農耕か人口制限か」の選択が迫られていたと考えている

「家畜化」――個人主義か集団主義か

人類は救われることを望むか?

一方で、私はアナーキズム、とくに集団主義的アナーキズムに深い疑問を抱く点がある。それは「人類の家畜化domestication」という問題である。

文明が生まれ国家が生まれて一万年が経つが、これは約300世代に相当する。この世代数は人類が遺伝的に変化する上で不十分ではない。

進化人類学者のグレゴリー・コクランとヘンリー・ハーペンディングの共著である「一万年の進化爆発」では、人類は文明による環境変化に伴って遺伝的に大きく変化(進化爆発)したことが描かれている。

階級社会ではコンフォーミティによって人々は利益を得る。現代社会を見てもわかるが、世間の慣習に従う人間は繁殖の機会に恵まれ、多産である。一方で反逆者は子どもをつくる機会は少ない。反逆者は社会的階級が低いか、低くなる上、殺されたり投獄されることがあり配偶の機会に恵まれない。このような繰り返しにより、文明社会=階級社会では世代を追うごとに従順で管理しやすい人類が増えていく。いわば家畜の品種改良と同じである。

人間が家畜化された動物であるならば、アナーキズムの実現は人類にとって幸福にはなるまい。何かに従属して強者の支配を受けることは彼にとって「自然」であり、「本能」であり、自由を強制することは悪となる。

生物学的な事実が示すところでは、新人類にはネオテニーの傾向があるとされる。つまりある程度は自己家畜化されているのだ。経験から言っても、奴隷状態を好む人は少なからず存在する。

一方ですべての人間が家畜化されているわけではないと私は信じている。それは私自身に対する感覚であり、私が共感する少数者に持つ感覚に由来する。

悪の源泉、サイコパス

警察がなくなれば人間は互いに奪いあい、殺しあうだろう――そういった空想劇は私たちに徹底して叩き込まれている。これは無理がない話で、警察のように特権的に武装して人々を暴力で捕らえる存在はフィクションなしでは正当化できないからだ。

近年の研究の示すところでは実態は異なる。自然状態は「殺し合い」ではなく「助け合い」であり、「競争」ではなく「協力」だった。私たちは警察などの法的拘束がなくても互いに助け合う本能を持っている。

ある研究では、人は「囚人のジレンマ」のような利己的または利他的な選択を迫られたときに、先に利他的な判断をすることが明らかになっている。利己的な選択をする人は、先に生じた利他的な判断を打ち消す形でそれを選択する。つまり、速い判断=本能的な判断は利他的なのである。私たちの自己中心性は後天的なもの、文化や教育によって獲得されるものだと言える。

よろしい、人間の本性は善だ、それではなぜ社会は悪で満ちているのか? と人は問うだろう。私はこの点は、サイコパスと家畜化で説明できると思っている。

初期人類はサイコパスを追放して生きていた。共感性がなく、他者を自分の都合のいいように支配しようとする人間と共存する意味がない。場合によっては殺しもしただろう。しかし、定住生活によって自由を奪われることで、人々はサイコパスと共存してゆかねばならなくなった。

さて、私たちが日常生活で感じるように悪は感染する。サイコパスが強い影響力をもつところでは、冷淡さ、詐術、マキャベリズム、サディズムが蔓延する(思い当たる教室や職場があるのではないか?)。マキャベリズムは政治中枢の権謀術数に必須であるために、おそらく上位階級であるほどサイコパスの比率が多いだろう(→パソクラシー)。サイコパスはその獲得した権力と影響力によって世に害悪を撒き散らす。アイヒマンはただの小市民だったのであり、彼を巨悪に導いたのは他の人間、あるいは構造だった。

私ははじめ、人類の悪の起源はこのような少数のサイコパスで説明できると考えていた。ただ、やはり家畜化も重要であることに気づいた。

なぜなら、一人の暴君が存在するところには膨大な数のコンフォーミストが存在するからである。暴君の虐殺を許し、あるいはよろこんで尻尾をふる権威主義的な大衆が存在する。

少数のサイコパスと多数の家畜――おそらく文明社会というのはその両輪で構築されてきたのだろうというのが私の考えだ。

サイコパスは近年、急速に研究が進んでおり、生物学的に同定することが可能となりつつある。そうなれば、理論的には人類社会からサイコパスを隔離することが可能である。政府中枢や強い権力をもつ要職からだけでもサイコパスを隔離すれば世界はかなり良くなるだろうと私は考える。もっともこれは「改革」的な考えだけど。

一方で人類の家畜化についてはまだ研究が進んでいない。私たちホモ・サピエンスがもしも支配されることを愛する家畜的動物で、その家畜化が不可逆的であるならば、アナーキスト社会は実現しようがない。

少数の自由を愛する人間は、いわば社会から抜け道的に、集団ではなく個人として、自らの自由を追求する他ないだろう。

アナーキストとしての今後

私は一年間アナーキストであったように、これからもアナーキストであるだろう。

ただ、何か政治活動をはじめようという考えはない。爆弾は投げないし、黒い旗も振らない。ただ、個人主義者として、好きなように生きようと思っている。

賃金奴隷との決別

賃金奴隷は今年で辞める予定である。また短時間労働で働くか、車上生活で生きていこうと思う。

さいきん思うことは、樽の中で暮らしたディオゲネスに比べれば車上生活はだいぶ贅沢なものということだ。

今後私は何を書くか

このブログには自分が書きたいものだけを書いていこうと思っている。

私のブログは翻訳や本の引用が多い。オリジナリティがない、自分の意見を書けと言われることがある。

ただ、すでに優れた文章があるときに、それに劣る文章を書くことに価値があるだろうか。優れた文章が埋もれているときにサルベージすることは十分に生産的だと思っている。

このブログではアドセンスを貼らないことにした。はてなブログの方はべたべた貼ってあり、一日数百円くらいになっている。

アドセンスを貼らないことで、検索流入や読者数など余計なことを懸念しなくてよくなる。

私はもう、広く大衆に向けて何かを書こうという気がほとんどなくなっている。そのような仕事は私には向いていない。

私は山頂に生きた/生きる人とだけ交流したい。私は金も名誉も大好きだ。でも、いちばんやりたいことは少数者の果実を収穫することであり、少数者のために種を撒くことである。

思想的展延

Quoraのギフテッドな人が言っていたことだが、高知能者の不幸は、Whyがわかるほど賢いが、Howがわかるほど賢くないことだという。

つまり世界が「なぜ」間違っているかはわかるが、「どうやって」世界を正すかはわからない。正確には、世界を正す方法もわかるものの、それを実現させる方法、人々にはたらきかけて実現する方法がわからない。このことが高知能の悲劇だというのである。

これはアナーキストの多くが同様に抱えている苦悩だと思う。アナーキズムは正しい。しかしそれを「実現する」ためには超人的な知性が要求される。

アナーキズムの実現された社会を夢想すると、どうしても手の届かない世界のような気がする。一方で、不思議な楽観もある。それは案外簡単にやってくる――――世界がぽろりと落ちてしまう、という予感もしている。

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