2019-09-02

文明は精神を殺す

エゴサイド――自我殺し。

アメリカで著名なアナルコ・プリミティヴィスト(無政府原始主義者)にケビン・タッカーKevin Tuckerという人がいます。1980年生まれで割と若い人物です。

文明はいかに人間を手懐け、その精神を殺すのか。彼の思想を見ていきましょう。

Immovilita by Emilio Scanavino

自我殺し

原文:”Egocide
初出:Green Anarchy, #20 Summer 2005

第一の戦争は精神の戦争である。

それは野生の精神が家畜化者domesticatorsたちの利益のもとに覆い隠されたときから始まった:歴史の中に、私たちの中に。

その核にあるのは精神的なつながりであり、世界を流れる言葉なき存在の感覚である。それは「自然」のために戦うことや、個人的欲望についてではない。自我殺しについてである。つまり、すべての文明化された関係を基礎づける、自我や他者の精神の殺し。

「自然」などというものはない、私たちの手から隔絶され独立するような自然は。私たちのなかにある生だけが存在する。それは教えることや、書くことや、説明することのできないものである。神や神々、無、経済や科学によって空間を埋めるものでもない。すべての祈りを聞く認知力のことでもない。

私の感覚がどのようなものか言うことはできない。私はその存在を客観的に証明することはできない。しかし、私の魂がなければ、私は死んだようなものだろう。

家畜化者たちはこのことを長いあいだ知っていた。

私はなにかを感じていることを言える。私が本物だと知っているものである。私が戦う価値のあるものである。

それは野生の人々と野生の場所が、私たちに1万年間語り続けてきたものだ。

 

人間は、すべての存在と同様、本質的に精神的(スピリチュアル)である。手のこんだ儀式や宗教的信念といったようなものの意味ではなく、ずっと違った形で精神的なのである。つまり、生きられた精神性。

世界へと流れる、有機的な自然がある。君が新雪のなかで小路を辿るときに感じることができるなにか。ひとにぎりの野生の果実や根の香りから感じるなにか。死の間際に瞳孔を広げる動物たちの目のなかに見るなにか。棘の刺した傷、リスの威嚇、葉に落ちる雨の雰囲気、濁流の音。これらすべてには生がある。単に生きることが君にもたらす本質。

遊動的狩猟採集民は「その他」を知らない。そこには自然の概念はない。しかしそこにはより大きなつながりがある。そこには生存、狭小や壮大な感覚はない。そこにあるのはただ生と死である、君の前に織りなされ、嘘偽りなく展開されたところの。

個人はこの一部として存在する。共産主義的集団思考の製造された意味ではなく、精神的な意味で。生は分割できないものだ。依存関係はない。未来への恐怖はない。進歩への道もない。暗に信頼と正直さの意味があるということができるが、いずれの言葉も生を正義にするのではない。生を正義にする言葉はない。生はただ存在する。

このことは言い換える必要がある。私たちのほとんどにとって、生は単なる理想である。それはユートピア的な願望、または取り返しのつかない過去である。私たちはそれに近づくことができるか、あるいはできないかだ。しかし生は単に生である。つねに存在し、つねに存在しつづけるだろう。それなのに私たちはそのようには考えない。考えることができないのだ。私たちは生を違ったように見るよう訓練されている。生は単になにか「その他」である。宗教的/反宗教的理想にせよ、弱められた科学的定義にせよ。

生は常に遠いものである必要がある。

 

どのように君はだれかを自分自身に背かせるか? 彼らの周囲にいる人々に反対させるか? どのように精神を飼いならすか? これらは家畜化者たちがつねに答えなければならない問題だった。必然的な反応は、私たちの日常生活を構成するものである:飼いならすためには、君はだれかを心理的、肉体的、精神的に破壊しなければならない。

簡単にいえば、切断disconnectする必要がある。

その切断、調停はつねに家畜化者たちの第一目標であった。理由はかんたんだ。家畜化とは依存に関するものだ。しかしその依存は必然のものではなく、依存だと認識されることにある。それは信仰へと帰着する。

ほとんどの人々は国家と文明が現在必要であると信じている。他に何も知らないために。私たちは製造された現実のなかで育てられる。温熱シート、エアコン、オートロックで満たされた無菌の、計画された世界。食品は私たちの消費における脇役となった。労働は君がしなければならないことであり、ボスは君が服従しなければならない者である。

文明をなくして生きるという考え、さらに言えばよく生きるという考えは私たちにとって異質なものである。文明なしで生きるものにとってこの現実で生きることがそうであるのと同じほどに。これらは本質的に異なる見解であり、現実における異なる存在方法である。一方はふたつの邪悪からより少ない邪悪を選ぶこと、ふたつのブランドからより良いものを選ぶ選択の自由である。もう一方は、今日はどちらの方角に放浪したいか、そしてどの葉がもっともより魅力的か、という難解な選択についてである。

どうして私たちは後者から前者に移行したのか? どうして私たちは生からほんの少ししか受け入れないようになったのだろうか? どうして私たちは依存的になったのか?

