2019-10-15

読者さんから質問をいただいたので返答を。質問の内容は複雑なのですが、要約してみます。

「好きなことを仕事にする」「好きなことで生きていく」というフレーズが流行しているが、「好きなこと」や「やりたいこと」は環境や経験の影響を受けるものである。

たとえば、ブログで稼ぐことが楽しい人間に、大金を与えたら興味がなくなることがある。好んで隠者となった者がいても、良い家庭で恵まれた容貌をもって生まれたなら違った運命を辿ったかもしれない。温暖な気候に生まれるか、寒冷な気候に生まれるかでも大きく違うだろう。

一方で人間の持つ才能は、環境や経験に依存しない普遍的なものである。たとえば「運動が得意である」という能力は地域や文化に左右されることがない。

環境や経験に依存する「好きなこと」よりも、より普遍的な個々人の能力や得意領域にしたがって生きる方が、個々人の生存本能、社会的欲求、自己実現欲求を満たすことができ、人間にとって幸福であり、自然なのではないか。

というような内容です。

実は最近、私も同じような内容について考えていたので、非常に共感してしまう質問でした。結論から言えば、まったく同意します。以下「能力」と「好み」について考えてみます。

私たちは偶然に翻弄される

「君は5人の友人たちの平均である」

最初期の社会心理学のひとつに、トリプレットという人物が、自転車走のタイムを計ったものがある。その結果は「ひとりで走っている人」よりも「複数で走っている人」の方が20%ほど速度があがるというものだった。この調査はデータを恣意的に抽出しているという批判があるけれども、大事なことは私たちは否応なく他者からの影響を受けるということだ。

勝ち組の家庭に生まれたら勝ち組の価値観を、負け組の家庭に生まれたら負け組の価値観を叩き込まれる。下流階級はおそらくマクドナルドやスマホガチャを好み、上流階級はクラシック音楽やゲーテを読むことを好むだろう。

どれほど特別な才能を持つ人物でも、環境や社会の影響を受けずにはいられない。前に本で読んだことには、「孤独な天才」というのは実は稀で、天才と呼ばれる人のほとんどが人生のある段階で「メンター」と言うべき人物に強く影響を受けているという。

私たちはまったくの偶然に左右される人生を生きている。今存在する私たちは無数の偶然の結果であり、帆のない船で大海を進んでいるようにも思われる。

ある人間がある行為を嗜好し、他の行為を好まないということは、たしかに環境の影響を受けるだろう。私たちがなにを「好み」、なにを厭うかは、社会的要因や環境的要因によって左右される。

「力の所有」という根源的欲求

一方で、才能は先天的である。「好み」とは違い、生まれついた才能は個人に内在する。

ある人間は外交的で活発でしゃべることが得意だ。別の人間は内向的で落ち着いており読むことが得意だ。知的な人間に限っても、ある人は文学や音楽が好きで、ある人は物理学や数学を好むといったように細分化される。これらは個々人に内在する、生涯変わらない性質だろう。

能力は奪うことができない。ある人間が高い身長であること、肥満しやすい身体を持つことを別の人間が奪うことはできないように、破壊や利用はできるかもしれないが、奪うことはできない。能力とは個人が所有し、それを維持できるほとんど唯一のものである。

能力を所有するためにはどうすればよいか。才能の自然な成長によって所有することができる。鳥が飛ぶようになるのは、鳥の意志や努力のおかげではないし、だれかの監督や教育によるものでもない。鳥は飛ぶよう生まれついており、よほど抑圧的で不自由な環境にない限りは、飛べるようになる。人間においても同様であり、彼の成長を阻害する抑圧がないときに、才能は自然と発揮される。

人は固有の能力を持って生まれる。社交性やリーダーシップにせよ、知的探求や芸術的創造にせよ。私たちはそれらを自然に発達させることによって、その能力を「所有」することができる。

「才能」と「好み」

才能は「好きなこと」と違うのだろうか? 人間が才能を育むとき、それは喜びであり、「好きなこと」だろう。狼は獲物を追うときに幸福だろうし、草花は美しく開花するときに幸福だろう。

