2019-11-28

大いなる革命が起きようとしている。

テッド・カジンスキーの「The Coming Revolution」を訳しました。もとはスペイン語で、テッド自身が英訳したものを訳しています。 彼の著書「Technological Slavery」にも収録されています。

なお、脚注と最後のNotesは訳していません。脚注部分には印をつけましたので原文を参照してください。

Milford Sound, New Zealand –
Eugene von Guerard

来たるべき革命

大いに称賛されている技術進歩のすべて、そして文明全般は、病理的な犯罪者が手に持つ斧と比較することができる。

――アルベルト・アインシュタイン*

大いなる革命が起きようとしている。世界革命である。現代のもっとも重要なふたつの革命、フランス革命とロシア革命の起源を考えてみよ。18世紀のあいだ、フランスは君主制と世襲貴族制に支配されていた。このレジームは中世に起き、封建的概念と価値観を持っていた――槍と剣で戦う重騎兵の戦争に権力が依拠する農耕社会に適した概念と価値観。政治権力がますます王の手中に集まるようになるごとにそのレジームは修正されてきた。しかしそれは変わらぬ特徴を保持していた。すなわち、伝統的で世襲的な階級が権力と特権の独占を享受する保守的なレジームである。

一方で、社会進化の速度が加速し、18世紀までには異常なほど急速となった。新しい技術、新しい経済構造、新しい概念がやってきた。それはフランスの旧来のレジームがどう対処してよいかわからないものだった。商業、産業、そして技術の重要性の増大は、柔軟で急速な変化に適応できるようなレジームを要求した。したがって、権力と特権は、世襲ではなく才能や実績によって所有される社会的・政治的構造へと変化した。同時に他文化との接触によってあたらしい知識とともに新しい概念がヨーロッパに到来し、古い価値観と信条を弱めていった。いわゆる啓蒙主義の哲学者たちは新しい熱望と新しい不安を表現し、それを明確にしていた。つまり旧来のシステムと相容れない新しい価値観のシステムが発展したのである。1789年までに、フランスは自らを破壊しなければ新しい価値観に明け渡すことのできない旧来のレジームの支配下にあることに気づいた。世襲階級の支配を捨てなければこれら価値観を実践するのは不可能だからである。人間の本質とはそのようなものである、古いレジームにあった人々が、「進歩」と呼ばれるものに道を譲るために特権を手放すことを拒否するのは驚くことではない。したがって古い価値観と新しい価値観のあいだの緊張は、ブレーク・ポイントまで達して革命が起きるまで高まり続けるのである。

ロシアの革命前夜における状況はフランスに似ていたが、ロシアのレジームはさらに時代遅れで、後退的で、変わろうとしないものだった。さらにロシアでは、レジームと古い価値観を弱体化するための革命運動がねばり強く行われていた。フランスと同じように、ロシアの旧レジームは消滅しなければ新しい価値観に明け渡すことができなかっただろう。皇帝やレジームを構成した人々は必然的に特権を譲り渡すことを拒絶し、ふたつの価値観のシステムの対立は相容れないものであるため、革命が起きるほどに緊張が高まったのである。

今日の世界はフランスとロシア、各々の革命前夜の似た状況に近づきつつある。

いわゆる「進歩」――つまり、行きすぎた経済と技術の成長――と結びついた価値観は、旧来のレジームの価値観に挑戦しフランス革命とロシア革命を導く緊張を生みだしたのだった。「進歩」と結びついた価値観は、今度は別の支配体制の価値観となっている。すなわち今日の世界を支配する技術産業システムである。そして別の新しい価値観が生じ、今度はその技術産業システムの価値観に挑戦するようになった。新しい価値観は、技術産業的価値観と完全に共存不能なために、このふたつの価値体系の緊張は折衷によって緩和することはできない。技術の支持者が自発的に新しい価値感に屈しないことはたしかである。そうすれば彼らは生きる目的となっているすべてを犠牲にすることになる。彼らは屈服よりも死を選ぶだろう。新しい価値観が広がり十分に強大になると、革命が唯一可能な結果となる点まで緊張が高まる。そして新しい価値観が広がっており、強大に成長していると信じるには理由がある。

2.