どうして倉庫の食料は外の世界よりも重要となったのだろうか? これら倉庫を大量の野生の穀物、干し肉、干し魚で満たすことは簡単である。ほとんどの場合、社会がそうしようと思った場合、膨大な量の食料を満たすためには数日かかるかもしれない。余剰分を配給する人間となることも複雑でもない。しかし、人々にその人物の言うことを聞かせることは複雑である。

問題は管理についてである。権力は管理から生ずる。しかし管理は物理的・心理的な力が必要である。君はだれかを檻に入れることができるが、彼らにそのことを受け入れさせることは別である。

他の存在をよりよく管理するためには、その檻を内面化させなければならない。

私たちには、残念だが、檻は内面化されている。これが現在機能しているところの家畜化のプロセスである。

 

自らすすんで自律性を放棄する者はいない。全生命を流れる野生の精神は破壊されなければならない。

精神を破壊するためには、まずそれを隔絶する必要がある。このことはもっとも難しく、そしてもっとも重要な課題である。私たちは遊動的狩猟採集民として肉体的精神的に生まれている。野生/生がいたるところにあるように、私たちの精神は私たちをとりまく周囲の世界から切り離せない。

このことは少し明白にすべきだろう。

私はニュー・エイジの「ワンネス」について語っているのではなく、ある種の普遍的な「土着的パースペクティブ」について話すのである。私は世界との断絶されざる関係について語る。言葉なしで感じられ知られるものについて語る。かつて存在したほとんどすべての人間社会はそういった精神によって生きられていた。今私たちがそうであるような存在となるために、殺さなければならない精神について私は語る。私たちが自分に背き、地球に背くことができるようになるためには、精神は殺されなければならない。

精神を殺すことは不可能だ。すべての生命に存在する。しかしある時点から、人々はそれを覆い隠すようになった:チープな代用品を受け入れるようになったのである。それは長く、困難で、隔絶された問題だったが、家畜化の原初のトラウマは深い傷である。急速に広がりその途にあるあらゆるものを破壊するもの:つねに動き、なんらかの意味を探し求めるもの。その意味はつねに形状と形態を変えるが、捜索者はいたるところを探し邪魔になるものをすべて破壊するよう訓練されている。

私たちは自らの傷ついた魂以外のいたるところを見るよう訓練されている。私たちは決して感じることではなく、なにかを探し求めるよう訓練されている。このことはもちろん意図的なものである。

どれほど私たちが世界を、自己中心的に、人間中心的に、生物中心的などに見ようとも、私たちはつねに世界(「Nature」を読まれたし)を完全に分離された場所として見なければならない。特定の人々はその一部である/であった(「Indigenous」を読まれたし)が、少なくとも私たちが考慮すべき範囲内ではそれは過ぎ去ってしまった。地球は場所となり、生は理想となった。君はただ君だけを持つ。

切断され、孤独で絶望的に、私たちは現実のなかを沈む、あるいは泳ぐ。これが家畜化である。これが、ほとんど理解できない土地を専有する、数十億人の他者があふれる環境で孤独であるところの私たちである。

これがプロザック(訳注:抗鬱剤)の魂である。

 

自己/その他の分割は家畜化によってはじまる。君は自分が所属する世界をコントロールすることができない。一神論者によれば、アダムとイヴはエデンで動物に名前をつけることで最初の一歩を踏み出した。彼らはある程度は正しいといえるかもしれない:解剖されカテゴリ化された生命は、コミュニティ的というよりははるかに実験的である。

しかし、最大の被害は生を所有物に変えたことだった。そのことは精神を野生の穀物、魚、大型哺乳類に変え、それを剰余に:富に変えた。庭師たちの世界は狩猟/採集の世界を雑草、穀物、耕地、休耕地、および村の世界へと変えた。農民はそれらをさらに畑の作物の列へと、食べ物としての動物、労働者としての動物、思想家と実行家というように解剖した。資本家は消費者、分配者、管理者、生産者、監視者を見る。

