「人間の自己家畜化」self-domestication of human

この言葉が私の頭を離れません。

人間の文明史――植物を家畜化し、動物を家畜化した。次には人間それ自体を家畜化した?

人間がイヌやネコのように、ウシやブタのように、飼いならされた種だとしたら……私たちは人間の「自然状態」について、大きな改変を加えなければならないのではないか。

というわけで、家畜化について書かれた文章「Human Domestication: Sickness of Seperation」を紹介します。著者はアナルコ・プリミティヴィストのグリフィンさん。

The sheep and me by Sidney Amaral

「人間の家畜化」グリフィン

家畜化は、植物や動物から自然界のリズムとサイクルを除去する体系的なプロセスである。家畜化された存在は、人類によって創造され管理される環境に存在し、単に人間の利益のために機能する。人間動物は、他の哺乳動物と同じく生の円の一部をなしており、その円から除外されることは、永続的ストレスの環境を生みだす。自然からの断絶の影響は、動物園の動物やペットに見られるように、鬱病、不安、無気力、共依存、その他の不健康な環境に対する心理的反応としてあらわれる。

ケージの中をペーシング(同じところを歩き続ける常同運動)するメスの虎を見るとき、私たちは自分の反映を見ている。

幸運にも、人間は遺伝的に適応するほど長くそのようには生きてこなかった。私たちの無数の世代のための場所は、可能な限り最大に地球に近い場所にあった。農耕が私たちを母なる恵みに対する信頼からゆっくりと引き離し、私たちの人口がその上限を越えて一時的にふくれあがったとしても、私たちは依然として野生のサイクルとの関係を保っていた。自然からの離別がこれほど完全となったのは、人間の歴史においてごく最近のことに過ぎない。産業製造とモノカルチャー農業が私たちの代理母となっている。

私たちひとりひとりは、私たちの本当の母親の腕の中の、ほんとうの生活と家から隔離されている、悩める野生動物である。私たちの文明化された条件付けは私たちを依存的に、虚弱にするが、しかし私たちは野生の自由と、生の共同体の一部としての野生の運命を生き抜くことによる深い満足を今でも恋い焦がれている。私たちが創造しようとするのは、自己ー永続的な家畜化から回復させるような環境である。

  • 私たちは文明への依存を除去し、私たちを生かす土地に対する新しい信頼を赦す、生活スキルを再学習することを望む。
  • 私たちは文明的生活を持続可能にする多くの活動や物質に対する中毒を手放すことを望む。
  • 私たちは他者と生活する方法を再学習し、栄誉と尊敬に基づく生活を創造することを望む。
  • 私たちは萎縮した感覚を再び目覚めさせ、生の完全な豊かさを経験することを望む。
  • 私たちは家畜化のトラウマによって傷ついた精神と肉体を癒やし、先祖たちがかつてそうであったような調和のもとに暮らすことを望む。

私たちは野生として生まれる。子どもの第一の本能である力と美しさを服従させるために社会化させるには数年がかかる。このプロセスは可逆的である。文明化された状況の麻痺を克服し、野生となること、そして完全な人間となることは可能である。私たちは再び野生になれるのだ。

――引用ここまで

終わりに 家畜化は可逆的なのか

私たちは一万年前と同じ人間か?

私がこの文章を訳したのは、プリミティヴィズムを批判的に考えるためです。

グリフィン氏が「私たちは~望む」と言うとき、その「私たち」はどこからどこまでなのか。人類一般だとすれば、それは間違っていると私は考える。

テッド・カジンスキーのような怜悧な思想家を含めて、アナルコ・プリミティヴィズムにおいては、一種の前提が存在します。

それは、人間は1万年前、つまり文明が始まる前から、私たちがまったく同じ人間であるということです。「私たちは狩猟採集民として生まれる」あるいは「原始生活に適応するために生まれる」というのがそれです。

現実には、1万年前に文明が生まれてから、ざっと見積もって300世代がありました。この世代数は「幸運にも、人間は遺伝的に適応するほど長く」なかったかというと微妙な数字です。

人間の家畜化された動物のなかには、実に数世代で家畜化された種もあります。人間が1万年前と「同じ人間」なのだろうか? そうではない、人間が1万年間で大きく進化した――と指摘したのがグレゴリー・コクランらの「一万年の進化爆発」ですが、私が知る限り、この主張は正しい。

少なくとも、文明が発展するにつれ、経済システムの複雑化、人口密度の増大により、システムは「従順で非暴力的で調和的な人間」を選択し、そういった人間を主に交配させてきました。

もちろん、家畜化の程度にはスペクトラムがあるでしょう。農耕民は家畜化は進んでおり、遊動的狩猟採集民は家畜化の程度は低い。現代社会になじめない人は家畜化の程度は少ないといえる。

支配階級は、ちょうど農民が雌牛を飼育するように、農民を飼っていたので、他の人より攻撃的な個人を排除する傾向があったに違いない。そのため、時間経過とともに、そのような攻撃性を引き起こす対立遺伝子の頻度は変わっていっただろう。とくに強大で長く続いた国家では、こういうことがまさしく起こったはずだ。反逆者がしばしば活用な状況ならば、おそらく攻撃的な個性が有利に働いただろうが、もはや状況は変わってしまったのだ。つまりは、一部の人間が他の人々を飼いならしていたということだが、階級間で十分な量の遺伝子流動がある状態ならば、集団全体として、人々は従順になっていったはずである。(一万年の進化爆発

現代人は、まさに家畜の中の家畜です。いくらマイノリティにとって文明社会が「永続的ストレスの環境」であったとしても、大多数は精神に支障をきたすことなく、まったく違和感なく産業社会に馴染んでいる事実がある。

私がアナルコ・プリミティヴィズムに反対し、個人主義やエゴイズムに賛同するのはこの点にあります。文明破壊の試みは、家畜化の程度が低い人にとっては、自由と解放をもたらすでしょう。しかし、大部分の家畜的人間にとってはどうでしょうか? 彼らが自由と解放よりも支配と服従を望んでいるとしたら、プリミティヴィストは彼らの「服従する自由」を奪うことになる。

これはアナーキズムの原則に反する。

常道運動をする虎を動物園から解放すれば、彼は自由に、充実した生を生きるでしょう。しかし動物園にまったく馴染んでしまったイヌやブタにとって、解放された世界は地獄なのです。

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