18世紀の素朴な楽観主義によって、いくらかの人々が技術的進歩がユートピアをもたらすと信じた。哲学、科学、音楽、文学、その他の芸術のために、人間は労働の必要から解放されるのだと。言うまでもなく、判明した事実は異なる。

なにが起きたかを議論する前に、私が一番よく知っているアメリカについて特に語ろうと思う。米国は世界でもっとも技術的に先進した国である。他の産業化された国が進歩するときには、米国の描いた軌道とパラレルになるだろう。したがって、広く言えば、いくらかの留保はあるにせよ、今日のアメリカを語ることはほかの産業化された国の未来を語ることになると言える。*

知的で芸術的な営みを行う自由時間を提供するために技術的生産手段を使用するのではなく、今日の人々は、地位、特権、権力、おもちゃとしてのみ役立つ物質的蓄積の闘争に没頭している。平均的現代アメリカ人の熱中する芸術や文化はテレビ、映画、人気小説や雑誌から提供される類のものだ。そしてそれは18世紀の楽観主義者たちが考えたものとは正確には違っていた。実際的に、アメリカの大衆文化は単なる快楽主義、とくに愚劣な類の快楽主義に還元されている。「まじめな」芸術は存在するが、それは神経症的か、悲観主義か、敗北主義になりがちである。

予想されたとおり、快楽主義が幸福をもたらすことはなかった。快楽主義文化の霊的空虚さは多くの人々を深刻に不満足にさせた。うつ病、神経緊張、不安障害が蔓延し*、それら症状を緩和するため、または精神状態を変容させるために、多くのアメリカ人が(合法にせよ非合法にせよ)薬物に依存している。アメリカの社会的病の他の傾向は、たとえば児童虐待や頻繁な睡眠障害や摂食障害がある。そして、現代生活にもっともよく適応したように見えるアメリカ人のあいだでも、現今の社会に対する冷笑的態度が広まっている。

この慢性的な不満足と現代の人間の病んだ心理的状況は正常ではないし、人間存在に避けがたいものでもない。原始的な民族を理想化したり、現代的観点から不都合な事実、たとえば高い乳児死亡率や、ある文化における暴力的で好戦的な精神などを隠蔽する必要はない。そうであっても原始的人間が現代人よりも自分の人生に満足しているということ、また現代人がそうであるよりもはるかに心理学的な問題に苦しむことが少ないと信じる理由がある。たとえば、狩猟採集文化においては、彼らが産業社会の干渉に混乱させられる前には、児童虐待はほぼ存在しなかった。*そしてこれら文化のほとんどにおいて、不安や神経緊張は非常に少ないというエビデンスがある。*

しかし現代社会がもたらす危害にさらされているのは人間だけではない。自然に対する危害も考慮せねばならない。今日でさえ、現代人がときどきにしか自然に触れないとしても、自然、私たちの母は、彼らを引きつけて取りこみ、もっとも偉大でもっとも魅力的な美の風景を彼に与える。野生の自然界の破壊は、多くの人々に不安、混乱、そして恐怖さえ与える罪である。しかし、ここでは自然破壊について長く書く必要はない。事実はよく知られているのだから。すなわち草木ではなく舗装で覆われた大地、種の絶滅の異常な加速率、水質汚染と大気汚染、そして後者の結果として、地球の気候さえ変化をもたらし、その究極的な結果は予測不能であり、壊滅的な結果となる可能性がある。*

このことは、技術の無制限の成長がまさに人類種の生存を脅かすことを私たちに思い起こさせる。人間社会は、その世界的環境とともに、もっとも複雑なシステムを構築した。これほど複雑なシステムでは、特定の変化の結果を全般的に予測することは不可能である。*そして現代技術は人間社会にもっとも深い変化をもたらす過程のなかにおり、そのことは物理的生物学的環境についても同じである。それら変化の結果が予想できないものであることは、理論的だけではなく経験的にも実証されている。たとえば、現在でもそのメカニズムは決定されていないが、現代の変化がアレルギーの大流行を起こしたことを、事前に予想できたものはだれもいなかった。*