しかし、好みはより外的要因に左右される。ほんとうは音楽の才をもちながら親のすすめで医師となった人間は、医業を愛しながら、かえって音楽を憎むかもしれない。加齢によって彼はもう音楽家になることはかなわないからである。

ある才能を持つ人間が敗北や挫折を経験すると、それを嫌うことはよくあることだ。優れた数学者であっても、世界の順位付けのなかでは大したことがないことがあり、その敗北感から数学を遠ざけてしまうことがある。

天才が一人いれば、その何百倍もの失敗者がいるとされる。しかし失敗者たちが依然として才能を持つことには変わりがない。彼らは社会的には失敗者であるとしても、依然として才能や能力を所有している。そして能力は発揮されることを待ち続ける。

偶然は私たちから幸福を奪うかもしれない。しかし私たちの所有する力を奪うことはできない。環境は私たちの生長を抑圧するかもしれない。しかし私たちから才能の芽を奪いとることはできない。

ゆえに、失敗や不幸を気にせず、力の所有に邁進すべきだと私は思う。

VVV Portfolio by David Hare

「好きを仕事にする」という資本主義倫理

ところで、「好きを仕事にする」という言葉の根底には資本主義倫理がある。

仕事とはなにか。食うために働くことである。私たちは食わなければ死ぬ。あるいは、食わせなければならない者がいる。だから食っていくために仕事をしなければならない。仕事は、ときに喜びをもたらしてくれるとしても、本質的には屈辱的で惨めな苦役である。

「好きを仕事にする」という言葉の背景には、「仕事」が「好き」に優先すべきだという倫理がある。そこでは自分の本性にしたがって行動することをよしとせず、「生産性」を考えろ、というドグマがある。

「好きを仕事に」したとき、「好きなこと」は生産性によって再構成される。内なる衝動に由来していた「好きなこと」は、日々の売上や他者からの評価といった社会的・経済的諸関係のうちに絡めとられてしまう。

そして結局、生産性を向上させるためには、近代資本主義社会がつくりあげた「消費者」にひざまずかなければならない。生活が消費者たちにかかっているのだから。このように、「好き」を「仕事」にするとき、人は社会を構成する生産マシンへと成り下がる。

そこには当然、自己疎外が生じる。「好きなこと」はもはや気ままに内発的に行うことではなく、生産活動へと成り下がるのである。

生きることは力の所有である

社会は歯車を求める。

まじめに働くのは良いことだ、人のため社会のために生きることはすばらしい、自動車や家を買うことが幸福なのだ、そう私たちは教え込まれる。

もっとも、多くの人にとってそれは社会的であると同時に本能的である。多くの人間が遺伝的にdomesticatedされて生まれる。歯車を求める社会の要求と、歯車になりたがる本能。彼らは社会と矛盾なく生きることができる「幸福な人々」である。

一方で、そうでない人間もいる。生まれ持った能力が社会の要求に沿わない者は、社会と自己の分裂において苦しむ。そういったときに、彼らがしなければならないことは、社会の要求にしたがうことではない。それは生きることとは反対である。自分の「内なる声」に耳を傾けなければならない。

自分がもっとも自分となるような、つまり最大限に自己を表現できるような行動方式を見いだすのが「アウトサイダー」の仕事である。(「アウトサイダー」コリン・ウィルソン

狼は犬になることはできない。犬は人間の首輪に繋がれて喜ぶかもしれないが、狼にとっては非常な不幸である。彼はそう生まれついていないから。狼は狼となったときに完全なのである。

私たちは自分の生まれ持った能力を求めるべきだ、ということについて私はまったく同意する。そのことが貧困を導こうと、富裕への道筋だろうと、関係ないように思われる。力を獲得して発揮するとき、私たちは私たち自身に「なる」のである。

すなわち、力を所有すること、それは私たちの生の目的であり、同時に生そのものである。幸福とか、不幸とか、そういった次元のものではない。私たちが自分自身にならずに、幸福だったり不幸だったりしたところで、それがなんであろうか?

私たちは力を追い求め、力を発揮するときに、より多く存在する。より「生きている」。ちょっと抽象的だけど、そのように私は感じる。私たちは良く生きる、善く生きることを望む前に、まず生きなければならないのである。

(質問の答えになってないかもしれない……)

アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。(「ギーター」上村訳

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