2019-10-26

「まことにすみませんが、今回は内定を辞退させていただきたく……」

ニートとして生きることにした。

そして私は海の見える家を買った。

Standing Figure by Nathan Oliveira

賃金奴隷は悪くない

毎日、ただオールを漕げばよい――

船がどこへ向かっているのか? そんなことは考えなくていい。

主人が考えてくれる。

考えなければいけないのは、手を休めるとふりかかる鞭だけ。

それが賃金奴隷の生活である。

そのような生活は……悪くないものだ! 実際、悪くない。利用する価値はある。なんであれ、自分が生きるのに有益な可能性のあるものは、恐れず、忌避しないことだ。やけどして火を恐れ、寒いと言って凍えるのはバカだ。実際、私は賃金労働で得た金で家を買ったのだし、懐が寒くなればまた賃金労働をするだろう。

私が問題にしているのは、賃金労働で生活をすべて塗りつぶしてしまうことの愚かさだ。少なくとも、週40時間の労働を、40年も勤め上げることは――完全な奴隷であり、だれかの所有物として生きることだ。

リンカーンが資本主義を肯定したのは、賃金労働が「自由」だからではない。賃金労働者としてしばらく働いて資金を貯めれば、自営業者になることができたからである。

賃金労働の本質は奴隷制である。奴隷として生まれたのはしょうがないとしても、死ぬまで奴隷として生きる義務はない。

人は働くことを学んだ次には、働かないことを学ぶ必要がある。

生活を整える

シュティルナーは、エピクロス主義をストア派よりたちの悪い処世術だと酷評した。でも、私は好きである。

人はめったに飢え死ぬことはない。穀物などいたるところにあるし、安く買うことができる。死を恐れることはない。そもそも……私たちは死んだことがないではないか? 私たちが生きている以上、死は存在しないし、死が訪れるとき、私たちはそれを経験することはない。

ここしばらく、私は月に10万円の出費で生きている。そのうち半分以上は家賃だ。今回、家を買ったので、もう家賃を払う必要がなくなる。つまり、私はざっくりと、月に5万円で生活できるのであり、これは時給1000円であれば、平日の2時間半労働か、週に2日、8時間労働をすれば賄える金額である。

だからケインズの予言した「週15時間労働」が実現できることになる(もっとも、これは税金を考慮していないが)。

このような生活は味気ないだろうか? そうでもない。人間の楽しみは数多い。歌うこと、話すこと、歩くこと、水を飲むこと、本を読むこと、楽器を奏でること、空を見ること、文を書くこと。質素な生活の方が楽しみが多いものである。

30年生きてきて、生活の楽しみを破綻させる要因はふたつあることに気づいた。

見栄――ブランドものの服、高級車、高級な家、SNS向けの食事。だれかに見せるための生活。高い収入や地位にこだわるのも、結局は見栄の問題である。

怠惰――食事をだれかに作ってもらう、バイクのメンテナンスをだれかにやってもらう、家の修繕をだれかに任せる、自分の肉体を医師に任せる……。

このふたつの要因は、ひとつの心持ちで解決することができる。自立である。自分が自分の主人となること。世間の評価を自分の主人としないこと。だれかに頼らず生きること。

隠れて生きる

見栄の世界とは、匿名の世界であり、それは都市の生活である。都市型の生活では、自らの地位を着ている服や装飾具によって示す。イギリスではじめて都市が生まれたときには、過剰な装飾――つまり「ファッション」のブームが起きて、贅沢禁止令がおきたほどだった。

非匿名の世界は、田園の生活である。そこでは領主はボロを着ていようと領主であり、農民は豪奢な服を着ていようと農民であり、服装を気にする必要はない。

さらにいえば、隠者の世界――俗世を離れ、気心の知れた少数の人間たちの間では、見栄など必要ないし、それは笑うべき悪癖でしかなくなるだろう。

私が隠遁生活を試みていたときに、完全な隠遁生活はよくない、と指摘してくれた人がいた。私もそれはほんとうだと思う。実際、それは退屈なのではないか、苦痛がない代わりに、刺激がない生活なのではないか、という予感はしている。

人間には生まれもった天分があり、それは生涯変わらないように思われる。社交的な人間は大家族や数多くの友人に囲まれて生きることを好むだろう。一方で、クリストファー・ナイトのように完全な孤独に満足する者がいた。私は社交がかなり嫌いな方だが、完全な隠者となる適正はないと思う。

バランス

ともあれ、なにごとも経験だろう。

ニーチェは「曙光」の序文で次のようなことを書いた。

独自の道を歩む人は「誰にも出会うことがない。「独自の道」とはそうしたものだ。誰も助けに来てはくれない。危険、偶然、悪意、悪天候が襲いかかって来ても、自分だけで対処しなければならない」。

人間は、生きることにも習熟が必要である。私には人生が、微妙な綱渡りのように感じることがある。どちらか一方に傾きすぎれば転落してしまう。はじめはあちこちに転落する。骨折や打撲で傷だらけだ。しだいに、バランスをとることを覚える。しかしちょっと注意をそらせば、また落ちてしまう。

人間が目指す最後の段階、いわばニルヴァーナに達した人間とは、なんら意識をしなくても均衡がとれた状態、風が吹いても、つつかれても、動じない、そういう状態にあるのだと思う。

1 Comment

  1. 私もかつては御厨さん同様に隠遁した孤独な生き方を一種の理想的なものとして捉えておりました、大半の人間が虚偽と自己欺瞞の塊であり、自身の本当の姿から目を逸らし続けているという事実には随分前から気づいておりましたし、故に孤独である自分の生き方は正しく彼ら彼女達から離れて暮らすことは正しいのだと信じてました。

    部分的にはこれらは確かに事実なのですが、物体には必ず影が生じるように、私のこういった非物質的な思考にも影の部分がありました。それは、私は本当は見下していた人達が羨ましかったのです、特にカップルとすれ違う時はそれを痛烈に感じていました。知識として友情や愛の殆どがまがい物であると知っていても、幻影の中で幸せそうにしている人々を見るのが苦痛でした。加えて私も過去に人間関係で苦しんだ経験があり、他人から傷付けられるのが恐ろしかったのです。私はこういった自身の弱さから目を背けて、自分から逃げ出してしまいたかった、でもそれは格好悪いので、単に逃避しただけの自分を孤高で強い人間なのだと思い込むことで自分を欺いていたのです。

    これらは今でも私自身が乗り越えなければならない大きな課題なのですが、この事実に気付けたのは他人の存在があってこそです。真の自我、本当の自分を見出すためには孤独と同時に他者の存在がなくてはならない、そして自己の内面の弱さや悪と対峙しなければならないというのが私の結論です。

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