多かれ少なかれ安定した複雑なシステムがなんらかの重大な変化を通じて妨害されると、一般に不安定化をもたらし、したがって危害を結果としてもたらす。たとえば、生体組織の遺伝的変異は、(それが無意味な場合を覗いて)ほぼ常に有害であることが知られている。生体にとって有益であることは稀である。したがって、「生体」、つまり生物圏(地球上全生命の総体)にたいして技術がより大きな「変異」をもたらすにつれ、これら「変異」がもたらす危害はますます大きくなる。技術的進歩を通じて、かつてない大きさの変化を人間と地球のシステムにもたらすことは最高度の危険であり、無鉄砲で無分別であることは、愚か者以外はだれも否定しないだろう。

それでも、私は今後数十年以内に技術産業システム全体を崩壊させる全世界的な物理的生物学的災害を予想する者の一人ではない。このような災害リスクは現実的で深刻のものだが、現時点ではそれが実際に起きるかを知る由もない。しかしながら、この種の災害が起きないとしても、実質的に別種の災害は起きているのである。つまり私たちの人間性の喪失。

技術的進歩は人間の環境、文化、生活様式を変えるだけではない。それは人間そのものを変える。人間とは大部分が、住んでいるところの条件の産物だからである。将来、技術システムが発展を続けると想定すれば、人間の生活条件は、自らを変化させなければならなくなった前に生きていた条件と深刻に異なることになる。

自由への憧れ、自然への愛着、勇気、名誉、正直さ、道徳、友情、愛、そして他のすべての社会的本能……自由意思それ自体。これら人間の資質のすべては、人類種の夜明けから最高に価値づけられ、数千年にわたって進化し続けた。それは人々が生きていたプリミティヴな状況において適切で有用だったからである。しかし今日、いわゆる「進歩」が人間の生の状況を変えた、それらの資質は時代遅れで無用のものとなるほどに。その結果、それら資質は消えるか、私たちにとって異質な、なにか完全に違うものとなった。この現象はすでに観察することができる。アメリカの中産階級のあいだでは、名誉という概念は実質的に消え去り、勇気にはほとんど価値がないとされ、友情はほとんどつねに深さを失い、正直さは衰退している*。そして自由は、ある人々の意見では、ルールに従うことと同一化されている。これらは始まりのまた始まりに過ぎないことを心に留めておいてほしい。

人間は加速度的に変化しつづけると想定される。環境が突然変化したときには、生体の進化は非常に急速に起きるためである。それを超えて、人間は他の生体と同じく、生物工学の作用を通じて自分自身を変化させている。今日、いわゆる「デザイナー・ベイビーズ」がアメリカで流行している。特定の特徴、たとえば知性、運動能力、ブロンドの髪、高い身長、などもつ赤ちゃんがほしい女性は、それら特徴を持つ別の女性と合意を得る。後者の女性は卵子を提供する(通常、金銭と引き換えである――これでビジネスをする女性がいる)。それが前者の女性の子宮に移植されると、9ヶ月後に彼女は――希望された――望みどおりの子どもを産むことができる。*生物工学が進展するにつれ、卵子と精子細胞の遺伝子改変によって赤ん坊がよりデザインされていく*ことは疑いの余地はない。人間は自然の自由な創造物ではなく、計画され製造された製品に似るようになっていくだろう。人間がどうあるべきかという私たちの感覚にとって非常に不愉快である事実はさておいても、その社会的生物学的結果は深刻なもので、予見不可能である。したがって十中八九は悲惨なものである。

しかし、おそらくこれは長期的には問題とならないだろう。というのも人間がいつの日か時代遅れになる可能性が十分にあるからだ。数十年内にコンピューターの専門家が人間よりも高知能の機械をつくりだすと信じる著名な科学者たちがいる。もし実際にそうなるのであれば、人間は余計な存在、時代遅れの存在となり、システムはそれを処理する可能性が高い。*

このことが起きるかは確かではない。しかし、度をすぎた経済成長と狂人たち、技術の進歩がすべてを覆しつつあることはたしかであり、最終的な結果が厄災以外のものであると想像するのはほとんど不可能である。

