2019-06-13

ニーチェの少し変わった概念、「Dividualism」について、Shahinの「Nietzsche and Anarchy」から訳しました。

なお、ニーチェ自身はそのような言葉は用いていないのですが、重要な概念であり、おそらくフロイト心理学に強い影響を与えているとされています。

Silence vert by Monique Orsini

Dividualism――「私」の複数性

……あらゆる「個人」の肉体はさまざまな異なる欲望様式を持つ。

まず第一に、多様な時期、多様なコンテクストにおいて、多様な様式が肉体の価値づけと行動を形づくる。例えば、職場、上司の前、同僚、自宅で、遊び仲間と夜遊びのとき、愛する者と二人きりのとき、強い仲間に囲まれたとき、孤独のとき、見慣れた環境あるいは不慣れな環境のとき、病んでいるとき疲れているとき、あるいは健康でよく休んだとき、またシラフのとき、薬物の影響下にあるときでは、同じ人間がまったく違った価値観や行動を持つだろう。

生における異なる環境やコンテクスト、異なる瞬間において、私はまったく異なるよう行動するだけでなく、世界はまったく異なるように見え、まったく異なる意味と価値を持つことがありうる。ニーチェの市場の議論に戻ると、私たちは「その瞬間に上昇している欲望」如何によって、同じ出来事に対しても非常に異なる解釈と反応をする。言い換えれば、任意の瞬間に活性化した欲望様式は常にランダムではなく、私の血流の化学物質によって、また私の周囲の物理的社会的世界によって、また私の個人的歴史と発展に強力に影響を受けることになる。

しかしそこには第二の、より深い、ニーチェの多数の肉体という描写がある。単にそのときどきによって私たちの価値観や行動が異なるだけではなく、価値観や行動の多数の様式(パターン)が、同じ肉体において同時に起きているのである。一般に、行動は「動機の衝突」によって起きる。これはさまざまな価値付けの様式と傾向が同時に機能し、しばしば競合することである。そして、先に述べたように、それらの多くは多かれ少なかれ深層無意識において起きる、「ある部分はまったく認識しない、ある部分は非常にぼんやりとしか認識できない」動機の力である。

ニーチェは至るところで衝突conflictを見る傾向があるが、彼は肉体の間だけではなく、肉体の内部にも見る。彼はしばしば肉体を「競争相手」の欲望それぞれが心理生理学的な「暴君」になろうとする遊び場や戦場として見る。私たちがもし詳細に観察するならば、私たちは内なる混乱、分離したパーソナリティ、混ぜ合わさった動機、偽善が、私たちが認めたがるよりはるかに多いことに気づき始めるだろうとニーチェは考える。

それでも、肉体内部の欲望様式の遊びはつねに対立するわけではない。異なる価値観や欲望が衝突しあうだけではなく、ともにはたらいたり、互いに支援しあうことがある。たとえば、「同情」の分析においてニーチェは、私たちが他者を助けたり憐れむときには「利他主義」と「利己主義」の一連の動機すべてが影響していると考える。総論として「私たちはひとつの動機によって何かをすることは決してありえない」――複数の思考、衝動、欲望が同時にはたらいているのであり、あるものは他のものより表立つだけなのだ。

したがって人間の肉体が首尾一貫した個人、ひとつのユニークで一定の価値観、欲望、動機と行動様式を持つ個人となることは稀にしかありえないとニーチェは考える。さらには、近年の新しい言葉を用いると、人間は「individuals」というよりは「dividuals」に近い。つまり、もし私たちが過去の慣習的神話を乗り越えて注意深く観察するとき、ときに互いに矛盾し、ときに支持し合う価値付けと行動の複数の様式を私たちは見ることができる。1883年の未発表のメモにニーチェはこう書いている。「細胞は生理学的に細胞に隣り合うように、欲望も欲望に隣接する。存在のもっとも全般的な描写は、互いに同盟を組み、敵対し続けるような欲望の連合である」。

この点を要約して、ニーチェは「社会構造」のイメージを用いる。彼は書く。「私たちの身体は多くの魂からなる社会構造に過ぎない」また、私たちは「魂を欲望と感情の社会構造として」考えることができる。社会構造は多種多様の要素で構成される集団である。さまざまな方法でそれは「組織」されうる。たとえば、構造における個人的部分は比較的分離されており多様であるだろう。または彼らは集まることによって、親和性や共有された欲望によって行動を調整するだろう。または彼らは専制、統制、支配、訓練、順応するようにつくられることによって、「秩序付け」られるだろう。

政治哲学では、個人の有機的組織として社会構造を理解する強い伝統がある。そこにはまた、ギリシャ哲学に戻ると、個人を社会のアナロジーとして見る別の方法もある。ニーチェはこの2つ目の立場をとりあげラディカルに表現した。彼にとって重要な点は、社会構造は特定の方法、特定の歴史プロセス――たとえば、秩序化のプロセス、無秩序化のプロセス――によって組織されなければならないということだ。同じことが「個人」にも当てはまる。私たちは肉体を訓練し、秩序化し、多かれ少なかれ一貫した「主体」とすることを可能にする「社会的」プロセスを研究する必要がある。

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