野生の世界は加工され精製される。すべての精神はすべての「有用」なものの精神となった。この分割は続く:私たちはもはや単なる猿や野獣ではない。私たちは地球の支配人であり、未来の担い手である。主体、客体。

魂は再コンテクスト化されるために隔絶されなければならない。

このことは最初は微かに行われる。ある場所の人々が定住し、食料を貯蔵し始めたときに権力の最初の役割があらわれはじめた。しかしその権力は、有力者たちが行使する場合においても暗に示される必要があった。これは精神を弄ることを意味する。それがシャーマン:第一の専門家の職業となった。

シャーマンの役割はヒーラー(治療者)から広がった。ふつう、シャーマンはいまだヒーラーであるが、ヒーラーに欠乏することはめったにない。ほとんどすべての遊動的狩猟採集民にとって治療は共同体の活動だった。ヒーラーは共同精神を通じて現実に対処する。だれもが関係者である。シャーマンは、一方で、現実を解釈する。このことは極めて重要である。

多くのシャーマンは、精神の解釈に対して自らのメッセージをわずかに挿入しただけだった。もっとも重要な概念は彼らの存在をのちに示すものであった:世界の精神は一定の個人に対してより大きく開かれている。彼らの地位は個人と世界の仲介者としての役割だった。このことを通じて、自己/他者の分断が生じる。

シャーマンのメッセージは、説教師や評論家のメッセージのように、社会的政治的現実を確証する。社会が特定の食物に依存するようになるにつれ、神々はそれらの成長を確証づけるように専門化された(太陽、水、大地、種)。政治的領域がより階級的となると、宇宙的領域も階級的となった。定住地がより永続的となり、村へと拡大するにつれて、かつて統一されていた世界は村、庭、森林へと変わってゆく。魔女、狼男、魔術師が道徳をすべて見通す者となったように、死者たちは恐るべき先祖となった。

私たちをとりまく世界への解釈は、先祖、神々の対象となり、つぎに神と科学の対象となった。しかしこの根底にあるのは自己/他者の分断である。協力とオープンさに基づく遊動的狩猟採集民の世界は、競争と恐怖の世界に置きかわった。人々は、世界とヴィジョンを通じて断絶されることのないつながりという代用品を与える手に従う。

第一に私たちは世界から分断され、つぎにそれを恐れるようになる。ここから家畜化が始まる。恐怖と依存は、ほかの一切が考えられなくなるほど増大する。

これが私たちの生まれた世界だ。これが私たちの依存だ。これが私たちが受け継いだものだ。

私たちはこの世界を受け入れるよう育てられ、家畜化と隔絶の世界を野生の精神で代用する。残された唯一の精神は自己だけだ。

犬が犬を食う世界で、君は沈むか、泳ぐか。

主体か客体か。少なくとも、それだけは君次第である。

 

家畜化者たちは彼らの仕事を長く続けてきた。ほとんどの場合、彼らは、私たちが心のなかに知っている全世界を、彼らが私たちの精神の周囲においた統一性に置き換えることに成功している。しかし、彼らの仕事が完全になされることはない。彼らは私たちを眠らせ、気をそらせ、占領するが、野生性はつねに亀裂のあいだをすり抜ける。

あまりにも多くの人々にとって、自由に生きるという制御できない衝動はかなえることができない望みである。それは自己破壊か精神の分断で終わることになる。

殻は一部分からのみ割れる。

私たちの精神のなかの文明の完全性は、それが創造した世界を反映している。コンクリート、鋼、ガラス、鉄は、教会や国家が精神にもたらしたものと同じことを肉体にもたらす。階級と支配は構造的となる。私たちの小ささ、無意味さはつねに再強化される。

文明に対する反乱は、内部と外部の両方を攻撃しなければならないことを意味する。現実には、そのふたつには分断はないのだが。この攻撃は応答である。私たちをなだめつかせ、なにもかも破壊しようとする完全性への応答。ある者にとってこれは文字通りの意味となる。彼らの目標は、コンクリートから「自然」にいたるまですべてを排除して、なにもかも自由にできるようにし、どこへでも自由にいけるようにする。それは個人が孤立されたままである場合にのみ誠実さを追求する、ニヒリズムの怒りである。すなわち、考えうるすべての鎖を除去すること。