産業化されてもっとも長い国々、イギリスやドイツ、とりわけ米国では、技術システムが私たちを破滅への道へと導いているという理解が広まっている。

1950年代、私が少年だったとき、実質的にだれもが進歩、経済成長、そしてなにより技術に喜んで、ときに熱狂的にさえ歓迎し、それが純粋に有益であるとなんの疑いもなく信じていた。私の知人のあるドイツ人は、当時のドイツでも同じ態度が流行していたと私に語った。産業化された世界のいたるところで同様に事実であると私たちは想定してよいだろう。

しかし、時が経つにつれてこの態度は変化していった。言うまでもなく、ほとんどの人々は技術に反抗しようとはしない。彼らはあえて自分のマインドにそれを適用しようとはしないのだ。考えることなく受けいれてしまう。しかしアメリカでは、とりわけ思慮深い人々――自分が生きている社会の問題をあえて真剣に受けとめる人々――の間で、技術に対する態度は深く変化し、また変化し続けている。技術にたいして熱狂的になる人々は、一般的にそれから個人的に利益を得る人物である。たとえば科学者、エンジニア、軍人、企業幹部など。ほかの大多数の人々は、無気力であるか冷笑的である。彼らはいわゆる進歩がもたらす危険と社会荒廃を知っているが、彼らは進歩が避けられないもので、それに対抗するあらゆる挑戦が無益だと考えている。

それでも、悲観的でも受動的でもないかなりの数の人々が、特に若者たちに増えている。彼らは自分の世界の破壊を受け入れることを拒否し、既存の技術産業システムのくびきから解放する新しい価値観を探し求めている。*この運動はまだ形がないもので、まだ定まりはじめてもいない。新しい価値観もまた漠然としており、よく定義されているわけでもない。しかし技術が狂気と破壊の道をすすむにつれ、またその損害がますます明白で不愉快になるにつれて、その運動が成長して堅固となり、その価値観を再強化し、より正確な形になると期待すべきである。これらの価値観は、現在の外観とそのような価値観が論理的にどうあるかから判断すると、おそらく次のような形をとるだろう。

  • すべての現代技術の拒絶。これは論理的必然である。現代技術はすべての部分が相互に接続されているためである。良い部分を諦めることなく、悪い部分を除去することはできない。複雑な生体のように、技術的システムは生きるか死ぬかである。少しの時間でも、半分死んで半分生きるということはありえない。
  • 文明それ自体の拒絶。これもまた論理的である。現在の技術文明は進行中の文明の最新の段階に過ぎないからである。初期の文明にはつねに悪の種が含まれていたために、今日においてはより強大で危険となっている。
  • 物質主義の拒絶。*地位や財産を得ることを非難し、節度ある生活と自己充足を重視する人生の概念への置換。物質主義の拒絶は、技術文明の拒絶の必要な部分である。なぜなら技術文明のみが現代の人間が中毒している物質的商品を生みだせるからである。
  • 自然への愛と敬意、あるいは崇拝。自然は、自然に死を脅かす技術文明の反対である。したがって技術の否定的価値観に反対し、自然について肯定的価値観を対置することは論理的である。さらに、自然への敬意や崇拝は、現代社会の精神的空隙を埋めることもできるだろう。
  • 自由の向上。現代文明が私たちから奪ったもののなかで、自由と、自然との密な関わりがもっとも重要なものである。実のところ、人類種が文明に屈服して以来、反逆者や革命家のもっとも頻繁でもっとも執拗な要求が自由であった。
  • 現状の責任者たちの処罰。技術的進歩と経済成長を意識的・意図的に促進する科学者、エンジニア、企業幹部、政治家といった人々は最悪の類の犯罪者である。彼らは、今日のテクノフィル(技術愛好家)がしていることを夢にも見なかったスターリンやヒトラーよりもなお悪い。したがって、正義と処罰が要求されるだろう。

技術産業システムに反対する運動は、多かれ少なかれ上記の価値観群に似たものを発展させるはずだ。そして実のところ、そのような価値観の出現を示す多くのエビデンスがある。明らかにこれら価値観は技術文明の生存とは完全に相容れないものである。先のフランス革命とロシア革命の前にあった価値観が旧来のレジームと両立できなかったように。技術産業システムがよる損害が増大していくにつれて、それに反対する新しい価値観がより拡大し増強することが予想される。技術的価値観と新しい価値観のあいだの緊張が十分に高まれば、そして適切な状況になれば、フランスとロシアで起きたことは再び起きるだろう。革命が勃発するのである。

4.