私はある程度この積極的ニヒリズムを理解できる。君が知るすべてのものが堕落しているように感じられるとき、君が知るすべてのものだけでなくいかに考え感じるかさえ破壊することは本能的のようである。それは文明の完全性を脱皮させる過程部分としては意味があるが、それだけである。あまりにもしばしば、そのことが目標であるとみなされる。ラディカルな純粋性、あらゆる制約からの解放へ向かう方法論。それは都市と国家の無菌化された死体に対する弱体化された反応として存在する。

しかしニヒリズムは、より正直なその親戚であるエゴイズムと同様、家畜化の最初の捕縛であるところの自己/その他という分断から抜けだすことができない。この両者とも隔絶、自己のネバーランド(訳注:ピーターパンに登場する島)に依拠する。ニヒリストとエゴイストにとって、道徳性なしでのこれ以上のつながりはありえない。ただふたつの対立が残る。自己と他者。

家畜化者たちの最初の嘘は、一周して元通りになる。

 

文明は精神を殺す。それが存在するためにそうでなければならない。

私たちは文明を構築し維持することを考える。それは私たちのために創造された現実であり、私たちが日々再創造している現実である。それが私たちの依存症である。魂が窒息するよう与えられたすべてである。野生と魂のためのすべてのチープな代用物である。魂が野生を思い出せないように与えられたものである、私たちがもはや野生を望まないように。

つねにこうだったのである。文明が存在するためにはつねにこうでなければならなかった。

それは家畜化に立ち戻る。

しかし、家畜化はその進化以上に不可逆的であることはない。それはつねに手懐けられることを拒絶する精神によって抵抗されてきた。野生の存在は、人間だろうとなかろうと、つねにそれと戦ってきた。少なくとも、肉体的ではなければ、精神的、心理的に。

これが第一の戦争である:家畜化された生活を拒絶すること。秩序化された文明化された存在となることへの野生の拒絶である。死ぬことを拒絶する精神である。

これは特定の人々、場所、時代に関するものではない。調停なき精神を知るものは、つねにもっとも激しい戦いを続けてきた。そこには抽象的概念のための、個人として定義されざる自由のための、知られていない、知ることのできない場所のための戦いや革命はなかった。戦いは感じられるもの、生得的なものに関することである。戦いはしたがって、現在そしてこれからも、生と野生性の精神の怒りである。それは隔絶も調停も知らない。それは歩道の割れ目と私たちの肉体の毒素への拒絶によって増大する。それは何事にも止まることはなく、極めて致命的である。

生と野生性の精神の怒りは、私たちの内部に存在し、不安げに待っている。それは精神の癒やし(再野生化)と肉体の癒やし(抵抗)を絶望的に求める。このふたつは同じひとつである。私たちのもっとも深い傷は癒やしを求める。それは行動への希求である。

 

ニヒリストとエゴイストにとって、抵抗は君を破壊するものを破壊するという即座の必要からやってくる。その唯一の構造は破壊にある。つねにそれが悪いことだと言うつもりはない。しかしこうは言っておこう。私は自分がなにかに対して戦っているだけではなく、戦い求めるものがあることということにおいて疑問がない。それは道徳やほかの高尚なニュー・エイジのガラクタに関するものではない。それは調停されざる、現在のものである。現実のものである。

私の自己と他者の概念が分解されるにつれて、私はこの世界に生が存在することに気づくようになった。私はこれが相互に接続されるものであることを知っている。生は決して死ぬことのない精神を通じてやってくるが、家畜化者たちによって導かれ、檻に入れられる。1万年間の調停の結果である。

私はこのことを、文明が破壊されねばならないことと同じように知っている。私の精神はこのことを知っている。私の精神はこのことを感じている。すべての生の精神はこのことを知っている。それはつねに知っていた。

私たちは耳を傾けはじめただけだ。

訳者あとがき

実はこの翻訳は公開しようか迷いました。

第一に、あまりうまく訳せなかったこと(いつも以上に)。第二に、内容にあまり賛同できなかったこと。しかし、ケビン・タッカーを翻訳してるのはたぶん日本で私だけですので、一種の義務感で公開しました。

私たちは世界から分断され、つぎにそれを恐れるようになる。ここから家畜化が始まる。

タッカーは家畜化のプロセスを描写しています。世界と自己が断絶disconnectionされることによって、自己/その他の区別が生まれ、世界に対する恐怖が生まれ、家畜化に至ると。

世界の精神は一定の個人に対してより大きく開かれている。彼らの地位は個人と世界の仲介者としての役割だった。このことを通じて、自己/他者の分断が生じる。

シャーマンのような支配階級は、お前たちは何も知らないのだ、私たちだけが知っているのだ、だから私たちの言うことを聞かなければ大変なことになる、と教え込むことによって自らの地位を守ります。このようなことは、学者や官僚といった現代のシャーマンにも非常にあてはまりますね。

実際のところ、世界は諸個人に対してすでに開かれており、世界とコネクトすることは可能です。植え付けられた恐怖さえなくせば。この点はタッカーに非常に共感できます。

タッカーは、私たちは自他の区別を捨てて、かつて人間がそうであったように、また私たちの精神の内奥がそれを求めるように、世界や他者と自己を区別することなく受け入れることが重要であると説かれている。なんとなくアンディー・ウィアーの「卵」を思わせる内容です。

私たちは狩猟採集民として生まれるか?

一方で、気になる記述もあります。私が批判的に考えるのは以下のような記述です。

私たちは遊動的な狩猟採集生活のために肉体的心理的に生まれる。We are born physically and mentally for a life of nomadic gathering and hunting.

これはアナルコ・プリミティヴィズムの界隈では常套句で、タッカーの公式サイトにも「You were born wild」と掲げられている。ほんとうにこれは正しいのでしょうか。

農耕が誕生して1万年間、300世代以上が経っています。狼が犬となったように、とうもろこしの可食部が何十倍にもなったように、人間も遺伝子レベルで家畜化されているのではないでしょうか。私は割と一万年の進化爆発説を信じています。

もっとも人間のすべてが家畜化されるわけではない。たとえば自閉症者の脳は家畜化されていない脳という説があります。自閉症以外でも、ある程度の家畜化のスペクトラムが存在すると考えています。つまり、大多数者は順応な家畜として生まれ、少数者は家畜化に抵抗する人間として生まれる。

つまり、比較的に家畜化されない人間にとって、大多数の人間は「その他」と感じることになる。

ニヒリストとエゴイストにとって……ただふたつの対立が残る。自己と他者。

タッカーは自己/他者の対立に至るエゴイストを「家畜化の教義に戻っている」と批判します。たしかにエゴイストやニヒリストは「自己と他者は違う」ということを強く認識しています。

しかし、もし人間が画一的なものではなく、ある集団と個人がたしかに大きな差異をもつ場合はどうすればよいのでしょうか? 個人は個人性や唯一性を放棄して、集団に融和しなければならないのでしょうか?

私がタッカーから感じるのは、「人間」に対する画一的な考え方です。それは普遍性と永続性を持つ概念であり、一種の理想だと言えます。

私は自己とその他は違うものと考えます。それが現実だと認識しています。

もうひとつは、多くのプリミティヴィストと同じく、遊動的狩猟採集民に対する幻想が見られます。彼らが私たちより世界と断絶されておらず幸福であることは事実でしょう。しかし、彼らはほんとうに世界と自己が完全に融和しているでしょうか? 世界は人間と一部では融和するとともに、一部では敵対するものであると私は考えています。これは狩猟採集社会でも同じではないでしょうか。

そういうわけで、共感できるところは多いのですが、やっぱりアナルコ・プリミティヴィズムは合わないな、と感じたのでした。ともあれタッカーがこれを書いたのは14年前、25歳当時です。現在の思想も追っていきたいところです。

2 comments

  1. 古代インドの修行における注意点で、仕事や近所付き合いといった俗世的な関わりがある限り絶対に上手くいかないのでそれを断つのがスタートラインである、というのを見たことがありますが、それにはここで言われている分断による家畜化のプロセスも関係しているのかもしれないと思いました。世界は実は一つのものであるというのもどことなくインド風です。
    ただ、あれって悟りの境地に至って初めて意味のある前提なんですよね。その前段階として分断されて分類された状態の世界を認識するプロセスが必要だと思いますし、その意味で野生の状態であれば自分と世界の区別はないというのはあまりにも乱暴だという気がしました。
    野生では自他の区別が無いとすれば世界の調和を保つためある種システマチックに食う/食われるの関係を繰り広げていることになりますが、そこには造物主が完璧なものとして世界を作ったというようなキリスト教的価値観が関係していたりとか…どうなんでしょう?
    思いつくままの長文乱文失礼しました。

  2. どうも、初めまして。
    「人間は画一的なものではなく、個人がある集団との間に大きな差異をもつのは普通のことである」
    このことを前提にしないと、議論を誤ることになるとぼくも思います。
    人間の画一性を前提とする「平等主義」は、家畜化をはかる側が上手に設定した近代合理主義の大きな罠に思えて仕方ありません。

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