しかし、私は革命を予言するのではない。それは起きるかどうかはまだ不明である。革命を妨害する要因はいくつかあるが、とりわけ次のようなものがある。

  1. 革命の可能性にたいする信念の欠如。ほとんどの人々は既存のシステムがびくともしないものであり、その進む道からそらすことはできないものと考えている。革命が現実的に可能であるかもしれないと彼らが考えることはない。歴史が示すところでは人間はふつう、どれほど暴虐であっても、あらゆる不正義に耐えるものである、もし周囲の人々が服従しており、だれもが抜け出す方法がないと信じている場合は。一方で、いったん脱出の希望が生じると、多くの場合に革命が起きる。したがって逆説的だが、技術産業システムに対する革命の最大の障壁は、まさにそのような革命が起きるはずがないという信仰なのである。もし十分な人々が革命が可能だと信じるようになれば、それは現実に可能になるのである。
  2. プロパガンダ。技術社会はプロパガンダのシステムを所有している。これは現代のコミュニケーション・メディアによって可能となっている。あらゆる前社会よりもそれは強力で効果的となっている。*このプロパガンダのシステムは、技術産業的価値観を弱体化するという革命的なタスクの実現をさらに困難にする。
  3. エセ革命家。現在、現実には既存のシステムの転覆にコミットしていないにも関わらず、自らを反逆者であると誇る人々があまりにも多すぎる。彼らは自分の心理的必要を満足させるために単に反逆者や革命家を演じているにすぎない。これらエセ革命家は、実効的な革命運動の出現に障害をもたらす可能性がある。
  4. 臆病。現代社会は私たちに受動的で従順であるよう、そして物理的暴力に恐怖を感じるよう教え込んだ。さらに、現代社会の状況は怠惰、柔弱さ、臆病さを助長している。革命家にならんとするものは、これらの弱さを克服しなければならない。

訳者あとがき

テッド・カジンスキー(本名:セオドア・カジンスキー/通称:ユナボマー)は、元数学者、元隠者、元爆弾テロリスト。爆弾テロで3人殺して8回分の終身刑を受けました。

物騒で危険な人物ですが、同時に類稀な知性を持っており、私が同時代に生まれて幸運だと思うひとりです。

本論でも、いわゆるラッダイトともグリーン・アナーキズム(あるいはエコ・アナーキズム)とも異なる独特な革命思想が展開されています。

一般に革命といえば共産主義や社会主義が想起されますが、彼は「技術産業システムの崩壊」をもたらす革命の可能性を主張しています。これはかなり独特な主張です。彼は技術をトータルな生体と考え、それを「殺す」ことを目的としています。

彼が例にあげているのはフランス革命とロシア革命のような人民革命です。そのときと同じような革命が起きる、その機運が高まっていると考えています。

現状、環境主義的、反文明的な思想はアメリカが中心であり、「産業技術を殺す」という彼の思想は、日本にいると突飛に思えます。

ですが、現今の不幸や疎外の大部分が技術がもたらしたものであるという考え方や、技術を殺して革命を実現するためには暴力的革命が必要であるという考え方は、まったく合理的で正当であるように思われます。

正直言うと、テッドの革命思想はかなりぶっとんだ思想ですが、現実に起きそうな気がしています。人類学を中心に、「文明が人類にとって厄災だった」というような認識は、急速に広まってきているからです。

ところで、いま私は無職で150万円で買った空き家に住んでおり、「物質主義の拒絶。地位や財産を得ることを非難し、節度ある生活と自己充足を重視する人生の概念への置換」という思想には大いに共感します。

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